00.プロローグ
国境の雪山を数刻歩き回り、ようやく目的の獲物を見つけることができた。
「あのゴツいのはアタシがブチ砕くから、横のヤワそうなのはあんたがやりな」
ブレダは身の丈よりも長い戦斧を両手で構え、前方の怪物から目線を切らすことなく、後ろに並ぶ俺たちに言った。
「あれ……ちゃんと倒せたら、久しぶりに温かいものが食べられそうですね」
俺の横でいそいそと銀剣を抜き始めたアモは、その表情を緩めた。するとそれを諫めるようなブレダの怒号。
「アタシはソラムにやれって言ったんだよ!あんたがやるとまたコマ切れになって売れなくなる!」
「……だそうです。すみません。お任せしましたソラムさん」
アモは抜きかけた銀剣をそのまま納め、少し申し訳なさそうに俺の方を見た。
「痛いのはガマンするから、ちゃんとできたら後で褒めてくれ、アモ」
おそらく年下であろう女の子にこんな懇願をしてしまうことも、いつからか恥ずかしくなくなってしまった。それほどまでに痛いのだ。鈍い牙や爪で体を無茶苦茶に傷つけられることは、理知の道理を忘れさせてしまうほどに苦しいのだ。
アモの明るい返事を置き去りに、俺は腰の鉄剣を抜きながら、ブレダと共に前方の怪物に向かって駆けた。
国境には災いが襲い来る。
国境とはつまりこの国を成す神の力が行き届く果てであり、その域から外の地に加護は及ばない。おそらくは、神の力と言えども全能ではない。国境からこちら側を豊かにすることで精いっぱいなのではないか。国境の外から来る災いの根源は、漏れ出た神の力の残滓だと唱える人間もいる。他の神が治める国との間でより多くの災いが湧くことがその証明だと。
その災いの一端が、今俺の目の前にいる。どこからともなく湧き出ては、悪意の塊のような振る舞いをする存在。人々はそれを怪物と呼ぶ。
ブレダの言うゴツいの――黒光りする鉱質の体躯を持つ六足獣――と、牛と熊を混ぜて二足で立たせたような「ヤワそうなの」は、ブレダの大声によりこちらの存在に気付き、唸りを上げて暴力的な速度でこちらへ突進してきた。
六足獣の頭蓋とブレダの戦斧がぶつかって轟音が響く。その一撃で六足獣は崩れ落ちた。右の順手で突き出した俺の鉄剣が牛熊の肩口に刺さる。牛熊の右腕が俺の左肩から先を吹き飛ばす。
体中を稲妻が貫くような感覚。一刹那おいて灼熱。痛い。
自らのあらゆる判断を悔い、呪いたくなるような痛みに襲われる。それでも牛熊に刺さった剣は離さない。絶対に離してやるものか。牛熊自身の突進の勢いで、剣はよりいっそう深く牛熊の胴体を抉る。俺はひたすらに重心を低く、体を浮かされないよう下肢で目いっぱい踏ん張る。
膝下まで積もる雪の抵抗も合わさり、いくらか突き押されたところで互いの力は拮抗した。
この機を逃してはいけない。俺は元に戻った左手も鉄剣の柄に添えて、渾身の力で牛熊の胴体を引き裂いた。
千切れたはずの四肢が、まるでその事実を無かったかのようにして元に戻る。こんな力を人は大仰ぶって神の御業と呼ぶ。その御業を与えられたからには、国に、生命の神であるサナス神に尽くせとも言う。当事者である俺からすればたまったものではない。いくら傷つけられた体が元に戻ろうとも、痛みと苦しみは変わらずそこに伴うのだ。
数拍呼吸を整えてから、弛緩する牛熊の体を雪上に蹴り飛ばして振り向くと、アモは両手を胸の前で組みながら、不安と安堵が入り混じったような表情を浮かべていた。携えた武器や騎士団の装備とは似つかわしくない、年相応の少女らしい顔だった。
仮にこの御業が無かったとしたら、俺はこんな血生臭い生活をせずに済んだのだろうか。否、俺がどんな人間であったとしても、この少女に、「みなごろし騎士団」に仕えなくてはいけないのだ。俺は「戦利品」であり、その所有権はアモにある。そうなる前の俺自身のことは、俺も含めて誰一人として知らない。ソラムという名前さえも、彼女が付けたものだ。
アモの手足となり、剣となり、盾となることが、俺の生きる唯一の――血反吐と苦痛に塗れた――生きる術らしい。それ以外は何も分からない。
「……今晩はごちそうですね!」
アモが駆け寄ってくる。よく見るとその瞳にはうっすらと涙を浮かべていた。それを誤魔化すか、振り払うかのように彼女は明るく笑う。
戦利品とその所有者という間には相応しくないような、柔らかい気持ちが小さく泡立つ。左腕の痛みはもう消えている。
この感情のためであれば、腕のひとつやふたつを吹っ飛ばしても悪くはないなと、馬鹿なことを考えてしまった。