02-06 魔女は安寧から逃げ出すか
「ダメだ、追いつかれる!」
「でも迎撃なんてできないだろ! ……うわっ」
背後からは恐ろしい速度で獣が迫ってきている。
必死に逃げているけれど、このままではいずれ捕まってしまうだろう。
しかも運が悪いことに、再び足が崩れた。
(くそ、傷口が開いた!)
緊張からか痛みはないものの、感覚もなくなって足が動かなくなる。
そして私の手を引いていたエスターも、足を止めざるを得なかった。
「ヘテラ!」
「置いていけ、もう私はダメだ!」
繋がれていた手を無理やり振り解いて、エスターにここを去るよう怒鳴りつける。
さすがにもう、エスターを巻き込めない。
(結局、異世界でも碌な目に遭わなかったな)
獣が目前に迫る瞬間、私はそんな事を考えていた。
結局何も成し遂げられず、復讐もできずに消えていく。
けれど、それでいいのかもしれない。
死んでしまえば、もう苦しむことはない。
思わず目を瞑って覚悟を決めると、突然後ろから何かが投げられた。
「頼む、諦めるなヘテラ!」
「——————————!」
聞き覚えのある声に驚いていると、襲い掛かってきた獣が一歩下がった。
何が起こったのか分からず混乱していると、折れた剣を握りしめたエスターが私の前に立つ。
「何で戻って「俺を一人にしないでくれ!」」
顔を真っ青にしながら、それでもエスターは叫んだ。
そしてその姿を見た瞬間、私の目に枯れていたと思った涙がにじむ。
ずっと独りだった私にとって、共に戦ってくれる存在は初めてだったから。
(コイツなら、仲間と認めてもいいかもしれない)
頑なだった心が、ここにきて解け始めたのを感じる。
同じ孤独にいるのなら、信じる理由にはなるから。
そしてなんとか威嚇して獣を近づけないようにするエスターの異変を、私は見た。
(……エスターの首筋が光ってる?)
よく見ると彼の首筋には光の線が浮かんでいて、そこから淡い光が溢れ出していた。
けれどそれが何かを確認する間も無く、獣は背後から八つ裂きにされた。
「生きてるかお前ら!」
「先生!」
獣の背後には、血まみれになったフォルドの姿が立っていた。
もう見れないと諦めかけていた朝日は登り始め、辺りを明るく照らし出す。
その光景を見ながら、私たちは無事に生き残ることが出来たとようやく確信した。
けれどフォルドは、想像以上の強さだった。
(……さすがに強いな、というかやり過ぎじゃないか? エスターなんて、怖くて動けなくなってる)
最初こそ救いの手に喜んでいたものの、獣の頭が飛んだところで流石に怖くなる。
私も獣には確実に止めを刺すべきだと思っているが、獣の原型が分からなくなるほどまで切り裂くべきなのだろうか。
「……大丈夫か? エスター」
「お、お、俺は平気だ」
「嘘つけ」
最初こそ救いの手に喜んでいたものの、獣の頭が飛んだところで流石に怖くなる。
私も引いているが、エスターに至っては怯えて地面にへたり込んでいる。
「コイツは完全に殺した、もう動くことはない」
「「っ」」
私たちの気持ちに気付いたのか、フォルドは魔物の死体を見下ろしながら静かに告げた。
しかし返り血を浴びたフォルドの姿は、完全に都市伝説かなにかの類にしか見えない。
(普通に怖いから、血塗れでこっち見ないでほしい)
私もエスターもなんだかんだ血まみれだが、フォルドとは比べ物にならない。
しかしそんな恐怖の男はにこりとも笑わず、淡々と口を開く。
「だが、夜に外に出たな。危ないことは分かってただろ」
「そ、れは」
フォルドの詰問に、エスターは答えられない。
当然だ、危ないことなんか承知で彼は飛び出してきた。
そうさせてしまったのは、私の身勝手によるものでしかない。
「私が抜け出したんだ。エスターはアンタに怒られないように、私を連れ戻しに来ただけだ」
だからエスターを責めるのは間違っていると、私は立ち上がって庇った。
するとフォルドは驚いた表情を浮かべた後、小さく笑う。
それはまるで、いたずらをした子供に向けるような顔だった。
「庇うとは、随分仲良くなったんだな」
「ただの事実だ」
実際この騒動の発端は、私が勝手に行動したのが理由だ。
だからこの気の強くない青年が責められるのは、お門違いでしかない。
「まぁ生きていたならいい。帰るぞ、いいなヘテラ」
「……分かった」
フォルドの言葉に、私は静かに頷く。
逆らったところで、逃げきれないのは目に見えている。
実力は今、目の前で見せつけられた。
「エスター、怪我はないか」
「大丈夫だよ、先生」
腰を抜かしていたエスターが、今度はフォルドに手を引かれて立たされる。
エスターの表情はうまく疑念を隠していて、いつも通りにしか見えない。
だがエスターが後ろを向いた瞬間に、フォルドがエスターの首筋を注視しているのを見てしまった。
(さっき光った所を見てるな、後で確認してみるか。首の後ろは本人に見えない場所だ、そこに何かあるかもしれない)
けれど調べるのは後だ。
今はもうフォルドについていき、おとなしく安寧の家へと帰るしかなかった。
帰ってきた家の前で、フォルドにばしゃりと冷水を被せられる。
そこまで肌寒い気温ではないが、暖かくはないので普通に地獄だ。
「ぎゃあああああ! 冷たい!!!」
「いつも先生びしょぬれで入って来ると思ったらそういう事か! うああああ寒い!!!」
獣の返り血を洗い落とす為だとは分かっているものの、これ自体が罰のように辛い。
全身から水を滴らせながら、エスターも震え上がっている。
平気な顔をしているのはフォルドだけだ。
「血塗れで家に入る訳にはいかないだろうが」
「お湯出るようにしよう! 先生だって冷たいだろ!」
半分絶叫しながらエスターは、一足先に頭から水をかぶっていたフォルドに訴える。
だが目の前の男は自らもびしょ濡れなのに、少しも堪えている様子はない。
「ぶっちゃけ平気だ」
「俺達がきついです!!!」
「でも温水は血が落ちないんだよな」
「血を落とす薬を作ります!!!」
(くそ、気が抜けるな!)
漫才のようなやりとりを聞きながら、血が落ちるまで冷水に耐える。
何度目かの洗い流しを終えた後、ようやく私は柔らかい布に包まれた。
「ヘテラ、すぐお湯沸かすから風呂入ろうな。じゃないと死んじゃうぞ」
いつの間にかタオルを取りにいったらしいエスターが、ごしごしと私の水気を拭き取る。
自分だってまだびしょ濡れで震えていて、きちんと拭けていないのに。
「半泣きの人間が先に入った方がいいだろう」
「いや、俺は大丈夫だから。…………くしゅんっ」
我慢しようとして、しきれなかったくしゃみをエスターが漏らす。
フォルドが即席で庭に用意した焚き火に当たっているが、外に出ていないエスターは体が弱い可能性もある。
だから私はまだ濡れていないタオルを手に取って、細絹のような髪をそっと布で包み込んでやる。
「ありがとう。優しいな」
「お前には負けるよ、エスター」
いくら理由があるとはいえ、こんな敵意に塗れた奴に優しくできる奴には。
そう思って言った言葉だったのだが、照れ臭くなったのかエスターはちょっとだけ目を逸らす。
どうにも調子狂うなと思いつつ、私はエスターの体を拭き続けた。
(本当、分からないことだらけだ。でも、このままじゃ無駄死にすることだけは分かった)
異世界の夜は想像していた以上に、危険な世界だった。
けれど同時にこの夜の出来事は、私に一つの決意をもたらしてくれた。
(話を、聞いてみよう。理由がなんであれ、この人たちは聞いてくれる)
それは、これから私が生きていくために必要な事だ。
復讐するには、生きていないといけないのだから。
(少しだけ、気持ちが落ち着いた)
復讐と自殺願望で揺れていた気持ちは、やっと片方に傾いた。
だから私も生きる為に、少なくともエスターの言葉を聞くことに決める。
(けれど、明日はフォルドに怒られるだろうな)
逃げ出さないと決めた代わりに、別の問題が浮上する。
けれど、それは甘んじて受けるべきだろう。
きっと、それもここでは必要なことだろうから。
2章完結です、ここまで見ていただいてありがとうございます!
もし良かったと思っていただけたら、評価よろしくお願いします!(下部の★でつけられます)
続き気になる人はブクマお願いします!




