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第15話 静寂の中の物音

旅館の内部は、想像していたよりも保存状態が良かった。


玄関を入ってすぐのロビーは、昭和の温泉旅館そのままの雰囲気を残している。フロントには黒電話と帳場があり、壁には色褪せた観光ポスターが貼られている。「祢古町温泉郷へようこそ」「猫と共に暮らす町」といった文字が、皮肉めいて見える。


ロビーのテーブルに宿帳が置いてあった。翔太は宿帳のページを、震える手でめくる。


「...は?」


昨日の日付。蛍光ペンで書かれた女性の名前と、信じられないほど楽観的なメッセージ。


『相沢美久』

『猫カフェ巡りで訪問♪』

『素敵な町です!みんな優しい(=^・^=)』


「猫カフェ...巡り...?」


翔太は、自分の目を疑った。この異常な町で、猫カフェ巡り?みんな優しい?


正気とは思えない。いや、もしかしたら既に「変化」した後で、過去の記憶で書いたのか?でも、筆跡はしっかりしている。理性的な人間が書いた文字だ。


「この女...一体何者だ...」


猫の顔文字を見て、翔太は薄ら寒いものを感じた。この状況を理解していないのか。それとも、理解した上で受け入れているのか。


どちらにしても、正常ではない。


ふと、彼女の文字から、微かに花のような香りがする気がした。廃駅で感じたのと同じ、場違いな優しい香り。


翔太は、宿帳を閉じた。


翔太は、懐中電灯で周囲を照らしながら、慎重に奥へ進んだ。


床は埃っぽいが、歩くのに支障はない。むしろ、定期的に掃除されているような、妙な清潔感すらある。


廊下を進み、客室を確認していく。


最初の部屋は、襖が破れていた。中を覗くと、畳が腐って床が抜けている。使い物にならない。


次の部屋は、天井から雨漏りしていた。部屋中にカビの臭いが充満している。


三つ目、四つ目...


どれも、何かしらの問題があった。


そして、廊下の一番奥。


角部屋の引き戸を開けると、そこは奇跡的に無傷だった。


六畳間の和室。畳も比較的きれいで、障子は破れているものの、窓には厚いカーテンが残っている。押入れもあり、中には古い布団まで入っていた。


「...ここにしよう」


翔太は、部屋に入り、すぐに引き戸を閉めた。鍵はないが、タンスを動かして入り口を塞ぐ。即席のバリケードだ。


カーテンを閉め、外からの視線を遮断する。


ようやく、少しだけ安心感が湧いてきた。


バックパックを下ろし、中身を確認する。


非常食のカロリーバー、500mlの水が3本、モバイルバッテリー、予備の懐中電灯...


最低限の装備はある。朝まで籠城することは可能だ。


翔太は、部屋の中央に座り込んだ。


疲労が、どっと押し寄せてくる。緊張の糸が緩み、全身の筋肉が脱力する。


空腹も感じる。朝から、ほとんど何も食べていない。


カロリーバーを取り出し、包装を破る。パサパサとした食感。味気ない。だが、今はそれすらありがたい。


水で流し込みながら、今日撮影した映像を確認する。


α6400の小さなモニターに、昼間の祢古町が映し出される。廃墟の街並み、動く三輪車、そして薬局での...


翔太は、再生を止めた。


薬局の映像は、後でゆっくり確認しよう。今は、精神的な余裕がない。


時計を見ると、午後7時。


まだ宵の口だ。朝までは、長い。とてつもなく、長い夜になるだろう。


その時だった。


カリ、カリカリ...


二階から、音が聞こえてきた。


翔太の動きが止まる。全身の神経が、天井の一点に集中する。


何かが、床を引っ掻いている。


それも、規則正しいリズムで。まるで、意図的に音を立てているかのように。


カリ...カリカリ...ガリッ。


音が、少しずつ大きくなっていく。そして、数も増えていく。


最初は一カ所だけだったのが、二カ所、三カ所...


やがて、二階全体から聞こえるようになった。


何十という爪が、同時に床を引っ掻いている。その音が、木造建築に響き渡り、翔太のいる一階まで伝わってくる。


「なんだよ...これ...」


震え声で呟く。


恐怖で身体が硬直し、動くことができない。ただ、天井を見上げ、音に耳を澄ますことしかできない。


そして、気づいてしまった。


音が、パターンを持っていることに。


カリカリ、カリカリカリ、カリ、カリカリ...


まるで、モールス信号のような。いや、もっと原始的な、動物同士のコミュニケーションのような。


カリカリカリ...


「くそ...くそ...」


その時、どこからか楽しそうな声が聞こえてきた。女性の声。昔話を語っているような、優しい声音。


「は...?」


そして、複数の猫たちの嬉しそうな鳴き声。まるで、和やかな家族団欒のような雰囲気。


「なんで...なんでそんなに楽しそうなんだよ...」


この異常な状況で、昔話?信じられない。


それは、宿帳で見た『相沢美久』か?猫カフェ巡りと書いていた、あの能天気な女か?


「頭おかしいのか...それとも...」


もう一つの可能性が、翔太の脳裏をよぎる。もしかしたら、彼女は既に「変化」しているのかもしれない。人間の姿を保ちながら、精神は猫になっているのかも。


だとしたら、あの楽しそうな声も納得がいく。もう、恐怖を感じる人間の心を失っているのだから。


ふと、鈴の音が聞こえた。


チリン...


なぜか、その音を聞いた瞬間だけ、恐怖が和らいだ。まるで、清らかな祈りが届いたかのように。


「なんだ...この感覚...」


だが、すぐに現実に引き戻される。二階の爪音が、また始まった。


「奴ら」が、何かを伝え合っている。


獲物の位置を。


獲物の状態を。


そして、いつ「狩り」を始めるかを。


翔太は、震える手でカメラを構えた。


録画ボタンを押す。これが最後の映像になるかもしれない。だが、記録は残さなければ。それが、配信者の矜持だ。


「現在、午後7時15分...」


掠れた声で、状況を説明し始める。


「俺は、旅館の一階に籠城している。二階から、正体不明の音が...」


言葉を続けようとした、その時。


ピタリと、音が止んだ。


二階が、完全に静寂に包まれる。


それは、さっきまでの音よりも、遥かに不気味だった。


まるで、獲物が録音していることに気づいて、証拠を残さないために沈黙したかのような。


翔太は、息を殺して耳を澄ます。


1分。


2分。


3分。


何も聞こえない。


だが、確実に「奴ら」はそこにいる。二階で、息を潜めて、次の行動を計画している。


そして、翔太には分かっていた。


この沈黙は、嵐の前の静けさに過ぎないということを。

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