2 僕の知らない君-3
僕は走っていた。息を切らして、地面を強く蹴った。
目指す先はどこかわからない。ただ僕は白を探さなければならないのだ。
筋肉痛が酷いせいで速度が上がらない。くそ、昨日姉さんにこき使われなければもっと速く走ることができたというのに。
紙矢様は最後に言った。
「あの子はたった今〈ユガミ〉浄化に行っているところだ。場所までは言えない。でも、行ってあげてくれないか。私の光は訓練を受けないと使えるようにならないが、〈ユガミ〉を知った君の存在はきっとあの子の助けになる」
くそ。何だ、白が僕にこのことを言わなかったのは、僕を単純に巻き込みたくなかっただけじゃないか。一人で背負って、誰にも知られずに頑張って。ああ、今まで知らなかった自分に腹が立ってくる。
息が限界まで上がる。肺が痛い。日ごろの運動不足が憎い。
それでも、僕は走るのをやめない。白を見つけるまでは止まるわけにはいかない。
僕は、どこからか湧いてくる「白を助けなければならない」という気持ちを止めることができなかった。
白は紙矢川の河川敷にいた。
もう既に辺りは暗くなっていたが、それがかえって彼女の使う光を目立たせていた。おかげで近くを通った際に僕はその姿を見つけることができた。
僕は呼吸を整えながら土手の上から様子を伺っていた。彼女に走ってきたと気付かれたら余計な心配をかけると思ったからだ。
しばらくすると声が聞こえてきた。男性の声である。
「熱っ! もうちょっと優しくできないのかよ」
「すみません。もうすぐ終わりますから。もうちょっとだけ我慢してください」
そこには、暗い中で一生懸命男性の腕に手をかざし、紙矢様の光を当てている白の姿があった。男性は痛みを我慢しているような苦悶の表情を浮かべ、白は何かに耐えるように歯を食いしばりながら、自分の手の甲を見つめて光を当てていた。
僕がそこに来てからおおよそ2分が経過した。
突然、光は消えた。おそらくユガミ浄化が終わったのだろう。
僕は彼女のもとに駆け寄る。
白が光を当てていた男性はなぜ自分がここにいるのかわからない、といった顔であたりを見渡すと、駅の方に消えていった。
それを確認した白は脱力したようにへたり込んだ。彼女は心配になるほど息が上がっており、大量の汗をかいていた。
僕は猛烈な頭痛に襲われた。
これが〈ユガミ〉を浄化するということなのか。
彼女が「もうすぐ終わる」と言ってから2分は経った。つまり僕がここに来るまでに彼女が費やした時間は1分や2分ではないはずだ。しかも、解除された男性は本当に何も覚えていなかった。彼女の行いは誰にも観測されず、彼女に助けてもらった人たちは彼女のことを覚えていられない。こんな仕打ちがあるのか。たった一人の少女にこんな運命を背負わせて。
「こんなことがあっていいのか……」
白は僕の口から漏れた声で僕に視線を向け、小さく口を開く。
「柊さん……。いつから……いたんですか?」
弱々しい声だった。いつもの元気な白はそこにはなかった。僕は彼女に歩み寄る。
「済まなかった。一人で背負わせて」
「大丈夫です……。すぐ動けるようになりますから」
僕は言葉を止めない。
「今まで、1人で、よく頑張ったな」
「大したことありません。寝れば……治るんです」
東から、とても強い風が吹いてくる。今の彼女なら飛ばされてしまいそうだ。
彼女は僕に向かって口を開いたが、その声は僕の耳に届く前に風によってかき消された。
僕は彼女を守るように風上に立ち、自分の手を彼女の小さな頭に乗せると言った。
「でもこれからは僕が君を観測する。これから、君の頑張りは僕がすべて見ているから」
彼女はそれを聞くと鼻をすすり、「ふぇ」という声を出して、目から大粒の涙をこぼした。
僕は彼女が泣き疲れるまで、彼女の頭をずっと撫でていた。
僕は彼女を労わらなければ、慰めなければならない、そんな気がしたのである。
彼女は一通り涙を流すと、少し恥ずかしくなったようで、「すみません」と言って僕から離れた。
移動するために地面についた彼女の手は未だに震えが止まっていなかった。
僕は今まで、この少女が辛い思いをしていた間に何をしていただろうか。家でコーヒーを飲みながら映画を観ていただろうか。あるいはベッドに横たわって本を読んでいたかもしれない。
紙矢様は〈ユガミ〉が起こす超常現象は非科学的なものもあると言っていた。小学生の頃からそれらと戦わなければならない恐怖は、それしか選ぶ道がない絶望は、どれほどのものだろうか。しかもその恐怖に打ち勝って〈ユガミ〉を浄化したとしても、それは世間の誰にも認知されず、なかったことになってしまうのだ。
彼女は、こんな世界があることを他の誰にも見せたくなかったのだろう。だから〈ユガミ〉から、紙矢様から僕を遠ざけようとした。どこまでお人よしなんだ。自分だけ辛い思いをしてそれを押し殺して、笑顔で。
僕は自分の罪を告白せずにはいられなかった。
「済まない。先ほどの言葉でわかったと思うが、僕は紙矢様から〈ユガミ〉のこと、君のことを聞いてしまった」
彼女はそれを聞くとため息を吐き、困ったような笑顔を作った。
「柊さんは約束を守るお方なのですから、何か特別な事情があったのでしょう。紙矢様に何か吹き込まれましたか?」
彼女は人が良すぎる。出会って1ヶ月しか経っていない僕のことをどうしてそんなに信用できるのだ。
僕は自分を罵らずにはいられなかった。
「言い訳はしない。僕は先ほど君との約束を破った、それは動かしようのない事実だ。僕は、君を助けたいという偽物の正義感に身を潜めて、自分の好奇心を満たすために紙矢様の話を聞いたんだ」
さらに風が強くなる。揺られる草木の叫び声のような風の音が僕たちを襲う。
彼女は弱々しく微笑んだ。
「嘘ですね。だって、柊さんは今私を心配してくれています。偽物なんかじゃないです」
「違う。これは義務感だ。正義感とは似て非なるものだ」
「義務感……ですか」
そうだ、これは僕にしかできないことなのだ。平凡な僕が、唯一人と違うこと、それは彼女を観測できることだ。ここで僕がやらなければ、彼女を助けられる人はいなくなってしまう。
僕はこの力を存分に発揮し、彼女を助ける、いや、助けなければならないのだ。
「柊さん、少しだけ、考える時間を私にくれませんか」
僕は暗い川に目を向けて頷いた。
「ああ」