1 憑いてる少年と浮遊する少女
「もみじさーん、また霊に憑かれたよーっ! 霊を祓って!」
黒の長袖Tシャツとジーンズ、青いデニムジャケットを着た鏡太朗は、神社の社務所の戸を開けて奥に声をかけた。鏡太朗が立っている古びた神社の境内の入口には赤い鳥居があり、そこには『雷鳴轟之神社』と書かれた古い看板が掛けられていた。
「あれーっ? 返事がないや。もみじさんいないのかな? ん? 何だろうこの音楽?」
鏡太朗は建物の周囲を歩いて、軽快なJポップが響き渡る神社の裏手に向かった。
鏡太朗はルックスも、背の高さも、目立った特徴がなく、どこにでもいそうな優しい雰囲気の男子高校生だったが、名字が非常に珍しく、誰もが一度聞いただけで名前を覚えてくれた。
神社の境内を歩く鏡太朗の背中には、生気のない痩せた青年の幽霊が薄気味悪い笑みを浮かべて覆いかぶさっていたが、鏡太朗が幽霊に憑かれて歩くその姿は、彼の名字に似つかわしいと言えるものだった。
そんな彼の名字は『屍』といった。
『いつ見ても、この光景は凄いな……』
鏡太朗が神社の裏側に回ると、以前は林であったであろうその広い場所には、生えている樹木が一本もなく、幹が根本近くから折れた倒木が無数に並んでいる異様な光景が広がっており、ボロボロになって焦げている幹の断面は、まるでそこで何かが爆発したかのような状態になっていた。
神社の裏側一帯に軽快なメロディが響く中、建物の近くの倒木がない開けた場所で、金髪の長い巻き髪に派手なメイクやネイルをしたギャルが、白衣に薄い青緑色の袴、白足袋に雪駄の神主姿で音楽に合わせて踊っていた。ギャルは目が大きく、整った顔立ちで、身長が百六十五センチほどのスレンダーな体型をしており、彼女が踊りながら手にしている竹箒は全体が銀色に着色され、柄の部分はラインストーンで派手に飾りつけされていた。
「も、もみじさん……、何やってるの?」
鏡太朗が恐る恐るギャルに声をかけると、ギャルは踊りを撮影していたスマートフォンを手にしながら鏡太朗の方を振り向き、明るい笑顔を見せた。
「おーっ、鏡太朗! おめぇ知らねーのか? 今あたしは『神主のコスプレで踊る激カワギャル』として、SNSで大バズリ中なんだぜ!」
「コスプレって……、もみじさん、本職でしょ? 確かにコスプレしてるようにしか見えないけど」
鏡太朗は呆れながら、冷ややかに言った。
「まあ、去年ばあ様が亡くなって神社を継ぐまでは、渋谷でギャルしてたしな。ん? 鏡太朗おめぇ……」
もみじは突然、真顔で鏡太朗を見つめた。
「そ、そうなんだよ。また霊に……」
「おめぇ高校に入学して、恰好がお洒落になったな! 色気づきやがって!」
「そ、そんなことないよ!」
鏡太朗は真っ赤になりながら、慌てて言い返した。
「まあいい。ついて来い。背中の霊を祓ってやる」
もみじは鏡太朗に背を向けて、和室の縁側から建物の中に入っていった。
歴史が感じられる重厚な本殿で、鏡太朗は座布団の上に正座をしていた。もみじは鏡太朗の正面に立つと、足元にある座布団を遠くに蹴り飛ばしてから胡坐をかいて座り、続けて懐からスティックキャンディを取り出すと、包み紙を床に投げ捨てて口に咥えた。
その時、耳がとても大きな小柄で細いキツネが廊下から本殿の中にゆっくり入ってきて、もみじの膝の上によじ登ると、そのままそこに横たわった。キツネはもみじに頭を撫でられると、リラックスした表情を見せた。
「や、やあ、ライちゃん……」
鏡太朗が恐る恐る手を伸ばすと、ライちゃんと呼ばれたそのキツネは顔を上げて鏡太朗を睨みつけた。
「ダ、ダメだ……。九年半も顔を合わせているのに、いまだにライちゃんは俺には慣れてくれない」
「おめぇのことだけではなく、ライちゃんは人間が大嫌いなんだ。きっと、あたしのところに来るまでに、人間に色々とひでぇことをされたんだろうな。ライちゃんが気を許してくれるのは、あたしと妹のさくらだけだ」
「ねぇ、もみじさん。ライちゃんって、本当にフェネックっていうキツネなの? この前フェネックの動画を観たんだけど、何か違う気がするんだけど……」
「い、いや、それは、その……。そう! 人間は一人一人姿が違うだろ? フェネックだって、外見に個性があるに決まってんだろ?」
もみじは鏡太朗の質問に動揺した様子を見せたが、すぐに気を取り直し、鏡太朗の背中に覆いかぶさって不気味な笑みを浮かべる青年の幽霊をきっと睨んだ。
「そんなことより、鏡太朗に取り憑いているてめぇ! ここに座れ! じゃねーと、あらゆる術でてめぇを苦しめ抜いて、力づくで引きずり出すぞ!」
「わ、わかりました……。お、お願いだから、酷いことはしないで」
鏡太朗の背中に覆いかぶさっていた青年の幽霊は、もみじの剣幕に気圧され、慌てて鏡太朗の隣に真顔で正座した。
「もみじさん、この人『あの娘可愛いなあ』とか、『さっき見た娘、可愛かったなあ』とか、『あんなきれいな人とデートしたいなあ』とか、一日中俺の後ろで喋ったり、何かを妄想しては『でへへへ……』っていやらしく笑ってるんだ! 俺が寝ている時も、ずっと喋ってるか笑ってるかなんだよ! うるさくて眠れないんだ」
もみじはスティックキャンディを咥えたまま、青年の幽霊に刺すような鋭い眼光を向けた。
「てめぇ、何でこいつに取り憑いた? 何が望みだ?」
「ぼ、僕……、若くして病気で死んじゃったんだけど、今まで女の人と付き合ったことがないし、まともに話をしたこともないんだ。それが心残りで……。せめて、きれいな女の人と手を繋いでみたかった。取り憑いた人が女の子と手を繋げば、僕もその感触や感動を一緒に体験できると思ったんだよ!
でも、この少年は優しい波動の持ち主で、取り憑いていると居心地がいいんだけど、地味で、目立たなくて、奥手で、女の子にはまるっきり縁がないみたい。このままこの少年と一緒にいても、女の子と手を繋ぐチャンスは一生来ないと思って、後悔をし始めたところなんだ。取り憑く相手を間違えたかなって。ははは……」
「ちょ、ちょっと幽霊さん、それは言い過ぎじゃないかな……。お、俺だっていつの日にか彼女くらい……」
鏡太朗はぎこちない笑顔で青年の幽霊に言った。
「おめぇ、よく気がついたな! 確かにおめぇのいう通り、こいつに取り憑いても、女の子と手を繋ぐチャンスなんて永遠に来ねーぞ!」
もみじは、青年の幽霊の的確な分析に感心している様子だった。
「ちょ、ちょっともみじさん。お、俺だって、い、いつの日にか手くらい……」
鏡太朗は右頬を痙攣させながら、強張った笑顔でたどたどしく言った。
「ね、ねぇ、神主さん。僕、あなたほどのキレイな女性を初めて見たよ。ぼ、僕と手を繋いでもらえないかな。そうしたら満足して、黄泉の国とかいう死者の世界に旅立つよ。でへへへ……」
青年の幽霊はいやらしい笑みを浮かべながら、上目遣いにもみじを見た。
「はあ? ざけんじゃねーぞコラ! 何であたしがてめぇと手を繋がなきゃならねーんだ? もういい! てめぇなんか、ずっと鏡太朗に取り憑いて、女の子に縁がない人生をいつまでも一緒に歩みやがれ!」
「も、もみじさん……、俺だってその内に……彼女くらい……」
鏡太朗はうなだれて床に両手をつき、消え入りそうな声で言った。
「じゃなかったら、おめぇが黄泉の国に逃げ出すまで、徹底的におめぇをいたぶって地獄の苦しみを与え続けるぞ! 今から始めるぞ! 覚悟はいいかーっ!」
もみじは鬼の形相で青年の幽霊を怒鳴りつけた。
「わー、ご、ごめんさない! 女の子がこんなに怖い存在だとは思わなかった! 思い描いていた妄想と違い過ぎる! で、でも……、最後に頭ナデナデだけしてくれないかな……。そ、そうしたら、すぐに黄泉の国へ出発するよ。でへへへ……」
青年の幽霊は、目尻が垂れたいやらしい笑顔で再びもみじを上目遣いに見た。
「て、てめぇ……、いい加減にしろおおおおおおおおおおおおっ!」
もみじが怒鳴った後に小声で何かを唱えると、突然、本殿の裏に閃光が広がり、同時に大音量の雷鳴が空気を激しく揺らしながら本殿の中に轟いた。
「うぎゃあああああああっ!」
青年の幽霊は叫び声を上げながら小さな白い光の粒に姿を変え、逃げるように天井を通り抜けて消え去った。
「ふっ、アッパーレベルのあたしのカウンセリングスキルで、また一人の彷徨う魂を救ったな」
もみじは天井を見上げながら満足そうに微笑んでいたが、その正面では鏡太朗がブツブツ文句を言っていた。
「アッパーレベルのカウンセリングスキルって……、いつも通り霊を脅しただけでしょ。……っていうか、一番ダメージを受けたのは俺なんだけど……。
でも、この神社で霊を祓ってもらう時って、何で必ず雷が裏庭に落ちるんだろう? 本当に不思議だなぁ……」
もみじがにこやかな笑顔を鏡太朗に向けた。
「さて、鏡太朗、わかってるな?」
「は?」
「霊を祓った費用は、おめぇが社会人になってから回収するからな。ばあ様がタダで祓ってきた分は目をつぶってやるが、あたしが祓った分、今回を入れて三十回分のお祓いの代金は、しっかり働いてちゃんと返済するように」
「うっ……、そ、それはちょっと……」
「はあ? おめぇまさか、あたしの妹のさくらと幼馴染で同級生だからって、借金をチャラにできると思ってる訳じゃないよな? それとこれとは話が別だからな。ちゃんと払え。あたしは祓ったんだから、おめぇも払え。いいな?」
「わ、わかりましたよ……。あれ? そういえばさくらは? いつもなら巫女姿で一緒にこの場にいるんだけど……」
「おめぇ知らなかったのか? さくらは弓道部の合宿だよ。ゴールデンウィークの連休を使ってな。……ったく、さくらがいなかったら誰がメシを作るんだよ。困ったもんだぜ」
もみじはスティックキャンディを咥えたまま、溜息をついた。
鏡太朗は俯いて何かに迷っている素振りを見せていたが、やがて決心した表情でもみじを真っ直ぐ見た。
「ねぇ、もみじさん。訊きたいことがあるんだ」
「何だ?」
もみじはスティックキャンディを咥えたまま、膝の上のライちゃんを撫でていた。
「ずっと訊きたかったんだけど、さくらがいると訊けなくて……。もみじさんとさくらのお父さんとお母さんのこと」
もみじの手が止まった。
「俺とさくらが小学校に入る半年前、突然二人はいなくなったよね。旅行に行ったっていうけど、九年半経っても戻ってこない。それに二人がいなくなってから、さくらの姿をしばらくの間見なくなった。ある時、神社の裏で泣いているさくらを見かけて話しかけたら、『あたしのせいなの。全部あたしのせいなの』と言ってずっと泣いてたんだ。ずっと気になっていたけど、どうしても訊けなくて。でも、さくらがいない今なら……」
鏡太朗は真剣な目でもみじを見つめながら、質問の意図を真摯に語った。
「鏡太朗……、いくらだ?」
「え?」
「話をしたら、いくら払うかって訊いてるんだ」
「えーっ? お金をとるの?」
「あったりめーだろ? 何でおめぇにタダで身の上話をしなきゃならねーんだよ。聞きたきゃ金を払え!」
鏡太朗は視線を落とし、床の一点をじっと見つめながら答えた。
「そ、そんな。お、俺……、さくらの力になりたいだけなのに……。あの時の泣いているさくらの姿が忘れられなくて、さくらのために俺にできることが何かないのかなって、ずっと思ってたんだ」
「前から感づいていたが、おめぇさくらにホレてんだろ?」
「え? お、お、俺は、べ、別に……」
鏡太朗は顔を上げると、激しく動揺しながら顔を真っ赤にして否定した。
「おめぇ本心がわかりやすいな。だがな、さくらがおめぇと付き合うことだけは絶対に許さねーからな。おめぇだけは絶対にダメだ」
「え? 俺だけ? 俺だけは絶対ダメってどういうこと?」
「ったりめーだろ? 借金まみれの男と妹の交際を許す姉がどこにいるんだよ」
「しゃ、借金って、全部もみじさんが払えと言ってるもので……」
「はあ? 人に霊を祓わせて、正当な報酬を踏み倒すのか?」
「ご、ごめんさない。後で何とかするから……」
「もう一度言うぞ。さくらがおめぇと付き合……」
「あたしがなあに?」
鏡太朗は、声が聞こえた頭上を見上げて目を丸くした。
「え? さ、さくら? えーっ、何で宙に浮いてるのーっ?」
鏡太朗ともみじの頭上には、弓道着姿の目の大きな美少女が微笑んで浮遊していた。その少女は、ボブの髪の毛の両耳の上辺りに桜の花を象ったヘアクリップをつけていた。
もみじは、宙に浮く少女に向かって諭すように言った。
「さくら、また離魂之術を遣って! いいか、何度も言っているが、魂の姿で肉体を離れて空を飛んだり、建物や物を通り抜けることができる離魂之術は、二十分以内に肉体に戻らないと術の効果が消えてしまい、魂は二度と肉体に戻れなくなる。魂は永遠にこの世を彷徨い、肉体は一生目覚めることはねーんだ。だから、むやみに術を遣うな。頼むから姉の言うことを聞いてくれ!」
「だって合宿中に座禅なんて始めるから、退屈で肉体を抜け出してきちゃったっ! あーっ! おねーちゃん、またキャンディの包み紙を床に捨ててるーっ!」
「さくら……、これってどういうこと?」
鏡太朗は目をまん丸に見開いたまま、浮遊するさくらの姿を見つめており、さくらは楽しそうな笑顔で鏡太朗に語りかけた。
「そっか〜っ、鏡ちゃんは、肉体を抜け出したあたしの魂を初めて見たんだもんね〜っ。びっくりするのも無理はないねっ! でも、さすが小さい頃から何百回も霊に取り憑かれている鏡ちゃんだねっ! 今のあたしは幽霊と同じだから、みんなにはあたしの姿が見えないんだけど、ちゃんと見えてるんだね。見えるのは、今まではおねーちゃんとライちゃんだけだったのに」
さくらがもみじの膝の上のライちゃんに右手を伸ばすと、ライちゃんも嬉しそうに右前足を伸ばした。
「で、おねーちゃん、鏡ちゃん、今何の話をしてたの? さくらがどうとか言ってたでしょ? ねぇ、何の話をしてたの? ねぇ、ねぇ、何の話? ねぇ、ねぇ」
宙に浮かんで無邪気に訊いてくるさくらの笑顔を見て、鏡太朗はたじろいだ。
「い、いやぁ、その、えーと……」
もみじはスティックキャンディを咥えたまま、独り言のように話し始めた。
「あたしは小さい頃から、神様の力を借りて善良な人々を守る術、神伝霊術を修行してきた。この神社に伝わる雷の神様の力を借りる神伝霊術を父上に、母上の実家に伝わる月の神様の力を借りる神伝霊術を母上に学んだが、母上に教えていただいた術の中では、離魂之術だけはいくら修行してもどうしても習得できなかった。さくらは逆に離魂之術だけを学び、習得した。不思議なもんだな……。
さくら! さくらの身に何かがあったら、父上と母上に顔向けができねー。頼むから肉体に戻ってくれ」
父と母のことを耳にすると、さくらから笑顔が消えた。
「……わかった。もう合宿に戻るね。おねーちゃん、ごみはちゃんとごみ箱に捨ててね。ライちゃん、明後日には帰るからね。鏡ちゃん、連休が終わったら学校でねーっ!」
さくらは再び笑顔に戻ってみんなに一声かけると、右手を大きく振りながら天井を通り抜けて消えていった。
「さくらったら、もう! 冷や冷やすんじゃねーか!」
「あーっ、びっくりした! そういえば、初めてさくらに会った時、さくらは体から抜け出して空を飛べるって言ってたっけ。五歳の頃の話だから、寝ている間に見た夢の話だって思ってたけど、本当のことだったんだ……。びっくりした……」
鏡太朗ともみじはさくらが消えた天井をしばらく見つめていたが、やがてもみじが鏡太朗に真剣な表情を向けた。
「鏡太朗、そういや商談の途中だったな」
「商談って……。さっきの話はもういいや。さくらの姿を見たら、聞く気がなくなっちゃった」
鏡太朗は驚きの余韻がまだ消えずにおり、再び天井を見上げた。