桃園川遡上
昼休みの教室で、楢谷さんが目の前に広げた地図を、購買のたまごサンドを食べながら覗き込む。
地名と道路と記号だけが印刷された白地図には、私たちが二日前に辿った道筋が書き込まれている。
「いいじゃん。どしたの、これ?」
「ほふほひひーんほ」
「食べながら喋らない」
あんパンを牛乳で流し込んで、ぷはー、と一息。
「国土地理院の地図をちょいちょいとして、情報室のプリンタで」
「あれって、理由とか書かなきゃダメじゃなかったっけ」
「地域史の実地調査ってことでー」
なるほど、そういう理由でいけるわけか、と感心しつつ、地図に猫とか熊とか蛙とかを書き込んでいく。
「で、中央公園のあたりリベンジするの?」
「そーしようかなーとも思ったんだけど、土日使って図書館でもうちょい調べときたくって」
「じゃあ、週明けまでお預けか」
塾も無いし、せっかくいい天気なのになあ、と少し残念に思っていると。
「なので、今日はかわりに、上流の方に行ってみようかとー」
地図の空白地帯を突っつきながら、楢谷さんは言葉を続けた。
†
緩やかな石段をひょいひょいと上がり、鳥居をくぐって人気のない参道を進む。木々に囲まれた社殿の前で礼を二回、拍手を二回、それから、
「今日もいい感じになりますよーに」
小声で呟いて、勢いよくお辞儀する楢谷さん。私も黙って礼をする。
参道を引き返しがてら、あちこちにスマホのカメラを向け始めた彼女に問いかける。
「願い事、あんな適当でいいの?」
「お願いとゆーか、景気づけのご挨拶なので。熊野さんの縄張り荒らしたりしませんから、どうぞよしなに的なー」
いい感じでお願いします、じゃなくて、いい感じにしていこうぜーみたいな感じだろうか。わかんないけど。
前回は見逃していたらしい小さなお社や、大きな杉の根っこらしき物体を撮り終えた楢谷さんと、参道を引き返していく。
「遥ちゃんは、ちゃんとしたお願い?」
「あー、思いつかなかったし」
テストでいい点数とか考えたけど神様に怒られそうだし、結局は自分で頑張るしかないし。
高校の授業にもどうにかついていけそうだし、楢谷さんのおかげでなんとかクラスにも馴染めてそうだし、将来のことなんてまだ全然ふわっとしてるし。
右膝は、まあ、仕方ないし。
鳥居を抜けるまで考えたところで、これ以上悩んでても仕方ないじゃん、とすっぱり諦める。
「よしなにでいいや」
「うむ、よしなになー」
また適当な相槌を打ちつつ、楢谷さんは熊野神社の隣に建てられた小さな鳥居へと歩いていく。
鳥居の下には、男女の姿が彫られた石が置かれていた。確か、前に見せてもらった写真にあったような。
「こっちが道祖神さんで、こっちのお社が白玉のお稲荷さん」
「神様ちょっと密過ぎない?」
「中にも別の稲荷神社あったし、昔の区画整理でお引越しさせられちゃったとかかなー」
もともと水田や雑木林だった場所が住宅地になっていくにつれて、谷筋に沿って曲がりくねった土地では無駄が多いからと、この辺の川や水路をまっすぐに改修したらしい。
その際に、庚申塔やお地蔵様がまとめて一ヶ所に移されているようで、白玉稲荷や道祖神も似たような話かもしれないという。
「世知辛いやつだ」
「まー、実際のとこはちゃんと調べてみないとだけども」
†
天沼熊野神社を出て、楢谷さんの先導で歩くこと数分。私たちが衝突した、例のツタに覆われた建物の前から、一昨日とは逆方向に歩き始める。
川跡であるらしい歩道の北側には、道幅の狭い車道が並んで続いている。
「てゆーか、車道と歩道の幅ってば、同じくらいなんだけど」
「昔は川沿いの道路だったんじゃないかなー」
先に車道があって、後から川を埋めて歩道にしたから、こんなバランス悪い感じになったんだろうか。
なんて考えながら進んでいくと、今度は歩道を挟むように、南側にも車道が登場した。これはつまり。
「川を挟んで両側に道があったから、今はご覧の有様だよってことか」
「ほらほら、ちゃんと川っぽいじゃんー」
歩道の植え込みが左右交互に並んでいて、真ん中の舗装された部分は緩やかに蛇行している。
右へ左へふらふらしながら進む楢谷さんについて歩いていると、やけに細い道が左手に見えてきた。よく見てみれば、一昨日にも見かけたのと似た感じの、コンクリートに覆われた地面のようで。
「あっちの道ってば、蓋暗渠ってやつ?」
「やつかも? 斜めに伸びてるし、支流がここで合流してるのかなー」
スマホを構える彼女の後ろで、白地図を広げて確かめる。歩道を表す細い線は少し先で途切れているようで、とりあえず合流地点に印をつけておく。
†
しばらく進むと車道は姿を消して、狭い遊歩道が始まった。
二階建ての住宅に挟まれた日陰の道を、時折ひんやりとした風が通り抜けていく。そんな中、ほんのちょっと甘い香りがしたような気がして、私は顔を上げた。
視線の先に、細長い煙突がまっすぐ伸びている。その上の方に、赤い塗料で文字が描かれていた。影になっていて読みにくいけど、それはひらがな一文字のようで。
「ゆ」
「銭湯となー!」
いきなり興奮気味に足を速めた楢谷さんを追いかける。車道との交差点の手前で立ち止まって、角に建っていた店の看板を読み上げる。
「トレンディ、シャワー?」
「コインシャワーの決定版、本格派?」
「へえー」
シャワーだけの店とか、そういうのもあるんだなー、室外機の数凄いなーと感心しながら、右に曲がって車道を進んでいく。シャワー屋さんの隣には、さっき漂ってきた香りの原因らしき建物があった。
「コインランドリーだ」
「お湯でお洗濯だって。ありかなー?」
「ありなんじゃない。そんで、そのお隣が銭湯、と」
「リラックス、アンド、コミニティ広場」
看板に書かれた謎のうたい文句に、いや銭湯だよねと顔を見合わせる。昭和の香りがする空間で、行きかう人を避けながら、楢谷さんはスマホを構えた。
「銭湯やコインランドリーって、こういう暗渠沿いに多いらしくてー」
「水が大量に必要だからとか?」
ポンプとかで川の水を汲み上げて浴槽に、みたいなのを想像しながら聞いてみれば、ちょっとだけ違うかなと返ってくる。
「水道は早くから普及してたんだけど、下水の方はそうでもなくって」
「あー、そのまま川に流してたんだっけ」
生活排水で汚れた川の写真を、教科書か何かで見たような覚えがある。大量の水を処分するのに、川に近い方が便利だったんだろう。
かつては水田を潤していた川は汚れてしまって、今では下水管に姿を変えて遊歩道に埋められているけれど、その痕跡はこうして残っているらしい。
でも、そうなると、ちょっと気になることもある。
「ここの下水って、結局は神田川まで流れてってるわけ?」
「やー、さすがにそのままってことは無い、と、思うんだけどー」
自信なさげに語尾を濁した楢谷さんの姿に、後で調べておこうとスマホのメモを開いた。
†
銭湯を過ぎると、なんとなく人通りが増えてきて、同じ学校の生徒らしき姿もちらほらと見られるようになった。
駅が近いのかと思っていると、案の定、普段の登下校で歩いている商店街の通りとの交差点へと辿り着いた。
そういえば、この辺にもあったようなと左右を見渡せば、白い鳥居が視界に入ってくる。
「楢谷さん、神社」
「ちょい気になるし、ご挨拶していこー」
駅から反対方向、北へと向かう道は少し先で左に曲がっていて、その先に木々に囲まれた場所があった。
一方通行の狭い道路を、後ろからやってくる車に気を付けながら近づいていけば、鳥居に架けられた額の文字もはっきり見えてくる。
「はちなんとか神社」
「八幡神社、かなー」
「はちまんさんってどっかで聞いたことあるような」
なんだっけなーと記憶を探りながら、白い鳥居を潜り抜ける。
石段の手前、右側に立っていた、神社の由緒が書かれた案内板を撮影してから、楢谷さんはその内容をかいつまんでいく。
「御祭神は、八幡さまこと誉田別命と、市杵島姫命」
「いつくしま?」
「そそ、水の神様で、弁財天でー」
元は別の場所にあった厳島神社だか弁天社だかが八幡神社とくっついて、神様が二柱になったらしい。
弁財天は水が湧いていた池なんかでよく祀られていたらしく、この辺りに桃園川の水源があったんじゃないかと楢谷さんは語った。
とはいえ、ここから見た感じでは、境内は周りと比べて一段高くなっているし。
「池っぽいのは見当たらないかな」
「普通の神社は高台に建てちゃうし。ここじゃなくて、合祀される前の四面道って場所が怪しいんだけどなー」
「どこなんだろ」
東京に引っ越してきたばかりの私にはさっぱりで、スマホの地図で検索してみれば、ここから西の方にある大通りの交差点にマーカーが現れた。
四面道の名前がついているバス停や郵便局もあるようで、どうやらその辺りの古い地名であるらしかった。
「このまま川筋を辿っていけば、ひょっこり見つかるかもかなー」
「駄目だったら?」
「ちゃんと調べてからまたリベンジってことでー」
なんだか楽しそうな声に顔を上げると、困り顔のわりに明るい表情の楢谷さんと目が合った。
「調査対象がどんどん増えてきますなー」
「いやいや、大変じゃないこれ?」
「んーと」
どう言ったものやらー、と思案する様子で歩き始めた彼女と並んで、石段を上がって静かな境内に足を踏み入れる。
「知らないことがたくさんあるんだって気づかされるのってさー」
「うん」
「世界すげー広いなーってならない?」
「あー、わかんなくもない、かな」
何も知らなければ、ここなんて登校の途中で視界に入るだけの神社だし。遊歩道や銭湯だって、ただ通り過ぎる背景に過ぎなかっただろう。
水田の広がる谷筋の北側、木々に囲まれたお社を想像しながら、社殿の前で二礼、二拍手、それから一礼。
「よしなに」
「よーしーなーにー」
境内には稲荷神社だけで三社もあって、八幡さまもかなりの密じゃんねって話しながら、遊歩道へと引き返して。
再び川筋を辿り始めた私たちだったけど、今度はなんとも奇妙な物体に遭遇することになった。
†
†
歩道の左手、公園の入り口に、大きな金属製の輪っかが斜めになって刺さっていた。ぱっと見はアーチみたいだけれど、その下には時計の文字盤らしきペイントがされていて、これはきっとセットで時計を表現しているんだろう。けれども。
「八時十五分?」
「まーた意味わかんないのが出たなー」
「どっかに説明とかない?」
ふたりで辺りを探してみても、見つかったのは「知る区ロード、ときのオアシス」とだけ書かれたタイルと、注意書きが書かれた公園の案内板だけで。
なんで時計で、なんで八時十五分なのかわからないまま、折角だからと公園の中に入ってみる。
タイムカプセルの上の小さな日時計とか、富士山っぽいアート作品とかを横目に歩いていくと、左手にフェンスが見えてきた。
フェンスは公園の敷地の半分ほどを囲っていて、その内側は草木が生い茂っている。
「自然生態園、だって。ビオトープってやつかな」
「昔の水辺を再現してみましょーって感じ?」
フェンスに掛けられた説明板には、池もあるように書かれているけれど、どこにも水があるようには見えなかった。
さすがにこれは、探し物とは違うんじゃないかなと結論付けて、私たちは公園を後にする。
†
公園を出てすぐ、今度は右手に細い路地が現れた。また短い支流だろうかと覗いてみれば、少し先で緑地か公園らしき場所に行き当たっているのがちらりと見えた。
神社に入る前に鞄にしまっていた白地図を開いて、現在地を確かめる。八幡神社がここで、遊歩道を西に進んで。
北へと続く細い道の先に、博物館らしき地図記号があった。そのすぐ下に、ぐねぐねした曲線で囲まれた灰色の区画。
「もしかしてこれ、池じゃないの」
「なんとー?」
「学校のプールと同じ色だし、ほら」
念のためにその周辺をチェックしてみても、水のある場所を意味しているらしい灰色は他に見つからない。
よし、と早速歩き始めた楢谷さんを追って、すれ違うのも難しそうな裏道を通り抜けてみれば、その先はやっぱり広そうな公園になっていた。
目指す場所はどうやら公園の真ん中あたり。車止めを越えて、広場を横目にまっすぐ進んでいくと。
「あったー!」
「おー、ほんとだ」
小高い場所に囲まれた、ちょっと日本庭園っぽい雰囲気の岩場の中に、小さな池がひとつ。
どこからか聞こえてくる水音に耳を澄ませながら、池に沿って歩いていく。
「ここがゴールっぽくない?」
「どっちかってゆーと、スタートかなーって」
確かに、川としてはスタート地点かも。なんて考えながら、立ち止まった楢谷さんの視線を追いかける。
池の北側、建物の横に、池へと注ぎ込む流れがあった。岩に囲まれた場所から湧き出してくる水を眺めて、彼女はむむむ、と口をへの字にした。
「地下水、汲み上げてる感じかなー」
「そなの?」
私の問いかけに頷くと、楢谷さんは公園の中をぐるりと見回していく。
「この水はどこから来たのかって考えるとさー」
「何もないのに、ぽこぽこ湧いてきたりはしないってこと?」
「弘法大師じゃあるまいしー」
いや、あるいはもしかして、と考え込む彼女の横で、私も思案する。
放課後にぶらぶらした程度だからはっきりしないけど、この辺はほぼ平坦な地形で、坂があっても緩やかだ。湧き水から連想するような、傾斜のある山肌や窪んだ場所とは正反対の場所って感じがする。
改めて池の方を振り返る。いかにも自然に見えていたけれど、池の中の石灯篭とか、小さな島とか、奥の方に見える滝とか、かなり人の手が加わってることに気づかされる。
「ここでもないのかなー?」
「んー、水源があったのは間違ってなさそうかな」
スマホで地図を開いて見てみれば、ここが「天沼弁天池公園」であると示されていた。
昔はちゃんと水が湧いてる池があって、それが弁天池という名前で、ということは弁財天のお社もあったんじゃなかろうか。
なんて考えながら楢谷さんに地図を見せると、彼女も納得したように頷いてから、あれ、と呟いた。
「どしたん?」
「ほら、ここ、弁天社ー」
公園の片隅に、神社のマーカーがひとつ。ついさっきすぐ近くを通っていたはずだけど、見逃していたらしい。
とりあえず現物を確かめてみようと公園の入り口まで戻ってみれば、小さなお社がひっそりと道路に面して建っているのが見つかった。
ひとまず弁天様に挨拶してから、白地図に印をつける。
弁天社ってさっきの八幡神社と一緒になったはずじゃんね、という、考えても分からなさそうな疑問はひとまず置いといて。
道路の先を見通していた楢谷さんが、うーん、と悩まし気な声を上げた。
「やっぱり、水が湧きそうな地形には見えないんだけどなー」
「昔はもっとしっかり窪地だったのかもじゃん?」
「そーいえば、ここもう荻窪駅の近くだっけ」
それも関係ある地名なんだろうなー図書館で調べないとかなーとぶつぶつ呟く彼女を見ながら、ふと思い出す。
一昨日から何度も耳にしていたのに、ずっと聞き流してたけども、ほら。
「天沼って地名も関係あるのかな」
「それもあったやつだ、もー!」
東へ西へと歩いた末に、どうやら桃園川の源流らしき場所まで辿り着いて。
いよいよ情報を処理しきれなくなった楢谷さんが、弁天様の前で頭を抱えてくるくると回った。




