桃園川追想
天沼弁天池公園の敷地内には、昭和の中頃まで大きな弁天池があったという。私たちの予想通り、その池は桃園川の水源のひとつだったのだけど。
「弁天池はなんやかんやで無くなっちゃって、残ってる方の池も、いまは井戸水を汲み上げてるみたい」
「なんやかんや、ってゆーと?」
「えーとー」
楢谷さんの話によると。関東大震災とか戦後の経済成長とかの影響で住宅地や舗装された道路が増えて、かわりに田畑や雑木林が無くなったことで、水脈が涸れてしまった、ってことらしい。
公園の片隅に建っていた小さな弁天社については、これといった情報は見つからず。
「多分だけど、元は弁天池の中に建っていたものを移動したとかじゃないかなー」
「それっぽい気もするけどさー」
すっきりしないけど仕方ない。その辺は置いといて、机の上に視線を向ける。
広げられた白地図には、土日で調べてきたらしい桃園川の流路が書き加えられていた。
弁天池公園から始まる青色の線は、緩やかに蛇行しながら東へと続いていく。途中、私たちが白黒の猫を追いかけた辺りで二本に増えた流れは、大通りを越えた先でさらに枝分かれしながら南東へと進路を変えている。
「この辺、水路がごっちゃごちゃじゃない?」
「そーそー、高円寺の方まで行くとまっすぐなのになー」
楢谷さんの言う通り、中央線を潜ってからの流路はほぼ直線で、どういうこっちゃとふたりで頭を捻る。
桃園川の流路は天沼、阿佐ヶ谷、高円寺と続いているけど、全体を見ても阿佐ヶ谷だけがやけに複雑で。
「なんかさ、ここだけ昔のまんまって感じだけど」
「田圃がしぶとく残ってて、区画整理できなかった、みたいなー?」
「うん、よく見てるじゃないか」
「ひょっ?」
いきなり頭上からかけられた声に、楢谷さんの体が跳ねて机を揺らす。
転がり落ちそうになったペンを抑えつつ顔を上げると、そこには横から地図を覗き込む女性の姿があった。
えんじ色のジャージに、灰色のマスクと赤い縁のメガネ。長めの茶髪は頭の上で雑に纏められている。
首から下げられた名札と左手のクリップボード。昼休みの見回り中らしき先生は、私たちの戸惑いを余所に言葉を続ける。
「区画整理が行われなかったのは合ってるけど、その理由は一考の余地がありそうだ」
「理由、ですか」
「とはいえ、当時の状況から推測するしかないんだが」
問いかけた私をちらりと見ると、先生は姿勢を正した。
社会情報の鍬塚奏。胸の下でふらふらと揺れる名札を確かめて、そういえば一度授業を受けたっけと記憶を掘り返しながら、顔を上げて話の続きを待ってみるものの。
「いま巡回中だし、詳しく聞きたかったら後でおいで」
それだけ言って、先生はさっさと教室から出て行ってしまった。
一体何だったんだろうか。楢谷さんに視線を向ければ、彼女は困ったように頭を掻いた。
「この地図、奏先生にプリントしてもらったんだよねー」
「ちゃんと申告通りに使ってるか確かめに来たってこと?」
「たぶん」
私にやましいところは無いとはいえ、ひやりとする話である。まあ、それはそれとして。
「区画整理されなかった理由、か」
「どうせ今日は歩くの無理そうだし、放課後は情報室に行ってみるー?」
別にいいけどー、と生返事しながら、窓の向こうの曇り空へと目を向ける。午後から雨の予報は当たりそうだった。
†
「せんせー、よろしくお願いしまーす」
「はいはい。一応、資料は用意してあるよ」
そんなこんなで、放課後の情報室。教員用のパソコンの前に座っていた鍬塚先生が、顔を上げてこちらに向き直る。
「時間はあるかな?」
「大丈夫です」
それじゃあまずは前提から、と先生は話し始めた。
「江戸時代の初め頃まで、桃園川流域の稲作は細々と行われていた。それが変化したのは、玉川上水からの分水が引かれて水量が増えてからだ」
楢谷さんの肩をつついて耳打ちする。
「たまがわじょうすい、って?」
「飲み水のために、多摩川から江戸まで掘った水路、だったかなー」
「そっちの話は本題から外れるから、ひとまず置いておいて。それからおよそ二百年後、大正初期の地図がこれだ」
椅子を引いて脇に退いた先生の横から、パソコンの画面を覗き込む。地名や地図記号は少しぼやけてるけど、雰囲気は掴めそうだった。大正時代の地図の右側には、最近の地図が並べて表示されている。
「見ての通り、桃園川流域の谷間には水田が広がっていて、その周辺は大半が畑や原野、雑木林になっている。市街地は南北の街道沿いに集中していて、人々の往来もそちらが主流だった」
「線路はあるみたいですけど」
「この頃はまだ駅が無かったし、もっぱら路面電車の方が利用されていた時期だった。状況が大きく変化するのはここからだ」
先生がマウスをクリックすると、画面の地図が切り替わった。市街地を示す網掛けの部分が、一気に広がっている。
「阿佐ヶ谷と高円寺に駅ができたことで、人口が飽和状態だった都心部から郊外に人が流れ込んできた。駅周辺はあっという間に商店や住居が立ち並んでしまう」
「でも、川沿いはまだ水田ですね」
「すぐに家を建てられる場所じゃあないからね。今と違って、土地を造成するのも大変だったろう」
そう答えながら、先生は地図を右へ、左へと動かしていく。
「高円寺では、たまたま水田の上を通っていた送電線に沿うように川の流れを直線化できて、そのついでに土地の埋め立てを行うこともできた。駅から距離のあった天沼でも、どうにか複数の流路を一本にして、半端ながらも流域の区画整理を完了させている」
さて、と鍬塚先生は私たちを見上げてきた。
「それに対して、阿佐ヶ谷はどうだろうか」
「むむむー」
唸る楢谷さんの横で、地図に目を凝らしてみる。
駅のすぐ南側にあった水田は姿を消していて、すっかり市街地になっている。駅北側の商店街も、桃園川の谷筋を侵食し始めている。
ジェラート屋さんがあったのって、確かその辺だっけ。じゃなくて。
「区画整理する余裕が無かった?」
「多分ね。この時点でまだ水田だった場所も多いんだが、そちらよりも駅周辺の開発が優先されたのか、あるいは」
「あるいはー?」
「計画を立てようとはしたけど、地域住民の意見が纏まらなかったのか」
なにぶん百年も前のことだし記録に残るような話でもないから、その辺ははっきりしないけれどね、と先生は話を締めくくった。
†
ここ数日でいろいろと書き込まれた地図を上から眺めて、先生は何やら感心する様子を見せている。
「やっぱりいいね。なかなか楽しそうじゃないか」
「それでそのー、下流の方もプリントして欲しいかなーって」
「了解了解」
地図を楢谷さんに返した先生は、パソコンに向き直って何やら操作し始める。
「ベースは白地図として、ああ、そうか、レイヤー設定また最初からか」
建物は非表示で、字名と記号は表示、とか呟きながら、慣れた手つきでマウスを動かして。
「高円寺から神田川の合流地点まででいいかい」
「おけまるですー」
「じゃあ、これで印刷するとして」
タタン、とキーボードを叩いて、横のプリンターが動き始めたのを確かめてから、私たちの方に向き直る。
「楢谷くんは今後も地図が必要そうな感じかな」
「えーっと、そですね」
そこでなんでこっちを見るのか。仕方ないので顔を近づけて相談タイムに突入する。
「ほかにも気になる場所があったりしたり?」
「中学まで、あんまり遠出できなかったからー、あるっちゃあるー」
「だったら頼んじゃえばいいんじゃない」
何やら心細そうな楢谷さんに頷きを返す。彼女がやる気なら、それに付き合うのはやぶさかではない。やぶさか、合ってたっけ?
「となると、印刷までの操作手順をちゃんと教えておいた方がいいな」
「うぇ」
思わず漏れたっぽい嫌そうな声に、鍬塚先生も苦笑する。
「教師は雑用係じゃないぞ」
「こーゆーの、あんま自信がないんだけどー」
それはなんとなくわかる。スマホの操作もまだなんか怪しいし、調べものするのは図書館みたいだし。
「使い方知っといた方がいいっしょ。一緒に聞いたげるから、ほら」
「うう、おてやわらかに」
「分からないところは何でも質問してくれたまえ。それが教師の本業だからね」
そう言って、先生は新しい白地図を私たちに差し出してきた。
†
それから二日後の放課後。私たちは、ジェラートを片手に大きな白い鳥居を見上げている。
阿佐ヶ谷のごちゃごちゃした暗渠にリベンジしている途中で、せっかくだからこの辺の神様にも挨拶しておこう、と神社マークの場所に立ち寄ったのだけど。
「でっかいねー」
「確かに大きいけどさ、なんかこれ地図記号みたいじゃん?」
「あー、わかりみ」
まっすぐで飾り気のない鳥居には額もついていないくて、シンプルここに極まれり、みたいな。
「鳥居のデザインって、神社の御祭神の系統でざっくり二種類に分かれててー」
「そなんだ?」
詳しくは覚えてないんだけど、なんて言いつつ辺りを見回し始めた彼女に、鞄から引っ張り出したビニール袋を差し出す。
「ゴミ箱ないっぽいし」
「なんとー、準備よきかな」
「基本でしょ」
食べ終わった後の容器を持ったまま歩き回らずに済むように、いつもひとつふたつ用意してあるのだ。
受験勉強してる間はまったく出番が無かったけど、それはそれとして。
最後のひと口を味わって、口を縛ったビニール袋を鞄に入れて、鳥居の横に目を向ける。石碑に大きく刻まれた名前は、
「みょうじん、じゃなくて、逆か」
「神明宮ですなー」
「え、ここって神社じゃないの?」
「んーと、八幡宮とか明治神宮みたいな感じで」
神社とついてないけど、神社ではあるらしい。ひとまずメモをとってから、広そうな境内に足を踏み入れる。
すぐ右手に案内板を見つけて、ひとまずはここでしょ、と接近する。
「御祭神は天照大神さんと月読命さんと須佐之男命さん」
「有名どころじゃん」
日本神話あんまり知らない私でも、なんか聞いたことあるやつだ。太陽の神様と月の神様と、なんかやらかした神様。
ここは阿佐ヶ谷村の鎮守だったという話だけれど。
「すぐ隣の村なのにぜんぜん違う神様を祀ってるのって、不思議な感じじゃない?」
「創建された時代や場所とか、経緯とかの違いかなー」
新しく開拓された村に神社を建てようってなったときに、移住する前に祀っていた神様に来てもらったり、あるいは、ご利益のありそうな流行りの神様を呼んでみたり。
「古い集落の神社だと、その土地の氏神様が祀られてたりするけど、明治時代のごたごたで結構無くなっちゃったみたい」
「また世知辛いやつだ」
なんて話しながら、立派な門を通り抜けて参拝して。
五角形の小さな鳥居に困惑したり、社務所に並んでいた小洒落た御守りにちょっと興味を惹かれたりしつつ、私たちは神明宮を後にした。
†
緩やかな坂道を下って、再び桃園川の谷筋を辿り始めた私たちだったけれど、すぐに足を止めることになった。
病院の間を通り抜ける道の突き当りに、小さな石の鳥居を見つけてしまったからだ。
「阿佐谷弁天社、だって」
「こんなとこに弁天様ー?」
白地図を取り出して、現在位置を確かめても、神社のマークは見当たらない。
細かく枝分かれしていた水路のうち一番南側のものが、目の前の弁天社のすぐ近くを流れていたようだけれど。
「この辺にも湧き水があったかもってことだよね」
「別の場所から移転してきた感じじゃなさそうだしなー」
鳥居の右手に見える小さなお社は、何故か道路に背を向けている。ぐるりと正面に回り込んでみれば、社の脇にはとぐろを巻いた白蛇の像が置かれていた。
「なんか、祟られそうなやつ」
「元は龍神様を祀ってたのかなー」
お邪魔します、とご挨拶してから周囲に目を向ける。三方を駐車場に囲まれているためか、なんとなく開けた雰囲気だ。
「崖とか坂とかも見当たらないけど、ホントに湧いてたのかな」
「この辺に池があったのを、ぜんぶ埋めて平らにした、みたいな?」
ちょっと想像してみる。森の中に小さな池があって、その真ん中の島にお社がひとつ。池の水はすぐ近くを通っていた桃園川へと流れ込んでいた。みたいな感じだろうか。
何にしても、後で調べないといけないことがまた増えたのだけは確かだった。
†
一週間ぶりにやってきた阿佐谷中央公園のベンチに座って、ふたりで地図を覗き込む。
弁天社から谷筋の反対側に移動して、曲がりくねったコンクリート蓋の小道を辿ったり、新たな銭湯を発見したりしつつ、中央線北側の流路はだいたい辿ることができたけど。
「北東側の方が高低差あった気がする。坂が急な感じで」
「カーブの外側だったからかもー?」
川が蛇行している場所では、外側の方が流れが速くてより削れていくんだっけか。うろだけど。
「まだ時間あるけど、下流の方はまた今度かな」
「かなり距離あるしねー」
「それじゃ、今日のところはここまで?」
ちょっとだけ思案した後、楢谷さんの人差し指は地図上の一点を指し示す。
阿佐ヶ谷駅の左下に、四角い灰色の区画が三つ並んでいる。
「プール、じゃないか。なんだろこれ」
「この辺も昔は田圃だったよねー」
そう言われて、大正時代の地図を思い返す。駅ができて商店街になる以前は、桃園川の支流に沿って水田が広がっていた気がする。
「また湧き水とか?」
「なんか形が整ってるし、溜め池かもー」
「溜め池だけ残ってるとか無さそうじゃん」
ちょっと考えてみてもぴんと来なかったので、スマホで地図を開いて見てみれば、そこはどうやら釣り堀であるらしかった。
「釣り、やったことないな」
「私もないなー」
マイ釣り竿とか必要なんだろうか、さすがに餌は売ってるよねえ、なんて話しながら、私たちは公園を後にする。
†
線路沿いの裏道を通り抜け、阿佐ヶ谷駅の高架下をくぐって南側のロータリーへ。昔はここも水田の広がる低地だったはずだけど、今ではその面影はさっぱりで、ビルの谷間を多くの人が行き交っている。
賑わう駅前を横断して再び細い道へと入り込み、しばらく進めば目的地はすぐ近くだった。
コンビニの脇から西へと伸びる、ゆるくカーブした暗渠っぽい遊歩道。そこに入ってすぐの右手に、大きく「釣り堀」と書かれた看板がひとつ。
その奥の入り口らしき場所から覗いてみれば、すぐそこに釣り堀らしき池があって。
「うわ、けっこう人いるじゃん」
密ではないけれど、常連っぽい雰囲気のお年寄りがちらほらに、親子連れとか、くたびれたスーツ姿の男性とか。
入口の柵に張られた紙を見て、楢谷さんが呟く。
「金魚釣り一時間、六百五十円」
「え、やるの?」
「釣り竿も借りれるっぽいしー」
止める間もなく、受付っぽい建物の方へと歩いていく彼女を慌てて追いかける。
お釣りと釣り竿と釣り餌を受け取って、ふんふんと説明に聞き入ってる姿は、パソコンの操作方法を教わっていたときとは大違いだった。
迷いなく空いてるスペースに座り込み、鼻歌交じりで餌を丸め始めた楢谷さんをの後ろで、日差しを遮るようにそびえ立つマンションへと目を向ける。
昔はここから沈む夕陽とかちゃんと見れたのかな、なんて考えていると、いつの間にか釣り糸を垂らし始めていたらしい楢谷さんが口を開いた。
「とりあえず、十分交代かなー!」
「え、私もやるの?」
え、やらないの、みたいな顔で振り返られても。