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金魚鉢の恋

作者: 佐々木匙

 道は陽炎が立ち、湿気でゆらゆらと頭の中まで煮え立ちそうなほどの日だった。私は街路樹の下に時折せめてもの涼を求めながら、土臭い道を家へと向かって歩いていた。平坦な道は退屈で、すれ違う人々も皆どこか苛立たしげな、そんな夏の始まりの一日だった。

 

 だがその時、私が立ち止まった瞬間、不意に涼風がさらりと前方から吹き抜けたような気がした。よく見ると気の早い紺地の浴衣姿の女性が、軽い足取りでこちらへと向かってくる。右手に巾着袋、左手には透明な水の入った袋。中には小さな赤い点がちらちらと動いていた。金魚だ。

 

 長い髪をどういうやり方でかさらりと結い上げて、白い頸がどこか楽しげに通り過ぎるのを、私はぼんやり見送った。薄い雲に隠れても、街と太陽の光は暑苦しく、対して女性と金魚はいかにも軽やかに魅力的だった。私は急いで彼女を追った。跡を尾行たのではない。心だけ抜け出して追ったのだ。

 

 そうして気がつくと、私はいつの間にか一匹の黒い金魚と化し、彼女の手から下げられた水晶のようにきらめくビニール袋の中に、ちゃぷちゃぷと泳いでいた。赤い金魚はこちらを見向きもせず口と小さな鰭を動かす。とても晴れやかな気持ちだった。袋は時折小さく揺れたが、それも心地良かった。

 

 女性はそう新しくもなさそうなアパートの二階の外階段を、かんかんと音を立てて登った。水の向こうであるから、住処や表札は揺れて読めない。だが、それが何程の事だろうか。私は金魚で、彼女の家にこれから邪魔をするのだから。ばたん、と扉の閉まる音が聞こえた。袋の中の水が軽く揺れ動き、私たちは揺さぶられた。

 

 女性は軽く手を洗うと、用意してあったらしい金魚鉢と、バケツの水を机の上に置いた。そして私と赤い金魚をちゃぷり、と鉢に注ぎ込む。

 

 広くなった世界に、私は喜び全身を使って泳ぎ回った。水の向こうに、歪んだ女性の顔が見える。彼女は少し不思議そうにいつの間にか増えていた黒の金魚を……私を見、そして笑って言った。


 「こら」

 

 

 その瞬間だった。魔法か、それとも夢か、ただの想像か……とにかく私をそれまで満たしていたものは不意に解けてしまった。高揚感と僅かな後ろめたさの名残が胸に残る。

 私は自分の家の扉を開け、まさに玄関に入ったところで、しばらく立ち尽くしていた。もちろん、鰭も鱗もない、情けない人間の姿でだ。

 

 

 話がそれで終われば、夏の暑さに頭をやられ、不埒な夢を見た男の馬鹿な話、ということになるだろう。私もすっかりそのつもりでいて、しばらく後のその日も汗を拭き拭き道を歩いていた。その時、またあの浴衣の女性が道を歩いてくるのを見つけた。今度は失礼な想像などせぬよう目を逸らし——。

 

「あなたですね」

 

 彼女は立ち止まっておかしそうな顔でそう言った。私は目を瞬かせる。そう、彼女は確かに口元を吊り上げて笑っていた。


「あんなことをしないでも、声をかけて下さればいいのに」


 私はその時、顔が青ざめていたと思う。何か言おうとして、何も言えずに舌を噛みかけた。

 

「第一、おかしな方。金魚だなんて」

 

 彼女はくるりと背中を見せ、またおかしげに身を震わせた。

 

「硝子越しでは、触れ合えないでしょうに」

 

 私は、馬鹿みたいな顔でゆっくりと歩き出した彼女の背中を眺めた。それから重たい足を持ち上げると、今度は本当に、匂い立つほどに暑い街の中、彼女を追っていくことに心を決めたのだった。

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