桃園川結義
静かな住宅地の路地裏は、春の日差しが届かなくて、首筋がちょっと肌寒い。
†
午後の授業の後、私はちょっとした用事で職員室に寄り道していた。用事自体はすぐに片付いたのだけど、そのせいでちょうど下校ラッシュの集団と鉢合わせてしまった。
一学期が始まってから一週間。周りはなんとなく緩んだ雰囲気で、同級生や上級生たちは雑談しながらだらだら歩いていて煩わしい。
ペースを合わせて歩くのも、いちいち避けて追い抜かすのも面倒くさくなって、人通りの少なそうな裏道へと入り込んだはいいものの。
駅から離れた住宅地に、隠れ家的な雑貨屋とか買い食いスポットとか、目を引くような何かがあるわけもなくて。
「別に期待してなかったけどさ」
なんて思わず小声で漏らしつつ、静かな十字路でふと横を見たところで、私の視線は遠くでお尻を振っている茶トラの猫に引き寄せられた。
気付かれないように後をつけていたのは数分か、それとも数十秒だったか。
茶トラの猫がするりと消えていったのは、壁一面が茶色のツタと緑色の葉っぱに覆われた、古いアパートっぽい建物の中だった。
夏になったらもっと凄いことになってそうだなあ、とぼんやり斜め上を見ながら歩いていたのが悪かったんだろう。
いきなり正面から、ぽすん、と軽い衝撃がやってきた。
「おおっとー」
「わ、ごめん、大丈夫?」
「っとっと」
近所の子供かと見てみれば、こちらに背中を向けていた相手は、私と同じ制服姿の女子だった。
少し癖のある長い髪に、微妙にサイズの合ってない上着。肩掛け鞄が重いのか、傾いた姿勢のまま一歩、二歩とよろめいていく。
五歩目あたりでどうにか立ち直って、くるりと振り返った彼女の顔には覚えがあった。名前は、確か。
「楢谷さん、だっけ?」
「ありゃ、教室ぶりー?」
入学してから数日の間に、何度か話したことがあるクラスメイトだった。
†
茶色と緑色に覆われた建物をいい感じに収めようとしてたらしい楢谷さんは、今度こそとスマホを両手で構えている。
「この辺、いろいろと気になってたから、探索中でして」
「色々?」
「そー、いろいろ」
ようやく納得のいく構図の写真が撮れて満足したようで、彼女はこちらに向き直って、スマホを操作し始めた。
「えっと、写真どこだろ」
「ギャラリーとかアルバムとかない?」
「アルバム、あーるーばーむー、って、これかな」
慣れてなさそうな、ぎこちない手つきでアプリを起動して、私の方に画面を向けてくる。
「すぐそこの庚申塔とか、道祖神とか、天沼の熊野さんとか」
「なまぬまのぬまのさん?」
「うわすっごいぬめぬめしてそう」
「いや、わかんないし」
何だか適当な紹介コメントに合わせて、どんどん左に流れていく縦長の石とか丸い石とか鳥居とか。何の変哲もない普通の住宅地だと思っていたのに、そいつらはどれもすぐ近くにあったらしい。
一通り写真を見せ終わって、思案気に周囲を見回し始めた楢谷さんが、ふと私の方に顔を向ける。
「この道、なんか川筋っぽいから、辿ってみようと思うんだけど」
「ついてっていいの?」
「べつに面白くないかもですけどー」
「んなことないでしょ」
似たような場所を歩いてたはずなのに、彼女だけ楽しそうにしてるのは、なんだか見逃せなかった。
†
そうして、ふたりで歩き始めてすぐ。遊歩道の途中にあったマンホールの下を、水が流れる音が聞こえてくる。
「こうさー、目を閉じて耳を澄ませると、小川のせせらぎみたいなのを」
「感じる?」
「やー、感じませんなー」
「ないんかい」
楢谷さんの推理によると、この辺りの遊歩道はその昔、川だか用水路だかだったんじゃないかってことらしい。今でも地面の下を雨水とかが流れていて、そのためか上に建物を建てられなかったり、車が走れなかったりするのだという。
「元がそんなだから、裏口もそんなに無いんよね」
言われてみれば。ぐるりと振り返ってみても、左右には塀が続くばかりだし、こんなに細い道では車も通れないだろう。
塀の下に謎の段差があったり、道路脇が苔むしてたり、改めて見るほどそれっぽい雰囲気を漂わせているような。
なんてことを考えていると、楢谷さんが袖を引っ張ってきた。
「にゃんこ」
「にゃんですと」
慌てて振り返る。遊歩道の先の方で、尻尾を揺らしながら、塀に沿ってゆっくりと歩いている白黒の野良猫が私にも見えた。
楢谷さんの後ろに隠れて、横からこっそりと様子を窺う。
「こっち来てる来てる」
「ほーらほら、おいでませー」
楢谷さんはスマホにつけているもじゃもじゃのストラップを振り回して、なんとか気を引こうとするけれど。
猫はぴたりと立ち止まって、にゃんだこいつらって顔でこっちを見てから、横道へと消えていった。
「駄目かあ」
「まだまだー!」
前のめりで駆け出した楢谷さんは、白黒の猫に続いて道を曲がっていく。急いで後を追ってみれば、彼女は少し先の十字路で立ち止まっていた。
「見失った?」
「むねんー。でもほら、なんか面白いの発見したので」
よきかなー、と楢谷さんが示した先には、何やら絵が描かれているらしい鉄製の車止めがあった。
†
†
あちこち塗料が剥げて錆びの浮いた車止めを、ぷるぷる震える中腰で撮ろうとしながら、楢谷さんは疑問を口にした。
「子供向けに昔話を題材にしましたーってゆーのは分かるんだけどー、なんで金太郎なんだろね」
「熊だから? 車止めだけに」
「いみふめーい」
「だってほら、桃太郎よりは車を止めれそうだし」
「かもだけどー」
まーさかりーかーついだー、きーんたーろーおー、んーふんふー、なんて、何だか不安になるリズムで口ずさんでから、彼女はおもむろに立ち上がった。
「んっふ! 探索再開!」
「途中から歌詞わかんなくなったっしょ」
「こっちの道を行ってみよーかなー」
メロディーもかなり怪しかったし、とは突っ込まない。私だってなんとなくのうろ覚えだし。
車止めに描かれた金太郎はかなり風化していて、その掠れた感じが私たちのふわっとした記憶とシンクロしてるみたいだった。
「あ、バッグありがと」
「まだあちこち撮るんなら、持ってるし」
「なんと、かたじけない」
そう遠くないうちにお役御免になりそうな車止めに背を向けて、楢谷さんは遊歩道へと足を踏み入れた。スマホのメモに「金太郎 歌詞」と打ち込んでから、私もその後を追いかける。
†
駅北の商店街を横切って、ついでに大通りの信号を渡ったところで、楢谷さんは期間限定さくら味ジェラートのカップを片手に、むむむ、と辺りを見回し始めた。
「何かあった?」
「ここ、ちゃんと谷底かなーって」
彼女と同じように、ガードレールからちょっと身を乗り出して、南北に伸びている大通りの先を見通してみる。どっちを見ても、道は少し先で緩やかな上り坂になっているように見えた。
「ここだけ低くなってるっぽいかな。ちょっとだけど」
「視線が高いのいいなー」
遠くまで見えるのが羨ましいと渋い顔をする楢谷さんと並んで、大通り沿いに歩いていく。コンビニの前を通り過ぎて、細い横道の前で立ち止まる。
大通りの反対側には、ついさっき歩いてきた道が見えていた。
「向こう側からまっすぐ来て、ここかな」
「おー、コンクリ蓋ー! 暗渠っぽい!」
道路の幅いっぱいに、灰色の分厚そうな蓋がずっと先まで整然と並んでいる。いかにもこの下に水が流れてますよっていうスタイルは、さっきまでの遊歩道とはだいぶ印象が違っている。
フェンスとかは無いし、別に通ってもいいんだろうけど、本当に大丈夫だろうかとためらってしまう。
「とーう!」
なんて私の心配をよそに、楢谷さんは興奮気味にコンクリの上に飛び乗った。とんとん、とコンクリの下を確かめるようなステップを生暖かく見守りながら、私はプラ製のスプーンを口に入れる。ふむ。
「あ、チョコフレーバーどないな感じー?」
「よきかな。ひとくちどうぞ」
「ありがたやー!」
†
阿佐谷中央公園、なんて町の代表っぽい名前のわりにそんなに広くない公園のベンチで、行き先に迷った私たちはスマホの地図とにらめっこしていた。
「やっぱ、最初に歩いてた方の道が正解なんじゃないの?」
「この辺ってば、もともと田圃だったみたいから、水路が並んでてもおかしくないしなー」
水田に水を引き入れるための用水路と、余った水を捨てるための川があって、川は谷の一番低いところを流れていたはず。そう聞いて顔を上げてみたものの、周囲はすっかり住宅地になっていて、高低差がいまいち分かりにくい。
阿佐谷なんて地名がついてるくらいだから、昔はもっとちゃんとした谷があったんだろうか。いや、逆に浅かったとか?
「さっきの分かれ道も怪しかったしなー」
「これさ、ぜんぶ辿るのはさすがに無理目でしょ」
スマホの小さい画面で地図を拡大縮小したり回転させたりするたびに、それっぽい小道があちこちに見つかって、だんだん頭がこんがらかってくる。
楢谷さんも似たような感じだったのか、諦めたように立ち上がって伸びをした。
「行ったり来たりで半端になるのも勿体ないし、他のルートはまた今度、ちゃんと調べてからリベンジしよーかな」
「そっか」
今日のところはこのまままっすぐ行っちゃおう、との提案に、私も仕方なく頷いた。また今度のリベンジのときには、私はお呼びじゃなさそうだけど。
†
スマホの画面だとわかりにくいし、次回は紙の地図も用意しようかなー、なんて話を聞きながら。コンクリ蓋の細い道とお別れして、川筋っぽい蛇行した道を進んでいく。
一段高くなっている病院の裏側を通り抜けてからしばらくして、電車の音が聞こえてきた。遠く前方に見えていた木々と建物の隙間を、銀色の車両が横切っていくのがちらりと見えた。
「あれ、もしかして中央線?」
「くねくね曲がってると、進行方向わかんなくなるねー」
高低差に気をとられつつ歩いているうちに、どうやら方角を見誤っていたらしい。
線路の高架が近づいてくるにつれて、人通りも増えてきて、静かな探索って感じではなくなっている。そういえば、空も少し赤らんでいるような。
「そろそろ、帰りのこと考えなきゃか」
「あー、門限とかある感じ?」
「ないけどさ、あんまり心配かけたくないかも」
居候の身の上なので、という余計な一言は省略する。楢谷さんは歩みを止めて、何やら思案して。
「したらば、中央線の向こう側を確かめたらおしまいかなー」
「あとは線路沿いに駅まで戻る的な?」
「そーそー」
行き交う人の多さに反比例して、テンションが少しずつ下がっていくように感じながら、絶賛工事中っぽい白い囲いを左手に、高架下を潜り抜ける。
暗がりを抜けたその先から始まっていたのは、きちんとしたタイル張りの遊歩道だった。
「うっわ、まだまだ続いてるじゃん」
「ほら、ここ。やっぱり川だったみたい」
道路脇、楢谷さんの右手が指し示す先には、なるほど川だけに、合唱するカエルたちの像があった。その台座の前面に、この場所の名前が刻まれている。
†
†
「とうえんがわ、りょくどう?」
「確か、桃園川、だったかなー。ここから神田川に合流するとこまで、遊歩道が整備されてるはず」
「へえ」
東京の地理はさっぱりで、神田川まで、の程度がいまいちピンと来てない私と。そっか、桃園川歩いてたんだ、と振り返る楢谷さん。
川沿いに桃の木がいっぱい生えてたとか、ホントに桃園でもあったのかもねー、と撮影を始めた彼女の横で、私もメモをとる。
「桃園って、三国志しか思い浮かばないや」
「誓いのやつねー」
死ぬときは一緒だぜって言ったのに、ぜんぜん一緒じゃなかったやつだ。一生の約束なんて、軽々しくするもんじゃない。中学生の私にも言ってやりたい。
「じゃあさー、私らも誓いのやつ、やってみない?」
「はい?」
口を挟む間もなく、勢いよく掲げられたスマホと、真剣な顔の楢谷さん。
「われら、共に登校できずとも! 共に下校することを願わん! みたいなー」
「あー、そういう感じの。って、なんで私と?」
「だって他のひとってば、こーゆー話ちゃんと聞いてくれないしさー」
少しだけ寂しそうに呟いて、彼女は表情を陰らせた。スマホを持つ右手が、段々と下がっていく。
「やっぱ面白くなかったかー」
「んなことはないけど」
楢谷さんの話は分かりやすかったし、大昔の風景を想像しながらぶらぶら歩くのはけっこう楽しかった。
むしろ、何も知らない私の方がお邪魔だったんじゃないだろうか。
「それに、朏さんのおかげで迷わず歩けたから」
「いやいや、かなり迷ってたっしょ」
「ひとりだったら地図も見れなかったし。暗くなるまでずっと公園の周りぐるぐるしてたかも」
どうやら迷い方にも良し悪しがあるらしい。すがるような視線を受けて、私は思わず目を逸らす。
「苗字で呼ばれるの苦手だから、名前で呼んで欲しいかな」
「遥ちゃんと呼ばせていただきます!」
「食い気味なのちょっと引くし、あと、塾の日は早く帰らないとだし」
「えっと、その、だったら、なるべくってことで」
「ゆるゆるの誓いじゃん」
すっごい譲歩っぷりにちょっと笑いそうになって、それを誤魔化しつつ、右手をそっと差し出して。
スマホがこつん、と軽い音を立てる。