5 九年半前の教室で
「さくらーっ」
九年半前の一本樹高等学校で、さくらの父のかしわと母の月夜は、文化祭の飾りつけがされた廊下を歩き回ってさくらを探していた。髪の毛がサラサラで男性アイドルのような顔立ちのかしわは、スリムな体に白衣と紫色の袴、白足袋、雪駄の神主の服装を身につけており、黒いストレートのロングヘアで、モデルのような整った顔立ちとスレンダーなスタイルの月夜は、白衣に緋色の袴、白足袋、雪駄の巫女の服装を身につけ、両耳の上には三日月形のヘアクリップをつけていた。
その時、女の子の悲鳴が微かに聞こえてきた。
「月夜、今の悲鳴を聞いたかい? 遠くから微かに聞こえたよ」
「ええ、それに何か不気味な気配がするわ……。嫌な予感がする……」
「行ってみよう」
「ば、化け物……」
教室中の机と椅子が倒れて散乱している一年一組の教室で、十数名の制服姿の男女の生徒が腰を抜かして怯えていた。その視線の先には、この世のものとは思えない化け物が立っていた。
その化け物は身長が二メートル近くあるプロレスラーのような屈強な体格をしていたが、目がギョロッとした猿のような顔で、緑と黒のまだらでボサボサの髪の毛からは水牛のような二本の角と耳が突き出ていた。狸に似た茶褐色の動物の毛皮でできた袖なしの上衣と短い下衣、ロングブーツを身に着け、丸太のような両腕と両脚の皮膚は、トラ柄に似た緑色の迷彩模様になっており、太い手指の先には鋭い爪、両肘には尖った突起、背中には鷲のような大きな翼があった。下衣の後ろから露出している太く青黒いしっぽの先はヘビの頭になっており、獲物を狙っているかのように、青い舌を出しながら黄色く光る眼で生徒たちを睨み、口笛のような鳴き声を出していた。
化け物は、教室中の空気を振動させるような図太い声で豪快に笑い出した。
「がははは! 初めて人間界にやって来たが、早速たくさんのガキどもに遭遇するとはツイてるぜ!」
化け物のしっぽのヘビの口から、長さ十センチほどの細い針が次々と放たれ、針が刺さった生徒は気を失って倒れていき、残った生徒は青ざめた顔で身動きできずにその様子をただ見つめていた。
「がははは! 人間のガキども、心配するな! この毒針が刺さっても死にはしない。ほんの半日ほど放心状態でいるだけだ。ただし、俺が命令をすると、その命令には絶対に従うがな」
化け物のしっぽのヘビが再び毒針を放ち、残る生徒も気を失っていった。
「ん? そんなところにもまだガキがいたか。お前も毒針の餌食だ」
化け物は、戸を開けて教室に入ってきたポニーテールの女子生徒に向かって言った。ポニーテールの少女は、化け物を恐れることなく強い眼差しを向けた。
「古より雷を司りし天翔迅雷之命よ! その御力を宿し給え!」
ポニーテールの少女は叫びながら、右手の人差し指と中指で、目の前の空間にジグザクの模様を描いた。
「一条之稲妻!」
ポニーテールの少女が叫びながら右の掌を突き出すと、先ほどジグザグの模様を描いた空間から閃光を放つ雷が発生して轟音とともに化け物を直撃し、化け物は苦しげな叫び声を上げた。
「ぐわあああっ!」
ポニーテールの少女は誇らしげな顔で口を開いた。
「この佐倉もみじ様をその辺の生徒と同じだと思って、甘く見るんじゃねーよ!」
「がははは! 少しばかりは効いたが、その程度の威力の雷じゃあ俺は倒せないぜ! 面白い術を遣うガキだ。お前は高く売れそうだ。魔界へ連れていくぜ!」
化け物のしっぽのヘビが、口笛のような鳴き声を出しながらもみじに狙いを定め、もみじは緊張した面持ちで化け物の動きを注視した。
「古より雷を司りし天翔迅雷之命よ! その御力を宿し給え! 一条之稲妻!」
男性の声に続き、激しい閃光と轟音を伴う雷が化け物を左側から直撃した。
「があああああああああああっ!」
化け物は、全身から黒い煙を立ち上らせて右膝をついた。
もみじが横を見ると、父のかしわと母の月夜が立っていた。
「父上! 母上!」
「大丈夫か? もみじ!」
「もみじ、今までよく頑張ったわね」
かしわと月夜はもみじに優しく微笑んだ。
「い、今のは効いたぜ……。凄い威力だ」
かしわは、雷の威力に驚愕している化け物に鋭い眼光を向けた。
「同じ術でも、術者によって威力は異なる。もみじは、私と月夜が伝授した神伝霊術の多くの術を天才的な才能で次々と身につけたが、まだ経験が浅い。ここからはもみじの父であり師である私、佐倉かしわがお相手しよう。お前は何者で何を目的としている?」
「俺は魔界から来た鵺族の鬼眼羅だ。覚えておきな」
「魔界から……」
かしわがハッとしてロッカーを見ると、呪いのロッカーの扉が開いており、お札が床に落ちていた。
「あなた、護符が……」
かしわは月夜の言葉にうなずいた。
「どうやら、誰かが護符を剥がしたらしい……。鵺というのは昔から日本に現れていた魔物だが……」
鬼眼羅は不敵な笑みを浮かべて語り始めた。
「俺たち鵺族は魔界の森のハンターなのさ。つかまえた魔物を他の魔物に売ることを生業としているが、先祖代々、人間を捕まえにこの世界へも時々やって来てるのさ。大昔から、魔界には人間のガキをペットとして欲しがっている魔物がたくさんいるからな、高く売れるのさ。ガキなら大人と違って、しばらくすりゃあ懐くからな。ここにいるガキどもは、俺の毒針の効果で半日間は意識がはっきりしないが、俺の命令にだけは従う。ガキどもには、魔界の鵺族の村まで自分の足で歩かせるのさ。要領がいいだろ?」
「この子たちをペットにするだと? ふざけたことを言うな! 人間を何だと思っているんだ!」
かしわは怒りで体を震わせながら叫んだ。
「ふざけているのはお前の方だ。人間だって、他の動物を捕まえてペットにしているだろ? それにお前は知らないのか? 昔から一部の人間は武装して魔界にやって来て、魔物狩りをしているってことを」
「な、何だと?」
かしわは鬼眼羅の言葉を聞いて愕然とした。
「魔物を殺傷することを楽しみ、角や手などの体の一部を戦利品として持ち帰る奴ら、魔物を生け捕りにしたり、死体を持ち帰る奴ら……。昔から魔物も、人間も、お互いに同じことをしてきたのさ」
「し、知らなかった……。同じ人間として、恥じ入るばかりだ……。だが、その子たちは絶対に渡さない。ここは大人しく魔界に帰ってはくれまいか?」
「これだけの売り物を手に入れたんだ。絶対にこのガキどもは連れて帰るぜ」
鬼眼羅がニンマリ笑いながらそう言うと、かしわは落胆した表情を一瞬見せた後で、鬼眼羅を見据えながら凛とした声で雷の神に呼びかけた。
「ならば仕方ない。古より雷を司りし天翔迅雷之命よ! その御力を宿し給え!」
かしわは散乱している机と椅子を避けながら、凄いスピードで鬼眼羅の周囲を走り回り、鬼眼羅の前後左右の四か所の空間にジグザグ模様を二本の指で描いた。
「四条之稲妻!」
かしわが右掌を突き出すと、鬼眼羅の前後左右の空間から、激しい閃光と轟音を伴う四つの雷が同時に発生して鬼眼羅を直撃し、鬼眼羅は雷に包まれて苦しみ悶えた。
「があああああああああっ! な、なかなかやるじゃねぇか!」
鬼眼羅は全身から黒い煙を立ち上らせながら、両手で左右それぞれの肩を鷲づかみにして前腕を固定した。すると、肘の突起が長く伸びて、もう一つの前腕に変化した。その前腕の先は大きな鋭い鎌になっており、カマキリの前足によく似た形をしていた。
「今度はこっちの番だ。切り裂いてやるぜええええええっ!」
鬼眼羅は背中の翼を羽ばたかせると、一瞬でかしわの前まで移動し、右手の鎌でかしわの体を首の右側から左脇腹にかけて斜めに切り裂き、もみじが絶叫した。
「父上ーっ!」
その時、教室の中が真っ暗になってかしわの姿が見えなくなり、上空に現れた満月が一帯を照らし始めた。散乱していた机と椅子、気絶している生徒たちの姿が消え去り、その場所は満月の下の広い草原に変わっていた。
「な、何だ、この空間は?」
鬼眼羅は驚愕して満月を見上げた。もみじも驚きの表情で周囲の光景を見渡していたが、何かに気づいて月夜の方を見ると、月夜は草原の上で目をつぶって正座していた。突如として鬼眼羅を囲んで十八人のかしわが姿を現し、鬼眼羅は自分を取り囲む十八人のかしわを見回しながら動揺を見せた。
「ば、ばかな……。こいつはさっき切り裂いたはず」
もみじは、驚きと安堵が入り混じった表情を見せた。
『そうか! さっき父上が切り裂かれたのは、母上が月の神様の力で見せた幻だったんだ! 全ての者に母上が思い描く幻を見せることができるこの空間『月下之草原』に取り込まれた鬼眼羅は、常に母上の術中にある!』
「古より雷を司りし天翔迅雷之命よ! その御力を宿し給え!」
十八人のかしわが、顔の隣に右手の二本指で前から後ろへ直線を描いて叫んだ。
「雷光之破魔矢!」
十八人のかしわが叫びながら右手を前に振り出すと、雷でできた光る矢が出現して鬼眼羅に向かって一斉に飛んで行った。鬼眼羅が両手の鎌で次々と矢を払うと、切り裂いた矢は幻のように消えていったが、左大腿に一本の矢が刺さって全身に雷が駆け巡った。
「ぐわあああああああああっ! こ、これが本物か!」
十八人のかしわが一斉に話し始めた。
「鬼眼羅、傷つけてすまない。だが、どうしてもこの子たちを連れ去らせる訳にはいかないのだ。ここで帰ってはもらえぬか?」
「ふざけるなあああああああっ!」
激高した鬼眼羅は、しっぽのヘビからかしわに向けて次々と毒針を放ち、毒針が刺さったかしわは次々と姿を消していった。
「な、何? 全てが幻だと?」
毒針が当たった十八人のかしわが全て消えた後、鬼眼羅は焦燥に駆られながら周囲を見渡してかしわの姿を探し、もみじは鬼眼羅の様子を見つめながら呟いた。
「本物の父上の姿が見えないという幻を母上が見せている。あたしにも父上の姿が見えねぇ。父上と母上の術の連携は息がぴったりだ。父上も母上もすげぇ……」
突如として、鬼眼羅の上空から紙吹雪が舞い降りてきた。
「古より雷を司りし天翔迅雷之命よ! その御力を宿し給え! 雷光之網!」
かしわの声に続き、鬼眼羅の周囲を舞い落ちるたくさんの小さな紙が光り、紙と紙が小さな雷で繋がって雷でできた網になると、鬼眼羅は雷の網で包まれて身動きができなくなった。
「か、体が痺れて動けねぇ!」
その時、上空の満月の中からかしわが現れ、ふわりと草原の上に降り立った。
「できれば穏便にすませたかったのだが、やむを得ない。古より雷を司りし天翔迅雷之命よ! その御力を宿し給え! 稲妻之太刀!」
かしわがそう叫んだ直後、その右手に雷の柱が出現し、物質化して光り輝く太刀に変わった。黄金色の柄と鍔の先には、強烈な輝きを放つ雷で包まれた黄金色の刀身があった。
かしわは苦渋の表情を浮かべながら、鬼眼羅に言った。
「鬼眼羅よ、今すぐに帰らなければ、全てを断ち斬るこの稲妻之太刀で止めを刺さなければならぬ。頼む、今すぐ魔界へ帰ってくれ!」
「わかったぞ! がはははははは!」
鬼眼羅が豪快に笑いながら、雷の網の中で口から黒い煙を吐き出すと、一帯が黒い煙で覆われ、かしわが手にする雷でできた太刀が放つ光も、黒い煙に遮られて見えなくなった。
「父上! 母上! 何も見えません! ご無事ですか?」
「うっ!」
暗闇の中で、月夜の短い呻き声が聞こえた。
「母上?」
「月夜! 何があった?」
「がははは! 俺が吐き出したこの暗闇の煙『暗黒の吐息』の中じゃあ、お前らには何も見えまい。俺にはお前らの姿が見えているがな。
お前の雷を使う術は強力で、恐らく実力は俺と互角だ。しかし、本当に厄介なのはお前ではなく、奇妙な術で俺を惑わせ続けたこの女だってことがわかったのさ。この女の術、気に入ったぜ。この女は魔界で高く売れる。魔界へ連れて行くぞ」
「そ、そんなことさせるか!」
何も見えない暗闇の中で、かしわは鬼眼羅の声がする方向に向かって叫んだ。
「がははは! もう遅い。この女は、俺の毒針の効果で半日間は俺の命令どおりに行動する。さあ女! この扉を通って魔界へ行け!」
「母上!」
「月夜!」
「じゃあな。次こそはガキどもを捕まえにくるぜ! 楽しみに待ってな!」
「母上―っ!」
「月夜―っ!」
鬼眼羅の声が聞こえなくなると、立ち込める闇は次第に薄くなって消えていき、机と椅子、気絶した生徒たちが倒れている教室の光景が露わになったが、そこに月夜と鬼眼羅の姿はなかった。
「もみじ、私は魔界へ行って月夜を救い出してくる」
かしわは稲妻之太刀を消し去ると、扉が開け放たれている呪いのロッカーに向かった。
「私も一緒に行きます!」
「ダメだ! もみじの実力では足手まといになるだけだ!」
かしわは鋭い眼差しで振り返り、毅然としてもみじに言った。しかし、もみじはかしわの眼光と口調に気圧されながらも、かしわに食い下がった。
「し、しかし、わたしも母上を助けたいのです……。一緒に行かせてください」
「もみじの気持ちは痛いほどわかる。しかし、現実を見るんだ。もみじが一緒に行けば、私はもみじを守らなければならなくなり、月夜を助けることが難しくなる。頼むから、ここにいてくれ。
もみじにやって欲しいことがある。私が魔界へ行ったら、そこに落ちている護符を貼って魔界への出入口を封印してくれ」
「そ、そんなことしたら、父上と母上が戻って来られなくなります!」
もみじは驚愕と狼狽が入り混じった表情で叫んだ。
「鬼眼羅を見ただろう? あんな魔物が何体もやって来たら、世界はたいへんなことになる。どれだけの人が犠牲になるかわからない。だから、すぐに出入口を封印するんだ」
もみじの目から涙が溢れ、大粒の雫になって頬を伝った。
「で、でも……、父上と母上が……」
「もみじ、私の子どもに生まれてくれてありがとう。もみじとさくらのお陰で、私は今まで本当に幸せだったよ。さくらはまだ幼い。さくらのことを頼んだよ」
かしわは優しく微笑むと、ロッカーの奥へ消えていった。
もみじは心の中で何かが激しく抵抗しているのを感じながら、ぎこちない動作でお札を拾い上げると、かしわの姿が消え去ったロッカーに視線を向けた。その目からは大粒の涙が零れ落ち続け、もみじはお札を右手に持ったまま、しばらく身動きができずにいた。
「このお札を貼ってしまえば、父上と母上には二度と会えなくなる……。もしも、二人が魔界で一生を終えることになれば、二人の魂は魔界の死後の国へ行って、永遠に会えなくなる……。永遠の別れになるんだ……」
もみじは俯いてポロポロと涙を零し続けた。
「でも……、父上が言った通り、魔界との出入口を封印しねぇと、魔物が次々にやって来て犠牲者が大勢出ちまう……。あたしがこの手で封印しなけりゃならねぇんだ……。そんなことわかってる……。わかっているのに……。ちくしょう……、ちくしょう……」
やがて、もみじは意を決して顔を上げると、ロッカーを睨みつけ、涙を散らしながら絶叫した。
「ちくしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
もみじは泣き叫びながら左手を床につき、右手で呪いのロッカーの奥の空間にお札を叩きつけた。
「父上……、母上……。わああああああああああああああああっ!」
もみじはその場で泣き崩れ、顔を伏せていつまでも泣き続けた。
ロッカーの奥にはお札が貼られて魔界との出入口は消え去り、ロッカーはお札を剥がす前の状況に戻っていた。
「おとーさん! おかーさん!」
ライちゃんを胸に抱いて寝ていたさくらは、体育館倉庫のマットの上で目を覚ました。さくらは周囲を見回して、父と母の姿を探した。
「おとーさんとおかーさんがいなくなった夢を見たの! どこにいるのーっ?」
さくらはライちゃんを抱いたまま倉庫を出た。さくらと一緒に目を覚ましたライちゃんの涙は止まっていた。
「あ、おねーちゃん!」
さくらが一年一組の教室に入ると、もみじが力なく床に座り込んでいた。ライちゃんはもみじの姿を見ると、警戒しながら床に降りて身構えた。
「さくら……」
もみじは泣き濡れた顔を上げて、さくらを抱きしめた。
「おねーちゃん、どうして泣いているの? おとーさんとおかーさんは?」
「……ちくしょう、何でこんなことに……。誰がお札を剥がしやがったんだ! ちくしょう……」
もみじはさくらを抱きしめながら、大粒の涙を流し続けていた。
「え、お札がどうしたの? お札なら、あたしがさっき剥がしたの。何かあったの?」
「さ、さくらが……」
もみじは目を見開いて、きょとんとしているさくらの無邪気な顔を見つめた。そして再びさくらを優しく抱きしめた。
「おねーちゃん、どうしたの? おとーさんとおかーさんは? おねーちゃん?」
不思議そうにもみじに語りかけるさくらと、さくらを抱きしめたまま無言で涙を流し続けるもみじの姿を、ライちゃんがじっと見つめていた。
もみじの嗚咽とさくらの声が、教室の中にいつまでも響いていた。
「おねーちゃん、おとーさんとおかーさんはどこ? ねぇ、おねーちゃん?」