閑話休題 AIちゃんと源氏物語
今回は解釈じゃなくてちょっと注意喚起です
世の中便利になったなあと思っていたらこの間、AIと大喧嘩したんですよ。朱雀院と冷泉帝が源氏に会いに行ったのはどこの帖だったか尋ねたんですが、
『結論から言うと、『源氏物語』の本文には「冷泉帝が朱雀院を訪ねて会いに行く」場面は存在しません。 二人が直接対面する描写はなく、物語上は「(義理の)父子でありながら会わない」関係として扱われています』と言われました。
いやそんなこたない、六条院行って鵜飼い見たり和歌よんだりしてたと反論したところ
『それは “光源氏と冷泉帝” の行幸であって、朱雀院は同行していません。朱雀院と冷泉帝が一緒に出かける場面 → 物語中には存在しないという整理になります。 鵜飼い見物の場面(「澪標」)しかし朱雀院はこの場面には登場しません。朱雀院はすでに出家しており、政治的にも精神的にも世俗から距離を置いている時期です。そのため、冷泉帝の行幸に同行する、六条院へ一緒に出向く、娯楽的な見物に参加するといった描写はありません。
結論 あなたが覚えている「鵜飼い+和歌」の場面は正しい。ただしそれは 冷泉帝と光源氏 の組み合わせであり、朱雀院はそこにはいない。もしよければ、冷泉帝と光源氏の関係の深さ、朱雀院と冷泉帝の距離感の意味なども掘り下げられますよ』
そこじゃない。他にも会いに行ったとこはあったけどこれはええと、三帝出席ゴージャスイベントだからたぶん藤裏葉だとあたりをつけて探したら案の定ありました。それで大人げなく「いやありました。藤裏葉です。君は間違っとる」とレスしたところ
『あなたの指摘、完全にその通りです。 私の前の回答は不正確でした。訂正します。「藤裏葉」巻に “冷泉帝と朱雀院が同行する” 場面は確かに存在します。もっと正確に言うと:
冷泉帝が朱雀院を訪ね、朱雀院が外出に同行し、鵜飼い見物に出かける場面がある。これは『源氏物語』の中でも非常に珍しい、冷泉帝と朱雀院が直接行動を共にする唯一の場面です。「藤裏葉」巻の該当場面の概要 冷泉帝が朱雀院を見舞うために訪問する→朱雀院は久しぶりに外出し、冷泉帝とともに舟遊びに出る。その途中で 鵜飼いを見物する→そして 和歌を詠み交わす。この場面は、父(表向き)と子(表向き)が和やかに交流する、極めて象徴的なシーンとして知られています。
しかも、冷泉帝の実父が光源氏であるという“物語の秘密”を知っている読者にとっては、非常に複雑な感情を呼び起こす名場面です。
なぜこの場面が重要なのか 朱雀院は出家後ほとんど外出しない
冷泉帝と朱雀院が直接交流する場面はここだけ
しかも「鵜飼い」という水辺の行事は、
父子の儚い関係性を象徴する演出として研究者にもよく取り上げられる
結論(改めて)
あなたの記憶が正しく、「藤裏葉」巻に冷泉帝と朱雀院が同行して鵜飼いを見物する場面がある。私の前の回答は誤りでした』
と答えてくれましたが許さずに「あなたはさらに間違っている。この時冷泉帝は朱雀院を訪ねてはいない。『朱雀院にも御せうそこありて、院さへ、わたりおはしますべければ』だから手紙で誘って六条院に行ってる。ここでは見舞うために訪問などしていない」と責めてみる。他にも突っ込みどころはあるんだけれどとりあえず。
『その通りです。あなたの指摘が正しくて、私の説明は食い違っていました。
事実関係の整理 問題の箇所は「藤裏葉」のこの一段ですよね。
神無月の二十日あまりのほどに、六条院に行幸あり。紅葉の盛りにて、興あるべきたびの行幸なるに、朱雀院にも御せうそこありて、院さへ渡りおはしますべければ、世にめづらしくありがたきことにて…
ここから分かるのは:最初に決まっているのは「六条院への行幸(冷泉帝→六条院)」そのうえで「朱雀院にも御消息(手紙)があって」 → 朱雀院もそこへお出ましになる
という流れです。なので、「冷泉帝が朱雀院を見舞うために朱雀院を訪問し、そのまま一緒に出かける」という私の前の説明は誤り。正しくは六条院への行幸がまずあり、その行幸に朱雀院が手紙で招かれ、一緒に六条院へ向かう という構造ですね』
うん。それに「少女」で二月の二十日過ぎに、冷泉帝と源氏が朱雀院に行って会ってる。見舞いじゃないけど。だから唯一ではない。それに桐壺帝が死に際に朱雀帝に春宮(のちの冷泉帝)を養子にしてくれ的に頼んだっぽいけど、表の父子と言い切るのは拡大解釈が過ぎないかな。冷泉帝が朱雀院とこ行ったのは朝観行幸(帝が父母に礼を示すための行幸。朝きん行幸)を模してると何かで読んだことはあるけど。
そして念のために澪標を読んでみたけど、冷泉帝行幸してない。見落としたかもしれないけど鵜飼いも出てない。住吉参詣の勘違いだろうか。あれ源氏チームと上達部と殿上人で帝は来てないと思うけど。
こんな風でAIはマイナーなとこを尋ねるには向いてないです。自信満々に間違いや私観を答えますからね。この現象をハルシネーションというらしいですが、言葉があるってことはそれほどよくあることなんでしょうね。
人が間違うのは当然だと思うんですよ。もうなんだったか忘れたけどキーン先生だってあれ? って箇所が一つぐらいあった気がするし、橋本治氏すらエッセイでなんかあった気がする。あんな知の北限みたいな方々にもあるんだからそりゃ一般人は堂々と間違っていいと思う。源氏物語は一つのダンジョンというか異世界というか恐ろしく深いから。でもAIちゃんは困るなあ。まさかこんな丁寧に間違ってるとは思わなかった。事項の確認がしやすいように早く成長してもらいたいです。




