第13話 記録されない影
「よし、ここで一旦、現状報告しておくか」
翔太は、比較的見通しの良い交差点で立ち止まった。四方を廃墟に囲まれているが、少なくとも退路は確保できる場所だ。
バックパックから三脚を取り出し、手際よく組み立てる。α6400をセットし、画角を調整。背景に廃墟の街並みが映り込むベストなポジションを探る。
「どうも、ゴーストハンターです」
カメラに向かって、いつもの調子で語りかける。誰も見ていないことは分かっている。だが、この「演技」が、正気を保つ唯一の方法だった。
「今、俺は祢古町の中心部と思われる場所にいます」
手振りを交えながら、周囲の様子を説明する。
「見てください、この異様な光景を。町全体が、時が止まったかのように...」
言葉を切る。
本当に、時が止まっているのかもしれない。いや、止まっているのではなく、別の時間が流れているような。過去と現在が混在し、生と死の境界が曖昧になったような。
「えー、これまでの探索で分かったことですが」
プロの配信者として、情報を整理して伝える。
「この町は、少なくとも数年前には既に廃墟化していたようです。しかし、奇妙なことに、生活の痕跡が新しい。まるで、つい最近まで人が住んでいたかのような...」
撮影しながら、ふと違和感を覚える。
ファインダーの端に、何かが映り込んでいるような。
いや、気のせいだ。集中しろ。
「失踪した人の行方は、まだ分かりません。しかし、必ず手がかりを見つけて...」
また、違和感。
今度は確実に、何かがフレームに入ってきている。背景の廃墟の、薬局の入り口あたりに。
撮影を続けながら、さりげなく視線を向ける。
何もいない。
暗い入り口があるだけ。
「...とにかく、調査を続けます。次は、個々の建物の内部を...」
言葉が止まる。
モニターに映る映像に、確実に「それ」がいた。
薬局の暗い入り口の中に、人影が立っている。逆光でシルエットになっているが、人の形をしているのは間違いない。
じっと、こちらを見ている。
翔太は、撮影を中断した。
薬局を振り返る。
誰もいない。
暗い入り口があるだけ。奥は真っ暗で何も見えない。
もう一度、カメラのモニターを確認する。
今撮ったばかりの映像を再生。早送りで、人影が映った部分を探す。
あった。
確かに、映っている。
コマ送りで確認。1フレーム、2フレーム、3フレーム...全部で7フレーム、約0.3秒間、確実に人影が映り込んでいる。
しかも、よく見ると、その人影は微妙に動いている。
最初は直立。次に少し前傾。そして、四つ足になりかけたような中途半端な姿勢。最後は、また直立。
まるで、人間と別の何かの間で、形を変えているような。
「撮れた...」
震え声で呟く。
これは、とんでもないものを撮影してしまった。心霊写真や心霊動画の比ではない。明確に、この町の「住人」の姿を捉えた。
恐怖と同時に、配信者としての興奮が湧き上がる。
これは、伝説になる。間違いなく、100万再生は行く。いや、もっとだ。テレビ局から取材が来るかもしれない。失った栄光を、すべて取り戻せる。
翔太は、意気込んで薬局に向かった。
もっと鮮明に撮影する。できれば、正体を突き止める。それが、配信者の使命だ。
薬局の前に立つ。
「猫田薬局」の看板が、風もないのにかすかに軋む音を立てる。
入り口の奥は、真っ暗。外の光が、1メートルも届かない。まるで、光を吸い込むブラックホールのような闇。
「おい、誰かいるのか!」
闇に向かって叫ぶ。
返事はない。
ただ、微かに、息遣いのような音が聞こえたような気がした。
いや、それは自分の呼吸音だ。緊張で、息が荒くなっている。
カメラを構え、録画ボタンを押す。
「ゴーストハンター、これより薬局内部に侵入する」
一歩、闇に足を踏み入れる。
その瞬間、全身の毛が逆立った。
温度が、10度は下がったような体感。そして、濃密な獣臭。いや、獣というより、もっと別の...人間と動物が混じったような、吐き気を催す臭い。
懐中電灯を点ける。
光の輪が、店内を照らし出す。
棚が整然と並んでいる。薬の箱が、埃を被ったまま陳列されている。床には、ガラスの破片が散乱。
そして、その床に。
無数の足跡。
四つ足の跡と、二本足の跡が、混沌と入り混じっている。まるで、ここで何かが踊り狂ったかのような、異様な模様を描いている。
さらに奥へ。
レジカウンターの向こうに、調剤室への扉が見える。半開きになっている。
近づくにつれて、臭いがきつくなる。
そして、音。
カリカリカリ...
何かを引っ掻くような音が、扉の向こうから聞こえてくる。
翔太は、震える手で扉に触れた。
ゆっくりと、押し開ける。
ギィィィ...
蝶番の軋む音が、静寂を切り裂く。
中を、懐中電灯で照らす。
調剤台、薬品棚、事務机...
そして、部屋の奥の壁一面に。
「なんだ...これ...」
爪痕。
無数の爪痕が、壁を覆い尽くしていた。まるで、何かが必死に脱出しようとしたかのような。いや、違う。よく見ると、それは無秩序な引っ掻き傷ではない。
文字だ。
爪で刻まれた、無数の文字。
『たすけて』
『にんげんにもどして』
『なまえをかえして』
『もういや』
『たべられたくない』
震えるひらがなの羅列。子供が書いたような、拙い文字。
だが、その位置がおかしい。
床から天井まで、壁一面に刻まれている。人間には届かない高さまで。まるで、壁を這い回りながら書いたような。
そして、最も新しいと思われる文字。
まだ、木屑が床に落ちている。つい最近刻まれたような。
『つぎはだれ』
翔太は、後ずさりした。
その時、背後で物音がした。
振り返る。
調剤室の扉が、完全に閉まっていた。
さっきまで半開きだったはずの扉が。
慌てて駆け寄り、ドアノブを回す。
回らない。
鍵がかかっている。内側から。
でも、この部屋には自分しかいない。
いや。
本当に、自分だけか?
翔太は、ゆっくりと室内を見回した。
薬品棚の影、調剤台の下、天井の梁...
どこかに、何かが潜んでいるような気がする。
いや、気がするではない。
確実に、いる。
息を殺して、じっと様子を窺っている何かが。
そして、それは。
もうすぐ、動き出す。