2 僕の知らない君-2
彼女は白には「紙矢様」と呼ばれているらしい。紙矢様は普通の人には見えず、彼女を観測できるようになるためには2つ条件がある。1つは、成人していないこと、もう1つは紙矢様がいる泉神社によく通っている人物であることだ。
「今、私の観測者はこの世界に2人しかいない。白とお前だ。というのもここに通う若い者がお前たちしかいないものでな。もっともお前が私を観測できるようになったのも最近だが」
「それで、白は今どんな状況なんですか?」
神様改め紙矢様はそれを聞いて顔をしかめる。しかめたその顔ですら彼女は美しい。
「順を追って説明してやるからまあ待て。どこまで話したかな」
「スミマセン。観測ができる条件までです」
釈然としないが僕は謝った。
「そうだったな。では神の仕事について話しておく。私たち神の仕事は主に2つ。皆の〈ねがい〉を叶えること、それから世界の〈ユガミ〉を取り払うことだ」
紙矢様曰く、人々の〈ねがい〉を叶えることは力の強い神様しかできないらしい。神様の力の強さはその土地の信仰の強さに比例し、その土地の信仰が強ければ強いほど〈ねがい〉を叶える力も強くなる。紙矢様の信仰の弱さは泉神社の規模の小ささを見れば言うまでもない。
「私が言うと負け惜しみのようになってしまうのだが、私は神が積極的に人々の〈ねがい〉を叶えるべきではないと考えている」
紙矢様はそう語った。
僕もそう思う。誰か特定の人々の願いを叶えることが、誰かの願いを奪うことに繋がるかもしれないからだ。三角関係なんてまさにその典型だろう。人の想いを捻じ曲げてまで特定の誰かの願いを叶える必要はない。この点に関しては、神様は見守る役割にいるべきだと僕は考えている。
僕は深く頷くと、紙矢様は嬉しそうに微笑む。
「理解してくれて嬉しいよ。でも、この世界にはもう一つ、今度は私たちが手を加えなければならないものが存在しているんだ。私たちはそれを〈ユガミ〉と呼んでいる」
僕は聞き返す。
「歪み、ですか」
「ああ。〈ユガミ〉は人々の〈ねがい〉に寄生し、〈ねがい〉を強制的に歪ませて成就させる。そして時にそれは、ねがった本人及び本人に関することに超常的な影響を与える」
全く意味が分からない。彼女はどうやらもったいぶって話す癖があるようだ。
「すみません。うまく理解ができなかったのですが」
「例えばそうだな、過去にあった〈ユガミ〉の事例として、人間関係に悩んでいる子がいた。彼女の本当の〈ねがい〉は『人間関係に悩まされたくない』だった。結果として〈ユガミ〉によって、彼女の悩みは解決した」
だったらいいのではないか、僕はそう言おうとした。
「彼女は〈ユガミ〉に自分の中の友達の記憶を全部消されたんだ」
僕は絶句した。それではまるで……。
「結果的に、彼女の人間関係問題は解決したと言える。彼女がその問題そのものを忘れてしまったからだ。だが、これではまるで、呪いだ」
僕は深くため息をついた。そして頭に浮かんだ質問を1つ発した。
「でも、それをなんとかするために紙矢様がここにいるのですよね」
紙矢様は少しだけ笑顔に戻って答えた。
「そう。私の力を使うことで〈ユガミ〉を浄化することができる。お前が前に見た光だな。私はこの光をいつでも出すことができる」
なるほど、それなら安心だ。
しかし、紙矢様は目を伏せてこう言った。
「ただ先ほど言った通り、私の存在は一般人には観測できない。私がこの光を使っても、人間の心に潜む〈ユガミ〉には干渉できない。だから、誰かが代わりに力を使う必要があるんだ」
誰か、か。紙矢様を観測できる誰か。僕は理解した。
「白のことですね」
紙矢様は少し悲しい顔で頷いた。
「そうだ。彼女は、去年から1人で本当によく頑張っている。でも彼女は少し要領の悪いところもある。なかなか苦労しているみたいなんだ」
僕は浮かんだ疑問を投げかける。
「光を使うのに、何か大変なことでもあるんですか?」
「ああ、個人差もあるが、白の場合は私の光を出すときに体力をかなり消耗する」
体力の消耗か。この間彼女が寝込んだというのもそれに関係があったりするのだろうか。
そうだとしたら、彼女は相当大変な思いをしてこの活動をこなしているということになる。
そしておそらく、白の代わりはいないのだろう。紙矢様の観測者は今は僕と彼女だけだと紙矢様は言っていた。
つまり、紙矢様が僕に対して求めることは……。
「貴方は、僕に白の代わりになれ、と言っているんですか」
紙矢様は俯いた。だが、その後顔を上げ、僕の目を見ると言った。
「そうだ。まあ代わりと言うより彼女を手助けしてほしい、ということになる。もちろん強制はしない。これは、君が決めることだ」
なるほど、大筋はわかった。
だが、僕にはまだこの神様に聞いていないことがあった。
「その答えに関しては、まだイエスとは言えません。1つだけ質問をさせてください」
彼女は頷いた。
「ああ、構わない。答えられる範囲で答えよう」
「紙矢様の光を使うことによるリスクは、本当に体力消耗だけですか?」
彼女は目を見開く。
僕は、紙矢様の話と自分の体験談を通して1つだけ疑問に思っていることがあった。
姉さんが白のことを覚えていられなかったこと、白の父が僕のことを覚えていられなかったこと、これらはその〈ユガミ〉とやらに何か関係があるのではないか。
例えば、その〈ユガミ〉を浄化した後、その人たちの記憶はどうなるのだろう。普通に考えてそのような超常現象が頻繁に起これば、それが世間の人々に認知されないわけがない。自らの身を捧げ、超常現象から人々を助ける「泉白」という少女の存在は、ヒーローとして世間に認知されているはずだ。だが、彼女の存在は誰にも知られていない。つまり、
「〈ユガミ〉を浄化したらその〈ユガミ〉のせいで起こった超常現象は、最初から存在しなかったことのように人々の記憶から削除される。違いますか?」
彼女はため息を吐いた。
「そうだ。〈ユガミ〉は人々が何かをねがう過程で生まれた間違いのようなものだ。つまりその間違いを正すと、その〈ユガミ〉に関係したことは人々の記憶の中ではなかったこととして扱われる。〈ユガミ〉を浄化する前の記憶を保持できるのは、私の観測者だけ、つまりお前と白だけということだ」
合点がいった僕はため息を吐いた。
「これは予想ですが、〈ユガミ〉が人々の記憶の中から削除されるということは、その間に僕らがしていた神社関係の仕事も人々の記憶から消されるということなのでしょう」
彼女は悲哀の表情を浮かべた。
「その通りだ。神社関係の仕事は私のためにあり、人々の〈ねがい〉を叶えられない神である私は〈ユガミ〉浄化のために存在しているようなものだ。〈ユガミ〉がなかったことになるということは私の存在がなかったことになるのと同義。つまりお前たちが私のためにしてくれた仕事も人々の中ではなかったことになってしまうんだ」
白の父親が僕のことを覚えていなかったのも、姉が白のことを見たことがない、と言っていたのも、それが原因だということだろう。白の父の記憶の中では、僕と白は掃除をしていないし、多分会ってすらいないのだろう。姉の中では、あの神社でせっせと境内の掃除をする白などいないのだろう。
つまり、〈ユガミ〉浄化の白の活動は、誰にも知られない。〈ユガミ〉を浄化してもらった本人ですら、白を認知することも、その献身に感謝することもできない。彼女の努力は、誰にも評価も感謝もされない。
しかも彼女の代わりはいない。生まれた時から、彼女がこうなることは決まっていた。
僕は、彼女が背負っている運命を前にしてもう何も言うことができなかった。
紙矢様は言う。
「光の習得には、かなりの時間もかかる。お前に無理強いする気はない。だが白は、少し頑固なところもあるが、正直者で素直で努力家で本当にいい子なんだ。だから……」
僕には、その次の彼女の言葉が何かわかっていた。
おそらく、夢で僕に必死に何かを訴えかけていたのは紙矢様だったのだ。
「世界の記憶に残らない白を、助けてあげてくれないか」