第14話 宵闇の聖域
太陽が西の山の稜線に隠れ始めたのは、午後5時を少し過ぎた頃だった。山間の谷底にある祢古町は、平地よりも日没が早い。オレンジ色の残光が廃墟の屋根を撫でていくと、影が生き物のように長く伸びて、建物の輪郭を飲み込んでいく。
翔太は、薬局から這うように逃げ出した後、メインストリートの中央で立ち尽くしていた。
呼吸が整わない。肺が、見えない手で握り潰されているような息苦しさ。額から流れる冷や汗が、顎を伝って地面に落ちる。
ポタッ。
その音さえ、静寂の中では異様に大きく響いた。
見上げると、空が不自然な速さで色を変えていく。オレンジから赤へ、赤から紫へ、そして墨を流したような黒へ。まるで、早回しの映像を見ているような、時間の加速。
そして、闇の到来と共に、「彼ら」の気配が濃くなっていく。
昼間は、視線を感じる程度だった。だが今は違う。確実に、何かが動き始めている。廃屋の窓の奥で、路地の闇の中で、屋根の上で。
カサッ。
右手の廃屋から、物音。
翔太が振り向くと、割れた窓ガラスの向こうに、緑色に光る二つの点。
カサカサッ。
今度は左から。民家の軒下に、また光る目。いや、一対ではない。二対、三対、次々と現れる。
「くそっ...」
翔太は、焦りを押し殺しながら周囲を見回した。
日が完全に沈む前に、どこか安全な場所を見つけなければ。この調子では、夜の闇に飲み込まれて、二度と朝日を見ることはできないだろう。
甘く見ていた。
昼間の探索で得た情報と映像に満足し、日帰りで済ませるつもりでいた。だが、この町は、そんな生易しい場所ではない。ここは、人間のための場所ではないのだ。
「どこか...建物の中に...」
震え声で呟きながら、必死に避難場所を探す。
商店街を見渡すと、奥に一際大きな建物が見えた。三階建ての、堂々とした造り。他の建物よりも、保存状態が良さそうだ。
看板を目を凝らして読む。
『猫啼温泉 歓迎旅館』
旅館。それも、温泉旅館。
翔太の中に、僅かな希望が芽生える。旅館なら、部屋もあるし、鍵もかけられる。布団だってあるかもしれない。少なくとも、路上で夜を明かすよりはマシだ。
「よし、今夜はあそこをキャンプ地にする」
カメラに向かって宣言する。もう、録画する余裕もないが、配信者としての習性は染み付いている。
旅館までの距離は、50メートルほど。
たった50メートル。
だが、その道のりが、果てしなく遠く感じられる。
一歩踏み出すと、周囲の闇がざわめいた。
見えない何かたちが、一斉に注目している。獲物が動いた。さあ、狩りの時間だ。そんな無言の合図が、闇の中で交わされているような。
二歩目。
廃屋の二階から、ガタンと音がする。何かが、窓に激突したような。
三歩目。
路地の奥から、低い唸り声。いや、唸り声というより、喉を鳴らすような...猫が威嚇する時の、あの音。
だが、音の大きさが異常だ。普通の猫の何倍もある個体でなければ、こんな音は出せない。
翔太は、走りたい衝動を必死に抑える。
走ったら、終わりだ。
獲物が逃げ出したと認識されたら、一斉に襲いかかってくるだろう。今はまだ、観察されているだけ。品定めをされているだけ。
だから、歩く。
一歩、また一歩。
冷や汗が、全身から噴き出す。シャツが肌に張り付いて、不快極まりない。心臓が、胸郭を破りそうなほど激しく脈打つ。
20メートル。
半分も来ていない。
そして、太陽が完全に山の向こうに消えた。
最後の残光が消え、本物の闇が町を支配する。
街灯などない。月明かりも、厚い雲に遮られている。完全な、闇。
翔太は、懐中電灯を取り出した。
震える手でスイッチを入れる。白い光の輪が、闇を切り裂く。
その瞬間。
「ひっ...!」
光の輪の中に、無数の目が浮かび上がった。
道の両側、建物の窓、屋根の上、電柱の上...
どこもかしこも、緑色に光る目、目、目。
全て、翔太を見つめている。
しかも、その目の高さがおかしい。地面すれすれのものもあれば、2階の窓のものもある。まるで、大きさの異なる何かが、至る所に潜んでいるかのよう。
いや、違う。
よく見ると、目の配置が変化している。
低い位置にあった目が、するすると上昇していく。まるで、四つ足から二本足に立ち上がったかのように。
翔太は、もう我慢できなかった。
残り30メートルを、全力で走る。
ダッダッダッ!
革靴が、アスファルトを蹴る音。それに呼応するように、周囲の闇が動いた。
ガサガサガサ!
カタカタカタ!
ドタドタドタ!
無数の足音が、翔太を追いかけてくる。四つ足の軽快な音、二本足の重い音、そしてその中間の、聞いたことのない奇妙なリズムの音。
だが、不思議なことに、追跡者たちは一定の距離を保っている。捕まえようと思えば捕まえられるのに、あえて距離を置いている。
まるで、旅館まで追い込んでいるかのように。
翔太は、旅館の玄関に飛び込んだ。
引き戸は、鍵がかかっていなかった。力任せに開け、中に転がり込む。そして、すぐさま戸を閉める。
ガラガラガラ、ピシャン!
背中を戸板に押し付け、荒い息を整える。
外から、無数の気配が伝わってくる。戸の向こうに、「彼ら」が集まっている。
だが、なぜか戸を破ろうとはしない。
ただ、じっと待っている。
まるで、招かれざる客が、自ら罠に飛び込んだことを確認しているかのように。