ジャニーズ性加害問題を考える。
私がまだ若かった頃に聞いた噂話しですが、ジャニーズ事務所では所属するタレント達に対して、いかがわしい行為がなされていると言われていました。
関係者に話を聞く機会があり、この噂について質問しました。
ちなみに、スタジオのお花を活けている、先生らしい。
そしてそんな質問に対して、それは根も葉もない誹謗だ、信じてはいけないと、そんな回答でした。
「みんなね、それはそれは真面目で一所懸命なのよ。いかがわしいことなんて、ある訳ないわよ」と、お花の先生らしい回答でした。
よく考えたら、関係者がそんなことを暴露するはずはなく、そもそもお花の先生なら、そこまで踏み込んだ話しを聞くことも無かったでしょう。
それでも、そういった噂は、決して消えませんでした。
むしろ、モデル事務所に所属していた同級生から、結構生々しい話を聞けました。
あのジャニーズに、ホテルに行こうと誘われたと。
同級生は断ったそうですが、芸能人を目指す若い人なら、果たしてこの誘いを断れるだろうか?
でも、噂は噂に過ぎず、この話はいつの間にか立ち消えになりました。
それから、10年以上の歳月が過ぎた頃でした。
この問題が最初に明るみに出たのが、週刊誌報道でした。
当然、ジャニーズ事務所は対抗措置として週刊誌を訴えましたが、高裁でジャニーズ事務所側が負けました。
恐らくですが、この段階でメディアが動けば、こんな不名誉な事態にはならなかったはずです。
そして、犠牲者も少なく済んだはずです。
しかし、それが出来なかった。
それだけ、ジャニーズ事務所は強かったし、関係者が多岐に渡るからです。
つまり、みんなして空気を読んだのです。
実際、このことを大々的に報じたのは、日本国内ではなく外国メディアでありました。
外国人に空気を読めと言っても無駄ですし、そもそもジャニーズ事務所に忖度しないといけない理由が無いからです。
もっとも、その外国報道機関が未成年児童に対する性加害問題を扱う過程で、日本ではこんなことがありましたという、ついでの報道だったようですけど。
しかし、インパクトはありました。まるで、黒船来航のように。
この結果、報道の在り方はとか、ジャーナリズムとはという論争が起きましたが、これはメディア論とは一線を画す問題と思います。
何故なら、こういった問題を隠ぺいすることは、日本では度々あるからです。
直近でも旭川凍死自殺事件のように、旭川ではいじめの前例がありながらもいじめを隠ぺいし、しかも保身の為に虐待があると事件をねつ造しました。
これは日本人によく出る、正常性バイアスが悪く出た案件であり、事件を隠ぺいすることこそ正義となったのです。
問題は無い、それでも問題があると言うのなら、問題があると言う者を無かったことにする。
こうして、明日も何も起きません。
そんなことは、決してないのにです。
気が付くと、すべての関係者が共犯関係となり、話をすり合わせた訳でもないのに、なんとなく隠ぺいやねつ造をするのです。
このなんとなくが、問題を面倒にします。
そこにあるのは、悪意ではなく善意だからであり、だからこそ始末に負えません。
つまり、ジャニーズ性加害問題は、表面的には権力を使って、事務所所属のタレントに性加害を行った、ごく一部の、あるいは個人の問題になります。
しかし、その性加害問題を知っている者は恐らくはかなり居るはずで、それが今頃になって曝露合戦みたいな構図になっています。
大津いじめ自殺事件などは、教師のみならず、父兄の前でも加害児童は隠すことなく被害児童に対していじめをしていたのですから、これはもう、あの地域がカルト化していたと言っても過言ではありません。
カルト化の怖さは、オウム真理教事件でよく分かっていたはずです。
そしてジャニーズ性加害問題はもう、隠ぺい出来なくなったからこそ、今度は逆に、切り捨てる方向になったのでしょう。
利用価値が無くなったと、そういう訳です。
つまり、ジャニーズ事務所にまだ利用価値があれば、関係者は隠ぺいに加担するはずです。
そうしないと、番組に穴が開くからです。
それだけ、メディアはジャニーズ事務所に依存していたのです。
だが、このことで問題の根深さがリスクの認識を逆に押し上げてしまい、なんとかリスクヘッジ出来ないか懸命になっているのが、今の芸能界なんでしょう。
今まで行ってきたリスクヘッジが、関係者の口封じや隠ぺいだったからです。
それが通用しなくなったら、今度は切り捨てる方向になり、まるで被害者面をしていました。
ジャニーズに逆らえなかったと。
違うでしょう?
ジャニーズに忖度すれば、儲かるし番組に穴が開かないからでしょう?
番組編成が、その分楽になるんでしょう?
結局は、同じ穴の狢なんでしょう。
では、彼らは悪なのかと言えば、決してそんなことはありません。
彼らは良き日本人であり、普通の日本人なんです。
だって、この手の話は、それこそいくらでも紹介出来ますから。
いっそ、連載にしようかと考えるぐらいたくさんありますが、それはいつかやろうと思います。
構図としては、こうなります。
問題発生→問題にしない→それでも問題になる→問題の解消を図る(解決ではなく)→それでも問題はなくならない→問題の発生原因を、問題の被害者のせいにする→これによって、問題は益々厄介になる→この際だから、問題の被害者に、すべての責任を転嫁する→こうして被害者は追い詰められる→関係者は被害者に止めを刺す→被害者は黙るか自殺する→こうして、問題は解消された。
そんな都合がいい話しはなく、問題は解決不能になってしまい、最後は事情を知らない世間から総攻撃を受けます。
大津いじめ自殺事件が、その典型でしょう。
いじめなんかない、いじめなんかあるはずはない。
加害者扱いされた子供が可哀そうだと言い、それが通用しなくなると、今度は他の生徒に迷惑になるし、心が傷つくと、責任転嫁を図る。
だったら、被害児童はあんたの学校の生徒では、無かったのか?
そう問いたくなりますが、彼らは恐らくはパニックに陥っているので、もう何も答えられないでしょう。
間違いないのは、被害児童に思いを寄せるとか、被害児童に同情するなんて気持ちは、欠片も無かったことにあります。
いじめなんか無いと、断定したのですから。
調べもせずに断定する人間は、一般的に責任者としては無能になりますが、その意味で彼らは普通の日本人なんでしょう。
普通の日本人なら、悪意に耐えられないからです。
だからこそ、彼らに罪の意識はないと言えます。
残念ですがすべてが善意から始まり、悪意によって終わるしかないのです。
そして、誰も救われません。
被害は無くならず、問題の解決は不可能となり、それでも原状回復の為に残った者が苦労をしょい込む。
これを何度も、何度も繰り返すのが、我が国になります。
だから、メディアの責任云々と言いますが、同じ状況になればまた同じことをやります。
つまり、責任自体を正確に認識していないゆえに、結局、表面だけ取り繕って終わるでしょう。
そしてまた、同じ轍を踏むのです。
良き日本人として。
では、どうすればいいのだろうか?
考える、それしかありません。
そして考えるには、常に考える癖を付けないといけません。
そうしないと、また思考停止し、被害者に対してこう言うでしょう。
「お前は嘘つきだ、被害なんてねつ造だ」と。
そしてまた、手遅れになって右往左往するでしょう。