第16話 眠れぬ夜の監視者
午後10時。
翔太は、部屋の隅に移動し、壁を背にして座っていた。入り口のバリケードを視界に収め、窓の方向も確認できる位置。少しでも防御的な体勢を取ろうとしていた。
二階からの音は、あれ以来聞こえない。だが、それがかえって神経を逆撫でする。
静寂は、時として騒音よりも耐え難い。
特に、その静寂の向こうに、確実に「何か」が潜んでいると分かっている時は。
翔太は、寝袋を取り出した。さすがに、古い布団を使う勇気はない。何が付着しているか分からない。
寝袋に入るが、もちろん眠る気はない。ただ、体温を保つためだ。夜の冷え込みは、体力を奪う。
カメラのバッテリーを確認。残量62%。予備バッテリーと合わせれば、朝までは持つだろう。
モバイルバッテリーも、まだ余裕がある。最悪、スマートフォンでの撮影に切り替えることも可能だ。
「大丈夫だ...朝まで持ちこたえれば...」
自分に言い聞かせるように呟く。
だが、本当に朝は来るのだろうか。この異常な町で、太陽は昇るのだろうか。
ふと、窓の方を見る。
カーテンの隙間から、外の様子が僅かに見える。
真っ暗だ。
月明かりすらない、完全な闇。
いや、違う。
よく見ると、闇の中に、無数の小さな光が浮かんでいる。
緑色の、燐光のような光。
それらは、規則正しく点滅している。まるで、呼吸に合わせて明滅しているかのように。
翔太は理解した。
あれは、目だ。
無数の目が、旅館を取り囲んでいる。そして、皆、この部屋を見つめている。
カーテンの隙間という隙間から、「奴ら」の視線が注がれている。
もはや、外に逃げることは不可能だ。
完全に、包囲されている。
翔太は、カーテンから目を逸らした。見ていると、気が狂いそうになる。
時間を確認。午後10時30分。
朝まで、まだ7時間以上ある。
途方もなく長い時間に思える。1分が1時間のように感じられる。
その時、新たな音が聞こえてきた。
今度は、二階からではない。
廊下からだ。
この階の、廊下を何かが歩いている。
コツ、コツ、コツ...
二本足の足音。だが、人間の歩き方とは微妙に違う。歩幅が一定でない。リズムも不規則。まるで、二本足歩行に慣れていない何かが、ぎこちなく歩いているような。
足音は、ゆっくりと近づいてくる。
翔太の部屋の前で、止まった。
息を殺す。
心臓の音が、うるさいほど聞こえる。相手にも聞こえているのではないかと思うほど。
ガチャ。
ドアノブが回される音。
だが、ドアは開かない。内側からタンスでバリケードしているから。
ガチャガチャ。
今度は、激しく回される。
それでも、開かない。
沈黙。
そして。
コツ、コツ、コツ...
足音が、遠ざかっていく。
翔太は、安堵のため息をついた。
だが、安心するのは早かった。
足音は、隣の部屋で止まった。
ガチャ。
隣の部屋のドアが開く音。
そして、何かが部屋に入っていく気配。
ガサゴソという物音。何かを探しているような。
壁一枚隔てた向こうで、「それ」が動き回っている。
壁に耳を当てたい衝動に駆られるが、翔太は必死に我慢した。知らない方がいいこともある。
5分ほどして、隣の部屋から「それ」が出ていく音がした。
そして、また次の部屋へ。
どうやら、「それ」は部屋を一つずつ確認しているらしい。
翔太の部屋は、既にチェック済み。開かないと分かって、後回しにされたのだろう。
だが、それは一時的な猶予に過ぎない。
「奴ら」は、翔太がここにいることを知っている。
そして、朝まで待つつもりなのだろう。
疲労と恐怖で、朦朧としてきた頃に。
あるいは、堪えきれずに自分から出てくるのを待っているのかもしれない。
時間は、「奴ら」の味方だ。