表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/8

8 別れ

 高校三年の夏休みはあっという間に過ぎていく。

 海水浴客は浜から消え、あんなににぎわっていた海の家も、何もなかったかのように廃墟へと戻った。


 夏休みも終わりそうだというのにうんざりするほど暑い。もう一月くらい休みでもいいと思うくらいだが、受験のための補習があって、毎日のように学校に通わねばならなくて、それがますます私をうんざりさせた。


 学校ではいつもと変わらぬつまらない日常が流れていく。黒板前にはいつものように女子生徒がたむろして、おしゃべりに興じている。一つだけ違うのは、彼女らの中心に陽奈がいないことだった。


 教室の隅の窓側の席で頬杖をついていた私は、女子たちの会話に耳を澄ませる。


 誰と誰がつきあっている。

 何とかさんの数学の点数がめっちゃよかった。

 何組の子がかっこいい。

 恋の話。部活の大会の話……。


 どんなに聞いていても、陽奈の話題はでてこない。今日来ていないのも、具合が悪いからということになっている。みんな知らないのだ。彼女が引っ越すことを。その日が、今日であることを。あの日陽奈は教えてくれなかったけど、私は知っている。私だけが知っている。どうやって知ったのか詳しくは言えない。強いて言うなら一色財閥の力だ。


 廊下を、蓮が歩いていくのが見えた。もちろん彼もそれを知らない。私は机に手をついて立ち上がり、教室から出て彼を追いかけた。


「蓮。海を、見に行かない?」


 蓮に追いつくや、躊躇せずに誘った。


「え? どうしたの」


 振り返った蓮は私の剣幕に戸惑いをみせる。


 廊下をすれ違う同級生たちはみんな、私を大きく避けて足早に去っていく。私のほうをうかがいながらこそこそ話をしていた女子が、あわててトイレに身を引っ込める。たまたま通りがかった一年生が私を見るや、とたんに怯えた表情になって、一目散に逃げだした。そんな周囲の状況なんか構わずに、私はつづけた。


「話したいことがあるの」


 私の発した切実な声に、蓮の表情が引き締まる。

 真剣な彼の目と目が合う、と同時に私は彼の腕をつかんで強引に引っ張った。



     〇



 バスから降りて町を歩き海辺に出ると、潮の香りと潮騒が私たちを押し包んだ。目の前には海浜公園と、圧倒的に広い海。まっすぐに伸びる水平線。海の色よりわずかに淡い色の空には、ふわふわの白い雲の塊がいくつか漂っていた。


 海浜公園に沿って少し歩いたところで私と蓮は足を止めた。どちらかがそうしようと言ったわけではなく、ほぼ同時に、お互い申し合せたように。振り返り、公園の人魚像の向こうに広がる海を眺める。海は凪いでいて、晩夏の昼下がりの陽の下に、黄色いきらめきを漂わせていた。


 そのきらめきの中を、蓮と過ごした幼い日々の思い出が、次から次へと駆け抜けていった。


 毎日一緒に学校に通ったこと。

 教室でいじめられていた私をかばってくれたこと。

 毎年七夕飾りを一緒に飾ったこと。

 家の前の路地で肩寄せ合って線香花火をやったこと。

 雪が少しでも積もると、大喜びで雪だるまを作ったり、雪合戦をしたり……。


 ねえ、蓮。


 私は海を眺めながら、心の中で蓮に語り掛ける。


 幼い頃からよく一緒に遊んだね。楽しかったよ。とても、楽しかった。どんなに私の評判が悪くても、私の肩を持ってくれたね。私が道を踏み外しても、気にかけてくれたね。すごくうれしかった。ありがとう。ほんとうに、ありがとう。


 ああ、好きだなあ。


 そらを振り仰ぎ、私は思う。万感を込めて、胸にたまっていたすべてのものを吐き出すように。


 小さな時から一緒にいたんだ。ずっと一緒にいて、当たり前のように思っていたんだ。ずっとずっと、好きだった。


「ねえ、蓮」


 意を決した私は、大きく息を吸い込んでから言った。


「陽奈、今日、引っ越すんだよ」

「えっ?」


 蓮の表情が固まる。


「そんなこと、聞いてないよ。どうして……」


 混乱したように視線を泳がせる蓮を、私は穏やかに見つめる。その「どうして」にはいろんな意味が込められてるのだろう。どうして、引っ越すのか。どうして、それを教えてくれなかったのか。どうして……。でも、それをいちいち説明している暇はない。


「あの子は誰にも言わなかったの。とにかく見送りに行ってやりなよ。〇〇駅。ここから徒歩でいけるでしょ。三時五分の電車。※※行きの急行。そのあとの乗り換えはわからない。行く先は四国だから」

「なんで、麻利亜はそこまで知ってるの?」

「一色財閥の情報網をなめるな」


 そう言い放って私は呵々大笑する。この情報収集のために、父に土下座して一年分のお小遣いを犠牲にしたのだが、そんなことはどうでもいい。


「怖っ。財閥怖っ! でも……」


 蓮は目を伏せうなだれた。


「僕が行くことを、彼女は望んでないんじゃないかな。最近はあまり会ってないし。連絡も取り合っていない。メッセージ送っても、返ってこないんだ。僕は、振られたんだよ、たぶん」

「そんなことない!」


 私は彼の両肩をひっつかみ、力いっぱい揺さぶった。吹雪の中で眠りに落ちそうになる友を、たたき起こそうとするように。


「あの子は、あんたのことが、大好きだよ」

「何を根拠に」

「理由なんかわからない。女の……私の勘だよ。でも、全身全霊で分かるんだよ。蓮も、あの子のことが、好きなんでしょ」


 蓮がこの時だけはまっすぐ背を伸ばし、力強くうなづいた。


「だったら……」


 蓮の体を街のほうに振り向かせ、その背中に手を当てる。


「とにかく、行け。駅まで、走れば十分。今なら間に合う。陽奈を見送ってあげるんだ。あの子に言えなかったこと、全部伝えてあげな」


 そして力いっぱい彼を押す。駅へ……陽奈が今いる場所に向けて。


 私の手のひらから、蓮の背中が離れる。それと同時に、蓮は猛然と走り出した。その後ろ姿はあっという間に遠ざかり、街並みの建物の間を駆け抜けていく。


「いっけー! れんー!」


 小さくなっていく幼馴染の背に、私は精いっぱいの声を張り上げてエールを送った。



     〇



 一人残された私は、海浜公園を抜け、砂浜へと降りた。


 晩夏の浜には、数週間前の賑わいが嘘のように人がいない。ただ潮騒が響き、白い波がキラキラ光りながら寄せては引く。


「あーあ。行っちゃった」


 誰も聞く人がいないので、ため息のように、声に出してこぼす。


 行っちゃった。私の大事な人も、私の友達になってくれたかもしれない人も。これで私は、完全にひとりぼっちだ。


 これからどうしよう。


 考えても答えなんか見つからない。とにかく空っぽだった。でも、嫌な気分ではなかった。空っぽの頭と体に、ただ、潮騒と潮の香りが満たされていく。


 ふと気づくと、波打ち際に女の人がいた。

 白いワンピースを着た、若いきれいな女の人。


(あれ、あの人、どこかで見たような……)


 そう思いながら見とれていると、その人はセミロングの髪を海風になびかせてこちらを向いた。


 世界から一瞬、音が消えた。波の音も。風の音も。その無音の世界で、彼女は私の名を呼ぶ。あの少し震える甘い声で。


「まりちゃん」

「鏡子……おねえちゃん」


 声を震わせながら彼女に駆け寄った私は、しかし少したじろいでしまう。目の前に立つ彼女の格好が、記憶の中にある、最後の別れの時のそれだったから。しかしその表情は、いかなる時よりも優しく、慈愛に満ちていた。アイスを一緒に食べたあの日みたいに、目を細くしてふんわりとほほ笑んで、彼女は私の頭をやさしくなでてくれた。


「よくやったね。がんばったね。……つらかったね」

「おねえちゃん……。おね……」


 私は無我夢中で鏡子に抱き着く。彼女の体と触れ合えたのは一瞬だった。鏡子の体はたちまち光に包まれ、いくつもの光の粒となって霧散してしまった。しかし私は、それでも、鏡子の体のあった空間を抱き続けた。


「ありがとう。おねえちゃん」


 眼から涙が、一粒、また一粒と零れ落ちる。


「ごめんなさい。大好きだったよ。今も、大好きだよ」


 早く会いたい、と思った。

 いや、会いに行こう。

 もっと勉強し、もっと自分を磨いて、最愛の姉の前に立つにふさわしい人間になって。


 ごめんなさいとありがとうと、大好きを伝えに行こう。




   おわり

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ