5 想い出
そう、あれは私が七歳のころのことだった。
当時からいじけた子供だった私は、休みの日も家にこもってばかりいた。外に出て遊ぶのが嫌いだったのだ。明るい日差しも、人ごみも、嫌でしょうがなかった。そんな私を、ある日義姉の鏡子が海へと連れて行ってくれたのだ。
たぶん私ははじめは抵抗したと思う。しかしその記憶はほとんどない。あの日の思い出は、圧倒的に雄大な海の風景が占めているのだから。
あれはどこの海だったのだろう。それもよく覚えていないけど、私の脳裏には染み付いている。
白い砂浜。
キラキラ光る波打ち際。
穏やかな海面と、波間にゆれる白い光の粒たち。
どこまでも伸びる水平線。
海の上に広がる青い空と、そこにそびえる入道雲。
優しい潮騒。
潮の香を含んだ風……。
ああ、世界ってこんなに美しいのか。
幼い私は、その時初めて思った。世界って、こんなにも広くて、こんなにも輝いている。
「ね。きて、よかったでしょう?」
そう言って鏡子がアイスバーを一個、私にくれた。水色のパッケージのアイスバー。安さと大きさが取り柄のありふれたそれは、どこにでも売ってる代物だ。しかし私はそれを初めて食べた。私の家では、そういうものを食べさせてくれなかったから。
七歳の私には大きすぎたそれを、夢中になってほおばったのを覚えている。口の中に広がった甘さと清涼感も。同時に胸に吸い込んだ、潮の香も。
ああ、海の味だ。
あの時私はそう思った。
「おいひいね」
万感の思いを込めて言うと、鏡子は嬉しそうに目を細くした。
「そうだね。おいしいね」
「海も、きれい」
「そうだね。きれいだね」
その時だった。鏡子の目に突然、涙があふれたのは。
「だからまりちゃん。消えてしまいたいなんて、言わないで。あなたにも光は注いでいる。あなたも光の中にいていいんだよ」
やさしい声と一緒に、柔らかな風が吹きすぎていった。鏡子の目から散った涙がきらめき、セミロングの髪が潮の香を含んでなびいた。
「ほんとにいいの? 私が、光の中にいても。それは許されることなの。光は私を……受け入れてくれる?」
幼い私の発した声が、十七の今の私の声と重なる。あの時弱々しく吐いた言葉に、鏡子は静かに、しかし力強く頷いてニッコリ笑った。その笑顔がたちまち光に溶けて消える。気がつくと、陽奈が同じように優しく微笑みながら私を見つめていた。
「もちろん。影だけの人間なんか、いないと思うよ。光だけの人がいないのと同じように」
そうきっぱりと言って、陽奈はアイスバーをかじった。ふたりしかいない学校の屋上には、焼け付くような日差しと、蝉の鳴き声ばかりが降っていた。
ああ、素敵な人だなあ。
このとき、心から私は思った。嫉妬とか、羨望とかいう感情をはるかに凌駕して。純粋に。この人は、とても素敵な人だ、と。そう、あの七歳の夏の日の海辺で、鏡子に対して感じたように。
目から涙がこぼれ落ちて、頬を伝うのがわかった。
どうして忘れてしまったのだろう。私はあんなにも鏡子に憧れていたのに。
「ひ……な、ちゃん」
私はあの日のように大慌てでアイスバーをほおばると、陽奈の手をとり、彼女の名を呼んだ。
名を呼ばれると、陽奈はとても嬉しそうに目尻を下げた。
「初めてだね。まりちゃんから名前を呼んでもらうの」
「もし……もし、嫌じゃなかったら」
私はいったん口を閉じ、つばを飲み込む。
もし、彼女が受け入れてくれるなら。
もし、やり直すことが許されるのなら。
そして勇気を振り絞り、声を出す。
「こ……今度、一緒に映画、観に行かない。観たいのがあって、でも、その……。ひとりはあれだから……」
相手の顔を見ていられなくて、だんだんと視線が下がる。
何言ってるんだろ、私。こんな誘い、嫌がられるに決まっているのに。
「いいよ」
弾むような声といっしょに、私の手が、強く握り返された。
ハッとして顔を上げると、陽奈が白い歯を見せて笑っていた。
「まりちゃんが誘ってくれるなんて、うれしいよ」
ああ、好きだな。私は反射的に思う。氷も溶かす、夏の日差し顔負けの、それを初めて好きだと思った。
〇
期末テストが終わり、約束の日はほどなくやってきた。その日は朝から雨が降っていた。
大好きな雨。だけど、その日はどういうわけか気持ちが落ち着かなかった。陽奈にはそぐわないと、思ったから。
待ち合わせ場所の映画館の前で、灰色の雨雲を見上げながら私は思う。陽奈と共に過ごす時間は、このように薄暗くてはいけない。あの初夏の日差しのように、夏の入道雲のように、ピカピカと光っていなくてはいけない。しかし同時にわかってもいた。こんな日でも、彼女がこの場に現れたなら、あたりはまるで光が差したように明るくなるのに違いないと。
その光が差すのを今か今かと待ちながら、私はさした雨傘に響く雨音のリズムに耳を傾けつづけた。
ずいぶん待った。上映の時間が近づいても、いっこうに陽奈は姿を現さなかった。
(どうしたのかな)
さすがに不安感を抱いたとき、私の前で一人の人が立ち止まった。
「おまたせ」
そう声をかけてくれたのは、陽奈ではなかった。
意外な人の登場に、ただただ目を丸くするばかりで声も出せない。
「陽奈、来れなくなったってさ」
そんな私にそう言って、蓮は苦笑を浮かべながら肩をすくめてみせた。