第17話 帳場の置き土産
午前0時を過ぎた頃、翔太は限界を感じていた。
じっと座っているだけなのに、全身が緊張で強張り、激しい疲労を感じる。恐怖というのは、それだけで体力を消耗させるものだ。
何より、じっとしていることが精神的に辛い。
何か行動を起こさなければ、恐怖に押し潰されてしまう。
翔太は、意を決して立ち上がった。
この旅館について、もっと情報が必要だ。失踪者たちの手がかりも探さなければ。それが、ここに来た目的ではないか。
タンスを少しずらし、ドアを細く開ける。
廊下を覗く。
誰もいない。
懐中電灯を手に、部屋を出る。
足音を立てないよう、慎重に廊下を進む。絨毯が敷かれているおかげで、足音は吸収される。
目指すは、フロント。
何か記録が残っているかもしれない。あの宿帳や、書類など。
廊下の角を曲がる度に、心臓が跳ね上がる。もし、「奴ら」と鉢合わせしたら...
だが、幸運にも、誰とも遭遇しなかった。
いや、誰もいないのではない。
確実に、どこかで見られている。ただ、まだ手を出さないだけ。
フロントに到着。
カウンターの向こう側に回り込む。
埃っぽいが、書類などは残っている。引き出しを開けてみる。
古い領収書、請求書、そしてテーブルの上にあった...
「宿帳...」
表紙には金文字で「御宿帳」と記されている。
パラパラとページをめくる。
昭和50年代、60年代の記録が並ぶ。達筆な筆文字で、宿泊者の名前と住所が記されている。
田中一郎 東京都 山田花子 神奈川県 佐藤家御一行 埼玉県
普通の観光客たちの記録。この頃は、まだ普通の温泉地だったのだろう。
ページを進めていくと、ある時期から記録が途絶えている。
昭和62年4月以降、白紙のページが続く。
町が廃墟化した時期と一致する。
だが、最後のページまでめくった時、翔太は息を呑んだ。
新しい記述があった。
それも、明らかに最近のもの。インクがまだ乾ききっていないような...
宿泊日:2024年3月20日 名前:旅人 備考:猫の目を見てはいけない。見てしまったら、もう——
文章は、そこで途切れていた。
3月20日。@ruins_seekerが失踪した日だ。
間違いない。彼は、ここに来ていた。この旅館に泊まっていた。
そして、何かに気づいた。「猫の目を見てはいけない」という警告を残すほどの、何かに。
翔太は、宿帳を持ったまま、しばし呆然とした。
インクの状態を確認する。指で軽く触れてみる。
指先に、黒いインクが付着した。
まだ、完全に乾いていない。
だが、それはおかしい。4日も前に書かれたものが、なぜ...
背筋に、冷たいものが走る。
これは、4日前に書かれたものではない。
もっと最近...いや、もしかしたら、つい数時間前に書かれたものかもしれない。
では、誰が?
@ruins_seekerは、既に失踪している。彼が書いたはずがない。
それとも...
恐ろしい考えが、頭をよぎる。
失踪したと思われていた人々は、実はまだこの町のどこかにいるのではないか。
ただし、もう人間としてではなく。
別の「何か」として。
そして、時折、かつての記憶の断片を思い出し、こうして警告を残そうとするのではないか。
再び目に入る、蛍光ペンで書かれた相沢美久の楽観的なメッセージ。
『相沢美久、お前...一体何者なんだ...」
翔太は、宿帳を閉じた。
とりあえずこれ以上、ここにいるのは危険だ。
部屋に戻ろうとした、その時。
フロントの奥の事務室から、かすかな光が漏れているのに気づいた。
ろうそくの光のような、オレンジ色の揺らめく光。
さっきまでは、なかったはずだ。
誰かが、火を灯したのか。
翔太は、恐怖と好奇心の間で葛藤した。
見るべきか、見ざるべきか。
配信者としての性が、また頭をもたげる。
これは、重要な手がかりかもしれない。真実に近づくチャンスかもしれない。
意を決して、事務室のドアに近づく。
ドアは、わずかに開いている。
隙間から、中を覗く。
そこには...