14 現れた赤き魔神
「こんな文字……読めないよ。さくら、ごめん……」
床に座り込んだ鏡太朗の両目に涙が溢れた。
「アタシってなんて美しいのかしら!」
「え?」
鏡太朗がライカの声が聞こえた方に視線を向けると、ライカが床に転がっている帽子の中を覗き込んでいた。
「そう書いてあるんじゃボケ! わしは魔界で生まれ育ったんじゃぞ! 魔界では地域によって使う文字が違うんじゃが、この文字はわしが小さい頃におかーちゃんから習った文字と一緒じゃ!」
「そ、そうか! ライちゃんはこの文字が読めるんだ!」
鏡太朗は弾けるような笑顔を見せると、ベッドの残骸の近くに転がっていた傷だらけの魔法の掃除機を手にした。
「アタシって何て美しいのかしら!」
鏡太朗が呪文を唱えても何も起こらなかった。
「ダメ、ダメ、全然ダメじゃ! 呪文のここを見てみい! この記号は『高い声で』という意味じゃ!」
「アタシって……なんて美しいのかしら……」
鏡太朗はできるだけ高い声で、顔を赤らめながら恥ずかしそうに言った。
「声がちっちゃい! こっちに書いてある記号は『大きな声ではっきりと』という意味じゃ!」
鏡太朗がヤケになりながら、女性のような高い声で呪文をはっきり唱えると、掃除機のノズルから小さな白い光の粒が一つ飛び出し、壁を通り抜けてどこかに飛んで行った。
「え? 一回で出てくる魂って一人分だけ? こうなりゃ仕方がない!」
「アタシってなんて美しいのかしら!」
「アタシってなんて美しいのかしら!」
鏡太朗が呪文を言う度に掃除機から白い光の粒が出てきて、教室の天井や壁、窓、床を通り抜けてどこかへ飛んで行った。鏡太朗は呪文を唱え続けた。
「アタシってなんて美しいのかしら!」
「なあ、鏡太朗……」
「何? ライちゃん」
「さっきから見てると……、お前めっちゃ気色悪いぞ!」
「ア、アタシだって、好きで言ってるんじゃないわよぉ〜っ!」
鏡太朗は顔を真っ赤にして両手で頬を挟み、体をふりふりしながら言った。
「お前……、実はノリノリじゃろ……」
ライカは冷やかに言った。
鏡太朗が呪文を百五十回繰り返し唱えると、それ以上は白い光が出なくなり、鏡太朗は満足そうに一息ついた。
「これで、奪われた魂を全部解放できたみたいだ」
「今頃さくらも元通りになっているじゃろ」
「ライちゃん、さくらのことを思い出したの?」
「はあ? わしがさくらのことを忘れる訳ないじゃろ!」
その時、シューッという音とともに、失神している魔女の左瞼から大量の赤い煙が放出された。赤い煙は空中の一箇所に集まって大きな人の形になると、赤い光を放ち始め、光が収まった時、そこには全身が真っ赤な身長三メートル近い巨人が立っていた。
巨人は筋骨隆々とした体格で、衣服は豹のような動物の皮で作られたショートパンツだけを身に着け、裸足だった。髪の毛がない頭のてっぺんには長さ二十センチの尖った角が一本あり、顔の真ん中に一つだけある大きな目は桜の花の形をしており、その桜花形の目の中では不気味な赤い光を放つ丸い瞳が動き回っていた。頭の左右には先の尖った長い耳が三つずつ並んでいて、目の下には幅の広い鼻があり、その下で大きく開いている口には、鋭く尖った牙がたくさん並んでいた。
「な、何じゃ、お前はーっ?」
ライカが想定していなかった出来事に動揺して叫ぶと、赤い巨人は厳かな声で語り始めた。
「我は赤き魔神ルビンゴ。邪悪な魔物たちにより生み出された魔界の邪神である。
四千年前の魔界での話だ。殺戮や他の魔物を苦しめることに喜びを感じる邪悪な魔物たちが、カルト集団をつくり上げ、善良な魔物たちに危害を加えていた。その集団の魔物たちは、他の魔物たちをそそのかして洗脳し、最終的には構成員が千体を超える大集団になり、数え切れないほどの善良な魔物たちが犠牲になっていった。
やがて、その集団は善良な魔物たちの反撃に遭い、辺境の地に逃れたのだが、その集団のリーダーは、その地にあった古代の寺院の廃墟の中から、ある儀式の方法が刻まれた石板を発見した。その儀式とは、邪悪な魔物の心の中に棲む赤き魔神をつくり出す秘術であり、赤き魔神が心に宿った魔物は、究極の魔力を手にすることができると石板に書かれていた。
リーダーは、赤き魔神の力で究極の魔力を手に入れ、集団の勢力を魔界中に広げようと目論み、集団の構成員を率いてその儀式を執り行ったが、儀式が終了して我が誕生した時、そこには生きている魔物は一体もおらず、リーダーと千体を超える構成員の死体が転がっていた。その魔物たちは、儀式を行う者たちが捧げた魂と魔力が一つに結合して赤き魔神が誕生するという秘術の仕組みを理解していなかったのだ。
その後、我は邪悪な魔物を見つけては、その魔物の心の中に棲みつき、その魔物が持つ魔力を高めて邪悪な欲望を増大させ、その邪悪な心の一部を食べながら四千年生きてきたのだ。
我は三千年前からこの魔女の心に棲みつき、自分の若さと美しさのために大勢の人間を犠牲にしてきたこの魔女の邪悪な心を味わってきた。そして、我の力によって魔女の魔力は飛躍的に高まり、他を圧倒する力を手にしたことで加速していく魔女の冷酷な思考と行動を楽しく見物しながら、快適で楽しい日々を過ごしていたのだ。今までに何十体もの魔物の心に棲みついたが、この魔女の心の中は一番快適であった。
しかし、お前たちの攻撃で、我は魔女の心から飛び出てしまったのだ。我は一度出てしまった心の中には、二度と戻ることができない。お前たちのせいで、我はこの魔女の心という快適な棲み処を失ったのだ。
お前たちの行為は、万死に値する。我はお前たちに罰を与える。我はお前たちを破壊する!」
ルビンゴは目にも止まらぬスピードで鏡太朗を蹴り、鏡太朗は六十メートル後ろの壁に激しく叩きつけられて血を吐いた。続けてルビンゴは巨大な拳をライカに叩き込み、ライカは鏡太朗の横の壁に叩きつけられて床に落下した。ライカの口からも血が流れていた。
「ラ、ライちゃん……、だ、大丈夫……?」
「……きょ、鏡太朗、さ、さっきの合体技をもう一回やるんじゃ」
「よ、よし……。このままじゃあ二人ともやられる……。俺はライちゃんを守りたい! ライちゃんを守り抜いてお母さんに会わせるんだ! 人間のせいで引き裂かれた二人を絶対に、絶対に、絶対に会わせるんだああああああああああああっ!」
鏡太朗は強い想いを叫び声に込めると、勢いよく立ち上がった。
「古より雷を司りし天翔迅雷之命よ! この霹靂之大麻に宿りし御力を解き放ち給え! 天地鳴動日輪如稲妻ああああああああっ!」
ふらつきながら何とか後ろ足で立ち上がったライカに、鏡太朗は霹靂之大麻の先の雷の塊を当てた。何本もの雷がライカの体を駆け巡り、ライカが斜め上に突き出した両前足の前に大きな雷玉が出現した。
「食らえ! 特大の雷玉じゃあああああああああああっ!」
大きな雷玉がルビンゴを直撃し、その全身を包むと、たくさんの雷が周囲に激しく飛び散った。しかし、炸裂した雷が消えた時、そこには平然と立っているルビンゴの姿があった。
「我には雷など全く効かぬ」
「そ、そんな……」
呆然とする鏡太朗の隣で、ライカは力尽きてその場に崩れた。
「ライちゃん! こうなったら!」
鏡太朗は霹靂之大麻を床に置くと、六十メートル先のルビンゴに向かって走り出し、床の上に転がっていた魔法の箒を拾い上げて、渾身の力を込めてルビンゴの左大腿に振り当てた。
「ぐわあああああっ!」
魔法の箒が大きく折れ曲がり、鏡太朗は両手が痺れて箒を手放した。
「ぐおっ!」
鏡太朗は胸にルビンゴの拳を受けて吹き飛び、ライカの隣の壁に叩きつけられた。
「我の体は、魔法の箒や人間界にある全ての物質よりも硬いのだ」
ルビンゴは、鏡太朗たちに向かってゆっくりと歩いて近づいてきた。
鏡太朗は壁にもたれかかって床にうずくまり、強烈なダメージのために身動きできずにいたが、隣に目をやると、ライカが意識朦朧の状態で倒れていた。
「ラ、ライちゃん、動けるかい?」
「あ、あっらり前ら……。わ、わしはほんなに元気いっぱいにゃ……」
ライカは床に転がったまま力なくしっぽを微かに動かしたが、呂律が回っておらず、意識が低下しているのは明らかだった。
『俺も、ライちゃんも、もう限界だ。この怪物は倒すことができない……。よし』
「ライちゃん、俺がおとりになるから、その間に逃げるんだ……」
ライカは驚きのあまり意識が明瞭となり、思わず鏡太朗を見上げて叫んだ。
「お、お前なんかにおとりが務まる訳がないんじゃ! わしがおとりになるから、お前が逃げるんじゃ……。お、お前なんて足手まといなんじゃ……」
ルビンゴは鏡太朗たちの三メートル手前で立ち止まり、鏡太朗は必死に床を這いつくばりながら、身動きできずに倒れているライカの前に出た。
「ア、アホーッ! 早く、早く逃げるんじゃあああああああああああああっ!」
「俺が盾になる! ライちゃんはその間に逃げるんだ!」
鏡太朗はルビンゴを睨んだまま、背後のライカに向けて必死の形相で叫んだ。
「わしのことなんて、どうでもいいんじゃああああああああっ! 逃げるんじゃ、鏡太朗ーっ! 早く逃げるんじゃあああああああああああああああああっ!」
腹這いでルビンゴを睨み続ける鏡太朗の背後で、ライカが泣き叫んでいた。
鏡太朗はすでに覚悟を決めていた。
『たぶん次の一撃で全てが終わる。俺の人生も、何もかもが……。それでも、ライちゃんを守れるのなら、ライちゃんが無事に逃げられるのなら、俺はそれでいい。後悔はない!』
「望み通り、お前から破壊してやろう」
ルビンゴは左足を一歩踏み出すと、右の拳を後ろに引いて構えた。鏡太朗は安らかな表情で静かに目を閉じた。