相聞歌
夜、自然と球形にまとまるという奇妙な藻――毬藻の打ち寄せる浜辺に、小舟が底をついた。目的の湯治場は、まだ少し歩くと、名無しが言った。
鬱蒼と茂る竹林に、そこに暮らす忠実な人間のために自ら分かれて拓いてやったというような、奇妙な小径が伸びていた。人の手による竹桟橋とは異なる、ふかふかとした土と落ち葉の感触。道筋も複雑な分岐を含み、先導の名無しのが正しい道を開いているようにも思えた。
星と月の明かりを頼りに山へと歩き続けてしばらく、石と竹の垣根が見えてきた。
「……あれかい?」
プティーが言った。隠してはいるが、声に疲労が滲んでいる。
「そうだ」
名無しが答える。
「里の民が鍛錬の後で使えるように、湯治場として整えてある」
「湯治場ってことは――」
プティーの声に期の色が付き、名無しがうんと頷いた。
「オークスが使うものには劣るかもしれんが、寝床と、炊事場がある」
「いいねえ、いいねえ、ぐっと気分が良くなってきたよ。ねえ? メリア?」
問われたその人は、引きつったような笑みで応じた。
「湯浴みも宿もやぶさかではありませんが……私たちの目的を忘れられては――」
「わーすれてないってぇ!」
パン! とプティーの手のひらがメリアの丸まりがちな背中を叩いた。
「だからこそ! 今のうちにしっかりしっぽり疲れを癒やそうってのさ! ね!」
晴れやかな笑顔に、苦笑が応じる。
肩越しに見ていたアヅマが尋ねる。
「……竹の標本とやらは湯につけて平気なのか?」
「え? ……ああ、たしかに……」
肌身離さず手元に置いておきたい。が、温泉で変性されては意味がない。
メリアが真剣な顔で胸に抱く標本を撫でるのを見て、アヅマは言った。
「では、先に俺たち男衆が湯をもらい、後で俺がそれを――」
「そりゃ違うだろ?」
すかさずプティーが遮った。
「先にアヅマに預かってもらって私らがお湯を頂く。でもって交代。こういうのなんていうんだっけ? ほら、オークスたちが――」
話を振られ、メリアが両目を瞬いた。
「……レディ・ファーストですか?」
「それ! そいつ! 紳士は淑女を優先。それが男の甲斐性って奴だよ、アヅマ」
「……甲斐性か」
不満げに復唱するアヅマに、プティーは左の人差し指を突きつけ不敵に笑った。
「学んでおくれよ相棒」
「……心得た」
不承不承。そう評するのが妥当な顔になっていた。
*
青竹で組んだ小屋や、利用者を待つ白無地の湯浴み着はまだしも、自生する淡緑色に光る竹と、常に灯されているという石灯篭と、天然石を並べた広い風呂場は、隠れ里に作られたとは思えぬほど立派な姿だった。
オークスのメリアが湯浴み着を纏うのに理解は示すが、プティーにすれば無粋の極み。用意のあったモーソー・バンブーの徳利に、竹の節に溜めて作った酒を汲み、盃と一緒に盆に乗せて浮かべれば、
「……っっっっくぁぁぁぁ~~~~~~~……」
いささかはしたないくらいの声も出ようというもの。
プティーは肌で味わう温かさに身震いしながら酒を一杯ひっかけ、
「足柄の、土肥の河内に、出づる湯の、世にもたよらに、児ろが言わなくに――なんてね」
ため息に似た熱い息をつきながら、そう口走った。もらった湯のせいか、飲み慣れない酒のせいか、頬が仄かに赤らんでいる。
「……それ、なんですか?」
メリアが、油断すると広がろうとする湯浴み着の前合わせを寄せつつ尋ねた。
「んあ? それ? これ?」
絞った手ぬぐいを頭に乗せ、プティーは湯の底から抜き身のククリナイフを引っ張り出した。丸い滴の伝い落ちる刀身が、月明かりにギラリと光った。
その煌めきに、メリアは恐々と喉を鳴らす。
「それではなくて、さっきの、足柄の……、って、なんです? ポエムですか?」
「ポエム」
フフフと笑い、プティーはククリを湯の底に沈めた。
「まあ、だいたい合ってるかねえ。元は三十一文字で紡がれる――この竹で覆われちまった、ちっぽけな島に伝わる、和歌って奴だあね」
「……三十一音? ワカ? えっと……」
「細けえことはいいさ。万葉集っていう、古い詩集に載ってる詩だよ」
「……どんな意味の詩なんですか?」
「どんなって、そりゃ……」
プティーは急に遠い目をしてずるずると沈みだし、顔半ばまで湯に埋め、ボコボコと泡を吐くようにして言った。
「相聞歌だよ」
「……えっと、なんと仰いました?」
「……相聞歌!」
ザバン! と勢いよく身を引き上げて、語気を強めた。
「恋文みたいなもんさ!」
「恋文? でも、詩なんですよね? えっと……ラブソングってことですか?」
「ラブソング……いや、うーん……まあ、恋の詩ではあるけど……」
プティーは難しい顔をして頭の手ぬぐいを取り、顔に浮いた汗と水滴を拭った。
「……で、どんな意味なんです」
問われて固まり、一度、湯に顔をつけ、あげ、拭い、ジト目になった。
「だから、恋文とかラブソングだって言ったろ?」
「ですから、どんな意味の詩なのかな、と……」
「……足柄に湧く温泉が絶えないように、ふたりの仲も絶えたりしない――」
目の色を輝かせるメリア。
プティーはジト目に冷笑の色を加えた。
「――とは、あの子は言ってくれない」
「え。」
「ようするに。愛しのあの子が『ずっとあなたのことが好きだ』と言ってくれないと。そんな感じの、手前ぇの甲斐性なしを棚にあげて嘆く情けない男の詩さ」
「え、えぇ~~~!? でも、さっき恋文だって――」
「私に聞かれたって知らないよ。出さなかった恋文なんじゃないのかい? 」
話は終わりだとばかりにそっぽを向くプティー。
メリアは構わず非難めいた声で続けた。
「というか、アシガリはオダワラから通り過ぎてきた山のことですよね? ここはフジの足元ですよ? あと、その甲斐性なしというのは特定の誰かを――」
「――足柄の湯河原ってのは有名なんだよ! 温泉がらみで思い出しただけ!」
ほとんど怒鳴るように言い、ふたたび顔半ばまで――いや、今度は頭の天辺まで湯船に沈め、プティーは湯の底から夜空を望む。泉質のせいか湯が目にしみる。涙が出そうだ。ゆらめく水面の向こうで、月も絶え間なく揺れている。
念とあれば信念すら捨てるとアヅマは言った。彼の信念とはなんだろう。自身もバンブーズであるということは、すでに捨ててしまったのだろうか。
温かく、息苦しく、目の痛む湯の底で、プティーはメリアを見やった。
彼は、彼女に、やけに優しい。
そう思える。
気に食わない。
竹の花が咲くとして、長らく続いた竹との共生が崩れるとして、オークス以外に誰が困るというのか。バンブーズは困らない。むしろ生まれる前に背負わされた竹の原罪とやらから解き放たれる。そうなれば数で勝ってすらいるというのに。
息が苦しい。胸が詰まる。月が滲む。
ガボッ、と息を吐き出しながら、プティーは底を手で突き、派手に水飛沫をあげながら浮上した。立った波で酒盆が転覆する――間際、徳利と盃はきっちり回収、滴る湯の滴もそのままに仁王立ちとなる。湯を大量に浴びせかけられ、メリアがさかんに手で顔を拭っていた。目もまん丸くなっている。
「……ここは、なんだっけ? レイク・ヤマナカ? そんなら、同じ詩集に、こんな詩が載ってたはずさ」
プティーは盃に酒を並々と注ぎ、空に掲げて詠んだ。
「天の原、富士の柴山、木の暮の、時移りなば、逢はずかもあらむ」
「――万葉集だったか?」
急に、背後から聞こえてくる、低い声。ほとんど同時にプティーとメリアが振り向く。刀を担いだアヅマがいた。いつもより軽装――というか、褌一丁という、ある意味で半裸より非道い。
一拍の間を置き、状況を解して、メリアが金を切るような悲鳴を上げた。プティーが胸を隠しながら湯に飛び込む。シャバッ! とメリアの手が湯を払い、アヅマに浴びせかけた。その間に、プティーは湯の底に転がるククリを握り、立つと、本気で斬りにかかった。湯を裂く銀閃。飛び散る火花。アヅマが一瞬で刀を抜き打ち、ククリの鍔元を続飯附けに封じる。
じくり、としゃがみ込むアヅマと、器用に胸を隠すプティーと、交わる刃がピタリと止まっている。まさに拮抗。押し合うでなく、引くでなく。
「……覗きってなあ、褒められないねえ」
プティーが、湯のせいだけではなかろう紅潮を見せつつ、低く言った。
その、殺気とは色の異なる眼光を受け止めながら、アヅマは至極マジメに答えた。
「すまん。プティーが湯浴み着を着てないとは思っていなかった」
「……言いたいことはそれだけかい?」
プティーのこめかみに青筋が浮かぶ。すぐにアヅマがかぶりを振る。
「見てはいない」
淡々と言う。当然の如くプティーの牙がちらついた。
「私にゃあ両目をかッ開いてるように見えるんだけどねえ」
「では閉じよう」
アヅマは瞼を下ろし、言った。
「……一緒に湯をもらってもいいか?」
「…………はあ!?」
プティーとメリアの頓狂な声が重なり、チン、と金属質な音を立てて刃が離れた。
アヅマは、ほんの少しばかり申し訳無さそうに言った。
「湯の匂いと、漏れ聞こえてくる歌の話と――原始の竹の標本とやらを預かっているとはいえ、待ち続けるのは耐えがたい」
「……え?」
信じらないと言わんばかりに、メリアが顔をひん曲げた。
「標本は、こうして傍に置いている」
背後に、小さな竹籠があった。標本のために用意したのだろう。温泉の蒸気やら温度による変性を気にするなら、そもそも持ち込んでくれないで欲しかったが。
「……まあ、いいけど」
というプティーの満更でもない返答に、
「正気ですか!?」
メリアが目を剥く。嫁入り前に素肌を晒すのはよろしくない。オークスであってもバンブーズであってもそこは同じだ。当然の抗議というか、疑念というか、不審というか、どれでも間違いではないかもしれないけれど、
「アヅマに下心があるわきゃないし」
悲しいような、寂しいような、はたまた悔しいような。
プティーは様々な味を口中に感じつつ、続けた。
「入んのはいいけど、私と、自分の分の湯浴み着も持ってきてくれっかね」
「心得た」
応じるアヅマは、普段となんら変わらない。




