8 別れ
高校三年の夏休みはあっという間に過ぎていく。
海水浴客は浜から消え、あんなににぎわっていた海の家も、何もなかったかのように廃墟へと戻った。
夏休みも終わりそうだというのにうんざりするほど暑い。もう一月くらい休みでもいいと思うくらいだが、受験のための補習があって、毎日のように学校に通わねばならなくて、それがますます私をうんざりさせた。
学校ではいつもと変わらぬつまらない日常が流れていく。黒板前にはいつものように女子生徒がたむろして、おしゃべりに興じている。一つだけ違うのは、彼女らの中心に陽奈がいないことだった。
教室の隅の窓側の席で頬杖をついていた私は、女子たちの会話に耳を澄ませる。
誰と誰がつきあっている。
何とかさんの数学の点数がめっちゃよかった。
何組の子がかっこいい。
恋の話。部活の大会の話……。
どんなに聞いていても、陽奈の話題はでてこない。今日来ていないのも、具合が悪いからということになっている。みんな知らないのだ。彼女が引っ越すことを。その日が、今日であることを。あの日陽奈は教えてくれなかったけど、私は知っている。私だけが知っている。どうやって知ったのか詳しくは言えない。強いて言うなら一色財閥の力だ。
廊下を、蓮が歩いていくのが見えた。もちろん彼もそれを知らない。私は机に手をついて立ち上がり、教室から出て彼を追いかけた。
「蓮。海を、見に行かない?」
蓮に追いつくや、躊躇せずに誘った。
「え? どうしたの」
振り返った蓮は私の剣幕に戸惑いをみせる。
廊下をすれ違う同級生たちはみんな、私を大きく避けて足早に去っていく。私のほうをうかがいながらこそこそ話をしていた女子が、あわててトイレに身を引っ込める。たまたま通りがかった一年生が私を見るや、とたんに怯えた表情になって、一目散に逃げだした。そんな周囲の状況なんか構わずに、私はつづけた。
「話したいことがあるの」
私の発した切実な声に、蓮の表情が引き締まる。
真剣な彼の目と目が合う、と同時に私は彼の腕をつかんで強引に引っ張った。
〇
バスから降りて町を歩き海辺に出ると、潮の香りと潮騒が私たちを押し包んだ。目の前には海浜公園と、圧倒的に広い海。まっすぐに伸びる水平線。海の色よりわずかに淡い色の空には、ふわふわの白い雲の塊がいくつか漂っていた。
海浜公園に沿って少し歩いたところで私と蓮は足を止めた。どちらかがそうしようと言ったわけではなく、ほぼ同時に、お互い申し合せたように。振り返り、公園の人魚像の向こうに広がる海を眺める。海は凪いでいて、晩夏の昼下がりの陽の下に、黄色いきらめきを漂わせていた。
そのきらめきの中を、蓮と過ごした幼い日々の思い出が、次から次へと駆け抜けていった。
毎日一緒に学校に通ったこと。
教室でいじめられていた私をかばってくれたこと。
毎年七夕飾りを一緒に飾ったこと。
家の前の路地で肩寄せ合って線香花火をやったこと。
雪が少しでも積もると、大喜びで雪だるまを作ったり、雪合戦をしたり……。
ねえ、蓮。
私は海を眺めながら、心の中で蓮に語り掛ける。
幼い頃からよく一緒に遊んだね。楽しかったよ。とても、楽しかった。どんなに私の評判が悪くても、私の肩を持ってくれたね。私が道を踏み外しても、気にかけてくれたね。すごくうれしかった。ありがとう。ほんとうに、ありがとう。
ああ、好きだなあ。
そらを振り仰ぎ、私は思う。万感を込めて、胸にたまっていたすべてのものを吐き出すように。
小さな時から一緒にいたんだ。ずっと一緒にいて、当たり前のように思っていたんだ。ずっとずっと、好きだった。
「ねえ、蓮」
意を決した私は、大きく息を吸い込んでから言った。
「陽奈、今日、引っ越すんだよ」
「えっ?」
蓮の表情が固まる。
「そんなこと、聞いてないよ。どうして……」
混乱したように視線を泳がせる蓮を、私は穏やかに見つめる。その「どうして」にはいろんな意味が込められてるのだろう。どうして、引っ越すのか。どうして、それを教えてくれなかったのか。どうして……。でも、それをいちいち説明している暇はない。
「あの子は誰にも言わなかったの。とにかく見送りに行ってやりなよ。〇〇駅。ここから徒歩でいけるでしょ。三時五分の電車。※※行きの急行。そのあとの乗り換えはわからない。行く先は四国だから」
「なんで、麻利亜はそこまで知ってるの?」
「一色財閥の情報網をなめるな」
そう言い放って私は呵々大笑する。この情報収集のために、父に土下座して一年分のお小遣いを犠牲にしたのだが、そんなことはどうでもいい。
「怖っ。財閥怖っ! でも……」
蓮は目を伏せうなだれた。
「僕が行くことを、彼女は望んでないんじゃないかな。最近はあまり会ってないし。連絡も取り合っていない。メッセージ送っても、返ってこないんだ。僕は、振られたんだよ、たぶん」
「そんなことない!」
私は彼の両肩をひっつかみ、力いっぱい揺さぶった。吹雪の中で眠りに落ちそうになる友を、たたき起こそうとするように。
「あの子は、あんたのことが、大好きだよ」
「何を根拠に」
「理由なんかわからない。女の……私の勘だよ。でも、全身全霊で分かるんだよ。蓮も、あの子のことが、好きなんでしょ」
蓮がこの時だけはまっすぐ背を伸ばし、力強くうなづいた。
「だったら……」
蓮の体を街のほうに振り向かせ、その背中に手を当てる。
「とにかく、行け。駅まで、走れば十分。今なら間に合う。陽奈を見送ってあげるんだ。あの子に言えなかったこと、全部伝えてあげな」
そして力いっぱい彼を押す。駅へ……陽奈が今いる場所に向けて。
私の手のひらから、蓮の背中が離れる。それと同時に、蓮は猛然と走り出した。その後ろ姿はあっという間に遠ざかり、街並みの建物の間を駆け抜けていく。
「いっけー! れんー!」
小さくなっていく幼馴染の背に、私は精いっぱいの声を張り上げてエールを送った。
〇
一人残された私は、海浜公園を抜け、砂浜へと降りた。
晩夏の浜には、数週間前の賑わいが嘘のように人がいない。ただ潮騒が響き、白い波がキラキラ光りながら寄せては引く。
「あーあ。行っちゃった」
誰も聞く人がいないので、ため息のように、声に出してこぼす。
行っちゃった。私の大事な人も、私の友達になってくれたかもしれない人も。これで私は、完全にひとりぼっちだ。
これからどうしよう。
考えても答えなんか見つからない。とにかく空っぽだった。でも、嫌な気分ではなかった。空っぽの頭と体に、ただ、潮騒と潮の香りが満たされていく。
ふと気づくと、波打ち際に女の人がいた。
白いワンピースを着た、若いきれいな女の人。
(あれ、あの人、どこかで見たような……)
そう思いながら見とれていると、その人はセミロングの髪を海風になびかせてこちらを向いた。
世界から一瞬、音が消えた。波の音も。風の音も。その無音の世界で、彼女は私の名を呼ぶ。あの少し震える甘い声で。
「まりちゃん」
「鏡子……おねえちゃん」
声を震わせながら彼女に駆け寄った私は、しかし少したじろいでしまう。目の前に立つ彼女の格好が、記憶の中にある、最後の別れの時のそれだったから。しかしその表情は、いかなる時よりも優しく、慈愛に満ちていた。アイスを一緒に食べたあの日みたいに、目を細くしてふんわりとほほ笑んで、彼女は私の頭をやさしくなでてくれた。
「よくやったね。がんばったね。……つらかったね」
「おねえちゃん……。おね……」
私は無我夢中で鏡子に抱き着く。彼女の体と触れ合えたのは一瞬だった。鏡子の体はたちまち光に包まれ、いくつもの光の粒となって霧散してしまった。しかし私は、それでも、鏡子の体のあった空間を抱き続けた。
「ありがとう。おねえちゃん」
眼から涙が、一粒、また一粒と零れ落ちる。
「ごめんなさい。大好きだったよ。今も、大好きだよ」
早く会いたい、と思った。
いや、会いに行こう。
もっと勉強し、もっと自分を磨いて、最愛の姉の前に立つにふさわしい人間になって。
ごめんなさいとありがとうと、大好きを伝えに行こう。
おわり