02-04 魔女は安寧から逃げ出すか
「本当か!?」
「あぁ」
声を潜めながらも、あからさまにエスターは顔を喜色に染める。
その笑顔は、いっそ無邪気と表現しても良かった。
(子供みたいだな)
そう思ったのが顔に出ていたのか、エスターはすぐに表情を改めた。
そして今度は少しだけ凛々しい表情になった。
……やはり、彼に敵意があると感じるのは難しい。
「じゃあ、まずはどうやって戻るかだな」
「でも俺の声に反応しなかったのは違和感がないか? この辺に魔物がいるなんて思わなかったから、大声で呼びまわってたんだけど」
(そこは確かに気になってる点だ)
私がエスターを呼び止めたのは、彼が相当獣に近づいていたと言うのも理由の一つだった。
あの獣の耳がどれだけ良いかは分からない。
だが人である私に聞こえてる声が、獣の耳に届いてないとは考えづらかった。
「魔物がいないって言うのは、あのフォルドって先生って人が定期的に討伐してるからか?」
「そう。それに家の近くは魔法で結界が貼ってあるから、魔物や悪意のある人間は入ってこれないはずなのに」
なにかしらの偶然でどこかから入り込んできたのか、あるいはそれ以外の要因があるのか。
だが低い唸り声が、私たちを現実に引き戻す。
見つかってこそいないが、獣は依然としてそこにいる。
「このまま気づかれなければ、それでいいんだが」
「もうここは結界の外だから、あんまり期待できない気がする」
(くそ、私のせいだ。だが、どうすればいいんだ)
安寧の家の方を見れば、今まで気づかなかった薄布のようなものが家を囲っているのが見えた。
家から出る時は気づかなかったが、あれが彼の言う結界だったのだろう。
「というかなんなんだ、アイツ。魔物で紋章持ちなんて初めて見たぞ」
「紋章? 魔女の紋章とかと同じってことか?」
エスターが獣の背で光っている傷跡を指差して、首を傾げる。
彼が言うことを信じるなら、それは私が刻まれているものの類似品だ。
「あぁ、でもそれにしてはなんか違和感があるけどな。薄い、気がする」
「というか、あの紋様見たことがある気がするな」
紋章であるという指摘を受けてから獣の傷を見ると、確かに明確な形が背に刻まれていた。
しかし、私はどこであれを見たのだろうか。
異世界に来てから、見たものは多くないはずだが。
「どこでだ?」
「確か、「————————!」
今まで大人しかった獣が急に咆哮を上げて、二人して身を固くする。
喋るのをやめて、こっちに向かってくる足音がないか必死に耳を立てた。
「気づかれたか? くそ、こっちは動いてないのに」
「いや、まだだ。けどあっちが近づいてきてるから、時間の問題だと思う」
獣はいつの間にか、さっきより近い場所に移動していた。
まだこちらまで距離はあるが、匂いや音で勘づかれる可能性もある。
(どうすればいい? 私は何も持っていない)
自分のものと呼べるものは、異世界に来てからすぐに奪われた。
そうなると、エスターが持っているものに期待するしかない。
「エスター、何か持っているか?」
「薬とかだけだ、攻撃手段は何もない」
エスターが鞄に詰めてきたものを見てみるが、確かに薬や医療道具しかない。
だが獣に遭う想定はしていなかったし、仕方がないだろう。
「そうだへテラ、今のうちに怪我を見せろ」
「それより攻撃手段を「俺達じゃ、勝てない」」
エスターの言葉には確信めいたものがあって、思わず口をつぐむ。
先ほどまでの柔らかな雰囲気はなくなり、真剣な表情をしていた。
「ヘテラだって分かってるだろ? 武器も持ってない素人が、あんなのに太刀打ちできないって」
「だが大人しくしていても、いずれは気づかれる」
エスターが言っていることは正しいのは分かっている、じゃあどうすればいいのかが分からない。
私が口ごもっている間にも獣は近づいてきて、その体躯が明らかになる。
(……でかいな)
最初に感じたのは、大きさに対する驚きだった。
次に感じたのが、それの爪が人を容易く踏み砕くであろうということ。
そして最後に感じたのが、確かに戦うのは無謀であると言うことだった。
「それより逃げる方向で行こう。時間的に、先生が帰って来て気づくかもしれない」
「希望的観測だな」
状況を実感した今、エスターが正しいことは認める。
だが助けにくるか分からない他人を頼りにするのは、あまりにも無責任だと思えた。
(……待てよ)
けれどそこまで考えてふと浮かんだのは、自分がこの世界に呼ばれた理由だった。
そしてエスターも、同じことを思っていたようだった。
「でもヘテラが先生に保護されたってことは魔女に価値があるってことだろ? 俺は知らないけど、それなら生きてさえいれば助けてもらえるんじゃないか」
「……それもそうだな、お前もいることだし」
(傷一つないエスターは、フォルドに対する人質にできる可能性がある)
彼を人質にすれば、フォルドが私に手出しできる可能性は低くなる。
完全ではないが、状況から見て大切にされていることは間違いない。
そうと決まれば獣がさらに距離を詰めてきた今、迷う暇はない。
「よし、じゃあまずは怪我を見せてくれ。薬は持ってきた」
「薬さえ渡されたら自分でやる。……っ!?」
この状況でも世話を焼こうとするエスターを押し退け、エスターが持っていた薬だけ受け取る。
だが私が薬に触れた瞬間、淡い緑色だった薬は黒紫に変色した。
「薬が、変質した?」
「…………私は回復さえできないのか」
(どうやっても詰んでいる、これじゃ復讐どころか自力で生きていく事もできやしない)
この世界はどこまでも、私に理不尽らしい。
今まで他の物に触れても変質はしなかったから、薬限定での現象ではあるようだが。
しかし呆然としている私の横で、エスターは暗い色になった薬を眺めている。
「腐った訳じゃない、毒になったみたいだ」
「だから何だ、無駄にしてしまっただけだ」
限られた物資を使えなくしてしまった、しかも自分のものではないのに。
だがエスターはそれを怒ることもなく、薬瓶を揺らして呟いた。
「いや。これで罠を張って、敵を迎撃できるんじゃないか?」