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会者定離

作者: NS

*本作品の弓道描写はフィクションです

 残暑厳しい九月でも、薄曇りの午前はそれなりに過ごしやすい。

 校舎が高台の森に囲まれていて、多少熱気をかわすことができているのも幸いかもしれない。

 むしろ煩わしいのはぎゃあぎゃあと泣き散らす蝉であり、あるいはしぶとく私たちの血を求める蚊のような手合いだ。後者は蚊取り線香のおかげか、練習中に苦しむことはあまり無いけれど。

 いや、前者を煩わしく思うというのも、本来あってはいけないことなのだ。


 弽を付け終え、私は立ち上がった。

 弓を執る。直心IIカーボン、14kg。

 矢は二本。カーボン製、92cm。矢羽は濃い褐色。

 本座に立つ。安土に三つかけられた的、その中央に向き合う。


 射法八節。一年と半年弓を引いてきてすっかり馴染んだこの概念は、実はそこまで長い歴史をもつものでもないらしい。

 もともと七道と言われていたものに最後の一節である残心を加えて、八節。

 時折「九じゃ無いの」と疑問が沸くこともある。つまりは大三の扱いだ。むろん大三自体が近年の発明であることは承知の上だが、それでも弓をはじめた当初、流派も何も知らない時分には混乱したものである。

 いずれにせよこういうものは、初心者などでも覚えやすいようひとつなぎの射を無理に分割しただけのものなのかもしれない。

 そうした背景はともかく、私も先輩に習ったとおり、これらの八節を淀みなく為すことで矢を射るのである。

 

 足踏み。幅は矢束と同じぐらいで、つま先とつま先を結ぶ線が正確に的へと延びるように。足下を見ずにすっと一息に。きちんとできるようになるまでには結構時間がかかった気がする――そろそろ余計なことを考えるのは止めにしよう。


 胴造り。矢を番え、弓を膝に納め、弓手は右腰にとる。

 肘、脚、尻を軽く張り、胸を起こし、丹田に気息を込め、ゆっくりと静かに息を吐く。

 下半身は地に根を張り不動であり、上半身はその上にどっしりと落ち着く、そういうイメージ。

 ここから先では僅かな歪みも許されない。


 物見をとる。28メートル先にある直径36センチメートルの霞的。

 中りに執着すると放れが乱れる。私の悪い癖だ。正しく引けば必ず中る。

 

 物見を戻し、弓構え。二年ほど使ってすこしくたびれた弽を柔らかく弦にかけ、然る後、弓を浮かし、手の内を整える。

 親指と人差し指の間の皮をわずかに巻き込み、握りを天文筋に当て、残る三つの指を軽く添える。握るのではなく、親指の根と小指とで二つの指を締めるように。理想の手の内は卵中だ。

 円を描くようにおおらかに弓を構え、再び的に目を向ける。

 

 打起し。静かに、よどみなく、両拳を均等に、自然な高さに。

 力み過ぎれば肩が上がる。正面から掬い上げる意識。目の前に大きな皿を思い浮かべる。


 引き分け。弓手を割り開き、馬手先は弦に引かれつつも、肘を張りそれに抗す。

 押し大目引き三分の一。一旦静止し、左肘で狙いを付ける――というよりも、付く。

 拳の高さを一定に保ったまま、胸を割り開いて弓をゆっくりと体へと引き寄せる。静かに、まっすぐ、そしてなめらかに。

 口割りを意識するまでもなく、あるべき場所に矢は落ち着く。

 

 会。

 復元せんとする弓を背の緊張によって保ち続ける。

 両者の力は相克し、結果として外見上の静止状態が作り出されるが、身体はその静止の内にこそ力を蓄え続ける。

 手の内はいよいよ引き締められるが、しかし決して弓を握りしめることなく、むしろ解放の瞬間にその力を殺すことなく受け止める。

 

 狙いをつけるために会があるのではない。

 別れのために会がある。


 それを待つ。待つだけでなく、その瞬間を作り出す。

 蝉は私を思ってか、すでに鳴くのを止めている。

 きちきちと弦の鳴く音は、鼓膜を揺らせたとしても、こころの上にはのぼらない。

 


 離

「ちぃーーす」

 れ。

 

 放たれた矢と、それが巻き込む大気とが頬を撫でる。

 それを知覚した瞬間には既に、矢は、私から受け取った僅かな熱をその飛翔において全く失い、今や的の心持ち右側、中央から拳一個ほど離れた場所に突き立っていた。

 小さく息を吐く。

 残心。蓄積した力を解放した両腕はきれいな十文字を作っている、はずである。上がりすぎず、下がりすぎず。弓はきれいに一回転して、弦が前腕に触れていた。

 弓を下ろし、物見を戻す。

 乙矢を番え、再び弓構え。

 右方から視線と気配を感じる。しかし、そちらに意識を向けるわけには行かない。

 再び的に向き直り、打ち起こす。先ほどと同じように、狂いなく弓を引く。

 誰かに見られていようと何かが変わる訳でもないし、誰に見られていようとすべきことは同じである。

 今度は何らの妨害もなく――離れ。

 高い音と、それに続いて的を叩く音。矢の位置は的心やや左。常に狙い通り正確に中てられるほど私は上手ではない。現状ではこの程度が精一杯だ。

 腕を下げ、正面に向き直り、足を揃えたのち本座へと向ける。

 射位に入ってきたときと同様、静かに退場。

 常と変わらぬいつもどおりの一手だ――今、目の前にいる人物を除けば。

 先の騒音の原因である彼女は、だらしなく制服を着崩して、何が楽しいのか子供のように笑っていた。弓道部元主将の羽島梓先輩である。私の唯一の先輩であり、弓の師匠でもあった。

 視線を落とす。先輩は私よりだいぶ背が低い。

 髪が伸びている気がした。現役時代はだいぶ短くしていたはずが、今や肩に掛かっている。もしかすると当時は弓を引くためにそうしていたのかもしれない。私とはだいぶ意識の差があるみたいだ。

 お久しぶりですと挨拶すると、先輩はふふんと鼻を鳴らし、手をわざとらしく叩いた。


「上手いねー、やっぱり」

「ありがとうございます、でも」

「指導できねーうちに下手になってたらどうしようかと思ってたわ。さすが次世代の主将」

 

 沈黙する。数か月前に引き継いだ「主将」の名の扱いに、私は幾分手こずっていた。もちろん、多くの事柄に関して他の二年生の意見を聞いて判断しているし、独断しなければならない状況は少ない。しかし、全体の方針などはやはり私が決断しなけらばならない。

 気が重い。目の前の人は当時何を考えていたのだろうか。これまで見てきた限りでは、どうもそういう点に頓着するタイプのひとではなかった。

 荷物を座敷に置いた梓先輩は、シャツを脱いでその上に放り投げ、別の袋から弽と胸当てを取り出すと、立ったままそれらを付け始めた。

 引退したはずの先輩が道場を訪れるのは珍しいことではないらしい。受験勉強の合間にも気晴らしが必要なのだろう。弓を気晴らしの道具とするのが褒められたことなのかはさておき。

 

「今日一人?」

「今は。昼から恭子が来ますけど」

「ふーん」


 気の抜けた返事。あまり興味がないのだろう。

 我が校の弓道部は、伝統的に日曜日を休日としている。むろん「休」とは「自主練習」を意味する語である。集合時間を決めたりはしていないが、たいていの部員は適当な時間に弓を引きにくる。今日はたまたま午前中私しか来ていないものの、朝から弓を引きにくる生徒も別に私だけというわけではない。

 

「私の弓、誰か使ってる?」


 弽を付け終えた梓先輩はそう尋ねた。私が首を横に振ると、先輩は荷物から弦巻を取りだす。

 弓道部では弓は共用である。それなりに値が張るから当然だ。梓先輩の弓はまだ弓立てに立てかけられている。今のところ誰も使う予定はない。理由は簡単、誰も引けないからである。あの弓は女子高生が引くには結構強い。私には引けなくもないが、身長、正確には腕の長さを考えるとかなり扱いづらい。わたしは伸び寸を使っている。

 ちゃんと弦を用意していたのは少し意外だった。弽をつけたまま弓を張るのは意外でも何でもなかった。そのような不作法を止めることができない程度には、体育会的精神が私にも根付いている。

 しかし、先の件には苦言を呈さざるを得ない。


「ところで先輩」


 矢立てで自分の矢を探していた先輩は、私が声をかけるとひどく不機嫌そうに振り返った。声の調子で私が言わんとすることを看破したのかもしれない。今まさに気晴らしをしようとしているときに、小うるさい後輩に水を差された、というわけだ。それでも怯んではいられない。


「会に入っているときに大声出さないでください」

「あ?良いじゃん別に」

「危ないです」

「そんなんで?あんたが?外すわけないでしょ」

 

 うちのエース様なんだからね、と嫌みな表情で付け加えて、先輩は的前に入っていった。こうなるとこれ以上声をかけるのはこちらの方が不作法ということにもなるかもしれない。私は再び沈黙し、先輩の射を見学することにした。

 乱雑の一言だ。

 音が立つほど乱暴な足取りで射位に入る。もちろん足踏みなどまともに行わず、適当に足を広げるだけ。弓と矢を持つ両手は腰に当てられることなく力なく下げられている、だけならまだしも、的前に入りながらくるりと弓を返し、矢番を終えてしまう。その間に乙矢を薬指で握っているのだから器用なものである。

 胴造りもなにもない。無造作に弽を弦にかけ、手の内もろくに作ることなく、ひょいと腕を上げ、大三をとる。そうしてからようやく物見をするのだから、本当にあべこべの極みだ。

 引き分けに至ってはもう見ていられない。ほとんど力任せに、微妙にふらふらしながら、強引に胸を割り開いていく。私の目からすれば、会がまともな形になっているのが奇跡といいたいくらいである。

 手の内が十分にできていない。

 ベタ押しも良いところだ。

 馬手には力が入りすぎている。

 首が傾いている。

 

 後輩がやっていたら逐一指導しなければならない、その形から、


「よっ」


 と、先輩は力尽くで射形を直し、


「っと」


 と、弦を手放した。

 私の射よりも遙かに鋭い弦音。

 間髪入れず矢は的心を射貫く。

 この瞬間を切り取れば、だれも彼女の射を誹ることなどできまい、そう思えてしまう。

 だけど、それを認めることは、私にはできない。

 的から射場に視線を移せば、既に先輩は乙矢に取りかかっていた。残心をとったとは思えない早さだ。とっていないのだろうけど。

 と、弓構えに入った先輩は、急に動きを止め、小首をかしげた――と見えた次の瞬間、弓手を的の方へとつきだした。馬手は丹田のあたりに留まっている。

 斜面だ。習ったことはないし、見たこともあまりない。もちろんやってみたことなど一度もない。もしかすると、先輩は――。

 もちろん、そんな訳がなかった。

 見よう見まねで試してみただけであろう斜面打起しは、両の手が掲げられた時点で見るに堪えぬ無様なものになっている。右肩は過剰に上がり、弓手はその反対だ。体全体が傾いで見える。

 そこから筋力で強引に引いていく姿は、とても数ヶ月前まで弓道部で最も技術があった人間とは思えないものだった。これでは百射もする前に体を壊すのではないだろうか。


 しかし、まあ、中るだろうなと思っていた。

 果たして、そうなった。


 先輩の「っと」と「よっ」にかかれば、少なくとも数本の範囲なら、確実に中る。先輩はそういう技術を持っている。

 絶対的な弓の才能。

 私が持っていないものだ。


「はっはー、意外と中るもんだね」

 

 梓先輩はけらけらと笑いながら射場を出た。

 聴いたことのない、たぶん実在していないであろう曲を鼻で歌いながら、再び矢を取る。一手どころではない。十本くらいまとめて、だ。注意して見るとそれらの矢はすべて羽がぼろぼろの、練習でさえあまり使いたくない代物であった。僅かに曲がっているものもある。

 気分が悪くなる鼻歌とともに、先輩は再び足音高く射場に入った。

 歌い続けたまま、引く。酷い射だ。中った。

 引く。見るに堪えない射形。中った。

 引く。私にはとてもあんな風には引けない。中った。

 引きたくも、無い。

 中った。

 絶対に、私は、あんな風には、引かない。

 美しく、正しく、素直に引いて、それで中てたい。我が儘だとは思うけれど、それが弓を引き始めたときの理想であり、その理想は――すくなくとも私の中では――未だに曇ってはいない。

 先輩が弓を引く。かつてとはまったく違う射で。

 中った。

 中った。中った。中った。中った。

 

 最後の一射。

 矢を番えたところで、梓先輩はなぜか動きを止め、じっと筈のあたりを睨んだ。私がそれを訝しむと、先輩はちらとこちらを伺い、にやりと笑った。

 そうして先輩は、さっきまでとは打って変わって、ごくまっとうに弓を構える。

 美しいわけでもなく、平凡ですらない、少し歪な、素人くさい弓構え。

 気付いて声が出そうになった。一年前、鏡越しに見ていた構えそのものだ。

 そうして先輩は、一年前の私のように打起し、一年前の私のように引き分けて、一年前の私のように会を取った。

 ろくに的に中てることができずに落ち込んでいた、一年前の私にそっくりな、いや、一年前の私そのものの射。


 弓を引いてきて初めて、他人に対して「中てるな」と思った。

 

 もちろん、中った。


 × × ×


 矢取りに行くか尋ねると、先輩は「いやいらん」とそっけなく答え、やはり座すことなく弽と胸当てを外し、道場を出て行った。

 雲は少し濃くなっている。天気予報では晴れると言っていたはずだが、これはもしかすると外れるかもしれない。先輩を見送りがてら、傘立てを出しておく。

 私も弽を外し、しばし座敷に腰を落ち着けた。弓を引く気にはどうしてもなれなかったし、考えたいことがあったからだ。

 どうやって言葉にすれば良いのか、どう言えば失礼にあたらないか――答えが出る前に、梓先輩が戻ってきてしまった。矢を預かろうとすると迷惑そうに顔を顰めたが、こういうとき後輩に仕事をさせるのは先輩の義務である。

 矢をしまっている間、先輩は意趣返しのつもりか、横から私の動作をしげしげと観覧していた。正直言って大変不愉快であったが、タイミング的にはちょうど良いといえばちょうど良い。

 最後の一本をしまうと同時に、梓先輩と向き合う。

 

「先輩、失礼だとは思いますが」

「あん?」

「どうして、そんなふうに引くんですか」


 私の質問を梓先輩は文字通り鼻で笑った。私が精一杯の真剣な表情で睨むと多少申し訳なさそうに眉を下げるが、口元はにやついたままだ。


「ああ、真面目なゆみには目に毒だったか。や、体配とか忘れちゃってさ。ま、気にしないで」

「そっちじゃありません」


 体配も大事だが、今はそういうのじゃない。


「どうして、あんな酷い引き方をするんですか」


 一転、先輩はすっと目を細める。

 主将であったときにはしなかった、ひどく冷たい表情。


「酷いとかそれこそ酷くない? 中れば良いでしょ」


 予想していた答えだった。だから私も想定していた通りに返す。


「そんな射で中て続けられると思っているんですか」

「思ってないけど?百発百中目指すならそりゃもっと考えて引くよ。でも別にそんなのどうでも良いし」

「どうでも良いって、そんな」

「とりあえずまー、気分転換に中てれれば良いし?むしろ真面目に引いて外したら馬鹿らしいっていうかさ。ま、私は外さないけどね」


 けらけらと、年上のくせして童女のように笑いながら言う先輩に絶句してしまった。

 さすがにそこまで言うとは思っていなくて、血液が沸騰しかける。

私に弓を教えてくれた人が、弓の楽しさを教えてくれた人が、そんなことを言うなんて思いたくはなかった。


「……だったら先輩は何のために弓を引いてたんですか」


 感情を抑制しつつ吐いた言葉は、にもかかわらず自分でも驚くほど攻撃的なものであったが、しかし私の中にそれを恥じる気持ちは無かった。それは問わねばならぬことだった。

 梓先輩は表情を変えぬまま、ただ声からのみ感情を取り除いて、言った。


「決まってるじゃん、勝つためだよ。負けたけどね」


 沸騰しかけた血液が急激に冷めていく。

 羞恥。慚愧。後悔。

 私たちは、負けた。

 私たちのせいで負けた――先輩は公式大会ではただの一矢も外さなかった。

 いや、私のせいで負けたのだ。あのとき私は中てなければならなかった。

 大会で勝つことに拘っていたのは、実のところ梓先輩では無かった。梓先輩は他者と技量を比較することに意義を見出せない人だった。

 いちばんそれに拘っていた人物を、私は誰よりも良く知っている。そして彼女のせいで私たちは負けたのだ。

 「すみませんでした」と言うべきかもしれない。言ってはいけないかもしれない。その判断さえ、私にはつかない。


「ま、ぶっちゃけそれはどうでも良いんだけどね」

 

 声音で示される全くの無関心さは、私の後悔など無意味だと言っているようで、もはや押し黙るしかない。


「もう引退したし。弓、大学で続ける気もないし。だったらどう引いたって勝手でしょ?」

 

さすがに弓を痛める引き方はしなけどね――と付け加えて、梓先輩は勝ち誇った笑みを浮かべた。

 今の主将は私であり、道場での振る舞いに責任と権利を持っているのは私である。そういう意味では、私は梓先輩に対して真剣に引くよう強制することができる。

 だが、そうしたくはなかった。そんなことに関心はなかった。だから、弓を引く心構えに話を移してしまったのだ。しかしそんなことをして――弓についてまだ何も知らないも同然の私が、自分の師匠に何を言うことができるだろうか。

 言葉に窮する私に対して、梓先輩は私からの反論を待っているかのように体を揺する。

 弓とは何だ。何のために弓を引くのだ。正射必中。一射絶命。そのお題目を胸に鍛錬する意義は何だ。

 思考は停滞し問いは在らぬ方へと舵を切る。

 

「悪いね、邪魔して。帰るわ」

 

 言葉にできぬ私をついに見切ったのか、梓先輩は鼻息をひとつ立てて私から背を向けた。

 帰れ。二度と来るな。本気でそう思った。

 あなたが居なければ私は悩むことなんか無かった。ただ自分が持っている理想のままに弓を引くことができた。あるいは皆で良い成績を残すという当たり前の目標にも励むことができた。

 あなたがそのように弓を引くから、私は苦しまなければならないのだ。わたしの理想をそうやって砕くから。


「私は、」


 梓先輩の背中が止まったのを見て、つい怯んでしまった。

 なにを言うべきか定まらぬまま、また感情のままに恨み言を吐いてしまいそうで、躊躇する。

 しかし先輩は、帯びる雰囲気は静かなまま、確実に私の言葉を待っている。

 覚悟を決めよう。言うべきことを、言いたいことを言うべきだ。それははっきりと決まっていた。


「私は、先輩の射を見て、それが綺麗だと思って、だから弓道部に入ったんです」


 今でも鮮明に覚えている。一年生、入学したてのころ、友人と部活見学をしに道場を訪れ、ただ一人しかいない部員に見せてもらった一手。

 そのときの記憶が、私のなかの、「弓を引くとはこういうことだ」を構成している。

 だから、あの射を否定されることは、私が弓を引くことの意味をも否定するものなのだと、私には思えた。それは幻想に過ぎないけれども、意味のある幻想だった。

 ゆえに、私は梓先輩を論駁しなければならないのだ。


「正しく引かなければ中らない、私は先輩からそう教わってきました。あれは、うそだったんですか」

「半分嘘、半分本当」

 

振り返りながらそう言う梓先輩の表情は、酷く静かで、これまでに見たことのないほどに大人びていた。


「正しく引けばそりゃ中る。でも、酷い射でも中るときは中るし、中てれる人ならそこそこまで行けるだろーね」


「でも」、と先輩は指を突きつけ、続ける。


「ゆみは正しく引かなきゃ中らない。自信がない人間はそうなる。自分で分かってると思うけどね。だからそう教えたの」

 

 梓先輩の言葉は正しい。私は正しく引かねば中らない。少なくとも、中て続けることはできない。私は天才ではなく、ほとんどすべての人がそうであるのと同様に、平凡な女子高生に過ぎない。無造作に引いて接ぎ矢ができるほどの才能はない。

 では、もしそうではなかったとしたら。


「私に才能があったら」

「好きに引かせてた。ゆみが二年間で満足が行くように」

「……それでも、私は今と変わらなかったと思います。あの時の先輩を目標に、弓を引いてたはずです」


 ひどく恥ずかしいことを言ってしまったことに気付いて、私は床に落とした。

 それでも足りなくて、腹のあたりまで目線を下げると、ようやく先輩の顔は視界から消え失せてくれた。これほどまでに身長差を恨んだことは無かった。

 これ以上、私の幻想を壊さないでほしい。 

 正しく引いて正しく中てる。それが万人が持つべき弓道の理想だと、そう無垢に信じたままでいさせてほしい。

 私の弓の師にそれを砕かれたら、これからどうやって弓を引いてよいのか分からない。自分のこれまでの弓を全否定しなければならないかもしれない。

 それがとても恐ろしかった。


「わたしだってね、一年の時はそういうの、目指してたんだよ」

 

 柔らかな雰囲気を帯びた先輩の声に、顔を上げる。

 先輩は座敷の奥を見ていた。そこには歴代の部員の名が記された名札が並べられている。その末端、先輩の名札の隣には、一昨年卒業したひとたちの名前が収まっている。その間にあっても良いはずの名前は、無い。

 先輩のにとってもっとも見覚えのある道場に、人影はただ一つしかなかったはずなのだ。


「誰にも見られることなく、指導も受けずに、ひたすらに、美しい射を――正しい射を目指して引きまくってたわけ。楽しかったよ。楽しかったけど、無意味だった。無意味だったことに気づいたけど、やめられなかった。あんたらが来たからね。いくらなんでも後輩に変な射を教えるわけにもいかないし。で、もう良いかなって」


 そう言って先輩はからからと気楽そうに笑った。その笑いは嘲笑であり、怒りや憎しみの一形態であった。それらが何処に向けられているのかは私には分からなかった。

 ただ一人只管に弓の腕を磨く。単なる自己満足で済めば楽だろう。競技から解放され、誰とも比較されることもなく、思うままに弓を引くだけならこれほど楽なことは無い。

しかし、自己満足に留めないとき、それはたちまち苦行と化す。

 先輩がどこまで技術を磨き上げたのか、その程度は知らないし聞けることでもない。ただ確信をもって言えるのは、弓の技術に限界など存在しないという事だ。

 競技としての弓道ならそれはあり得る。戦闘技術としての弓ならあり得る。それらは凡人には辿り着けない地点ではあるが、しかし地上に少なくとも一人は、そういう弓引きが存在する。しかし――文字通り、貫中久をその者の極北まで追い求めること、これは不可能なはずなのだ。人間の時間は無限ではなくてひどく限られている。高校生ならなおさらである。

 にも関わらずそれを追い求める。その為に全生涯を賭ける。むろんそんなことを実践するものは稀だし、私は勿論出来ていない。それでもだ。


「でも、弓道ってそういうものなんじゃないですか、理想の上では。少なくとも、私はそうやって先輩に――」

「そうだね。教えたね。私はそう信じている。つまりね」


 へらへらと軽薄な笑みを崩すことなく、


「私は弓道なんてこれっぽっちも好きじゃなかったってことだ」


 梓先輩は、偽りの含まれぬ声音で、そう言った。


「それでも、私は」

「そうか。頑張ってね。弓が好きならそうすれば良い」


 軽い言い様ではあったが、おそらく梓先輩は大まじめに、本気でそう考えている。

 私の弓と先輩の弓は違うのだと、そう宣言しているのだ。

 当たり前と言えば当たり前だ。私は梓先輩ではない。先輩のような才能を持ってはいない。短い青春のすべてを弓に投ずるだけの覚悟も持ってはいない。

 それくらいはわかっている。

 だから、私は自分が次に吐く言葉が、理不尽極まりないものであることも知っていた。


「だったら、責任を果たしてください」

「責任? 私もう主将じゃないんだけど」

「私に射を見せてください」

「いや見せたじゃん」

「違います。真面目に引いてください」


 先輩は虚を突かれた表情をした。私の言っていることが理解できないらしい。私にも理解できない。


「で、結局責任って何さ」僅かに悩むようなしぐさをしたのち、先輩はそちらへと問いを向けたが、

「私を弓に引きずり込んだ責任です」私は迷うことなく、そう即答した。

「はあ?弓を始めたのはあんたでしょ。私はきっかけをあたえただけ」

「私に弓を始めさせたのは先輩です。これまで引いてきたのは先輩の言葉があったからです」

「他人に自分の射の責任を押し付けるなよ」

「師匠ぶって偉そうに弓を教えて来た人が良くそんなこと言えますね」

 

 暴言だ。ひどい責任転嫁だ。私がこんなろくでもないことが言えるとは思わなかった。

 今度こそ梓先輩は唖然とした。自分で言うのもなんだが、私は先輩にずっと忠実だったから、それこそ飼っていた犬に噛まれた気分なのだろう。


「……ゆみさー、先輩にむかってその口の利き方は無くない?」

「もう弓を引かないひとに先輩面されたくないです」

「甘ったれてんじゃないよ、いい加減自分で」

「嘘つきです。先輩は嘘つきです」

「嘘なんかついてない」

「ずっと信じてました。先輩の言葉を本気にしていました」

「だからそれが……、何泣いてんだっ、泣けばいいとでも思ってんの」

「泣いてないで、ずっ」


 それは会話ではなくてただの口喧嘩だった。

 私はムキになっている。師匠に刃向かって構ってもらいたいだけなのかもしれない。涙を流して無理を言って引き留めたいだけなのかもしれない。未練たらしい酷い弟子だった。

 そんな駄目な後輩と比べたら、やはり先輩はずっと大人だった。一呼吸でいち早く冷静さを取り戻すとじっと私の目を見上げる。その瞳には常ならぬ真摯さがあった。


「あのね、これは多分弓に限ったことじゃないとおもうんだけどね」


 先輩はゆっくり確認するように語る。


「自分がなんで弓を引くかなんて、そんなの誰かに教えられることじゃないよ。それは自分で見つけなきゃいけないことなんだよ。それは分かってるよね」


「分かってるつもりです」

「だったら、誰かがどう引いても、誰かが何を言っても、それは変わらないんだよ」

「分かってます」

「だったらさ、私が――」

「お願いします」

「だから」

「お願いします」


 それでも、私は駄目な後輩だった。頑固で言うことを聞かないくせにひどく甘ったれな弟子だった。

 これ以上何を言っても無駄だと分かったのか、先輩は口を閉ざす。

 深く長くため息を吐き、中空に向かって小さく「甘やかしすぎたかな」と呟いた。

 「そうですね」と言いたくなったが、それを言うと帰ってしまうと思って、心の中にしまっておくことにした。

 さらに十秒ほど、巻き藁を睨みつきたのち、先輩は私の顔を呆れたように見て、もう一度小さくため息を吐いた。


「袴、あるよね。着物じゃなきゃ駄目とか言ったら帰るよ」

 その瞬間、私はひどく間抜けな面をしていたに違いない。自分でお願いしておいて情けないーー即座に居住まいを正す。

「はっ、はい!えーと、先輩の身長だと……確か土野先輩のが残ってます」

「あ……、ま、いっか。ちょっと待ってな」


 そう言って梓先輩は、座敷に隣接している更衣室へと入り、音を立てて戸を閉めた。

 がさごそと袴と胴着を探す音とか、衣擦れの音とかに耳をそばだてるのは少し品のないことだと思い、私は意識を外に向けた。

 知らないうちに雲は再び薄くなっていて、隙間から日の光が差し込んでいた。天気予報は結局当たりそうだ。昼から暑くなりそうだと私はしかめっ面を作ろうとしたが、失敗した。

 しばらくして、すっと戸が開いた。

 着付けは完璧だった。いや流石に贔屓目が入っている気がするが、すくなくともだらしなくはない、きっちりとした姿で、先ほどまで気の触れた弓を引いていた人と同一人物だとは思えなかった。

 見とれていると、先輩は私の方をじろりと睨む。


「何正座してるの」

「いや、先輩の射を見れると思うと、なんとなく」

「ちょっと前まで飽きるほど見てたでしょーに」

「見納めですし」


 先輩はそれ以上何も言わず静かに腰を降ろし、胸当て、続いて弽を付け始めた。どちらもわたしの物と比べるとかなり古びているが、しかし手入れや調整を欠かしていないことはよく見ればはっきりと分かる。


「一応代え弦お願い」


 そう言って先輩は荷物から弦巻を取り出した。

 受け取りつつ考える。いちいちきちんと用意しているところといい、先輩は、奇妙に真面目なのだ。だから嫌になるまで続けてしまい、最後には本当に嫌になってしまうのだ。

 梓先輩は静かに座敷を降り、弓立てに歩み寄る。

 手に取ったのは無論、現役時代に使用していた直心II、19kg。

 矢を二本、甲乙一本ずつ取り出す。芯と矢羽ともに黒。 


「立射で良い?」

「あー、えっと」

「坐射ね、はいはい」

 

 言い淀んだ私に苦笑を投げかけ、先輩は仮設の敷居に立った。

 私は代え弦を手に座敷でその姿を見守る。

 矢の向きを確認した梓先輩は、

「これが最後だから」

と言って、一瞬だけ瞼を閉じた。見えていないだろうと分かっていながらも、私はその言葉に小さく頷く。

 直後、先輩の目が僅かに開いた。

 執弓。

 道場の呼吸が二つ同時に止まった。


 吸う息。

 左足から入場。

 上座に向かい右足を踏み出し、足を揃え、礼。

 

 私たちは梓先輩から体配を教わった。では梓先輩は誰から教わったのか。基本的には当時の三年生からであり、残りは教本や動画、果ては見学で勉強したらしい。

 その体配が全く正しいものであるかは、私は知らない。実際昇段試験を受けに行った時にはもっと綺麗なご年配の方を見たこともある。

 それでも、私にとっては、梓先輩こそが理想の弓引きだった。ずっと梓先輩の背中を追ってきた。

 

 目は半眼、やや前方の床に視線を置きつつ、静かに本座に歩を進める。

 今になって、梓先輩の体配を見るのが随分久しぶりだという事に気付いた。当たり前といえば当たり前だ。私は常に大前で、先輩は常に落ちだった。撮影した動画で見たことはあるが、生で見るのはそれこそ一年ぶりくらいかもしれない。

 それでようやく、私は私自身を理解することが出来た。私はきちんと師匠離れがしたかったのだ。

 あの射を通じて会った人に、この射を通じて離れたかった。


 私が下らない感傷を覚えている間にも行射は続く。

 見どころは無い。見どころなき射を食い入るように見続ける。

 一つ一つの動作は全て無駄なく最短距離で為される。

 位置のずれやためらいと言ったものは綺麗に排除されている。

 それでいてその動きは、まるで普段道を歩くときのようにごく自然に行われる。あるいは文字を書く、あるいは咀嚼する。あるいは頁を捲る。弓を執るとはそれと同じ事なのだ。

 染みついていた。

 矢番えが終わる。

 音もなく、揺れる事もなく静かに立ち上がり、二足で足踏み。

 冷ややかにも思える眼で的を見つめた後、顔を戻し、弓を構える。

 他の多くの高校と同様、私たちも大三をとる正面打ち起こしを採用している。梓先輩も同様だ。師匠が居なかった時期の先輩もずっと正面で引いていたはずである。最初に教わったであろう射型で引きつづけた。

 それはある種の縛りだったのかもしれない。弓道が依然、このような長大な弓を用い続けているのと同じように。


 表情は変わらない。静謐な、そこに的など存在しないかのような眼を安土に向けたまま、打ち起こし。

 すっとあがり、ぴたりと止まる。肩から先が独立した部位であるかのように身体は不動。

 弓を開く。

 私の使っている弓よりもかなり強い弓を、私よりも随分小さな体で、ごく自然に引き分けていく。

 弓は力で引くものではない。だが、弓を引くには力が要る。ゆえにある地点で弓力は身体能力に阻まれる。

 そして的中のみを志向するなら弓力はさほど必要ない。むしろ疲労せず矢数をかけたほうが良いはずだから、せいぜい16kgでも良いはずだ。

 にもかかわらず、梓先輩は――少なくとも二年生までは――弓力にかなりの重点を置いていたらしい。100射での的中率が九割を超えた程度で弓力を上げる。それを繰り返して今に至る。

 あえて強弓を引こうとする、その理由は私にだって分かる。


 能う限り矢勢鋭く的を貫き、

 狙い過つことなく常に中り、

 して其を一時ならず永久に保つ。

 

 そうした弓の理想に精一杯近づこうとし、その端に指先をかけようとしたからだ。

 

 ――会。矢はあるべき高さに正確に収まる。

 引き分けの終着にして離れの始点。引く矢束でもただ矢束でもない、引かぬ矢束。

 静かに、動きなく力を蓄える。弛みも保ちもなく、会心の離れを出すために。

 じっと、その瞬間のために――。


 パンッバン。


 慮外のタイミングで耳に入ってきた二つの音は、矢が的に中ったことをわたしに知らせる者だった。

 だけど、私は的の方に視線を向けない。残心を執る先輩を見続けながら、心の中で首を大きく傾げていた。

 先輩の会、こんなに短かっただろうか。たしか五秒程度のはずだったが、今のはそれより明らかに短い。


 私の疑問が的外れなのか、先輩は何事も無かったかのように静かに腰を下ろす。

 むろん失があろうと常に冷静に振る舞うべきであるが。

 先ほどと寸分違わぬ淀みない体配を続ける先輩を見続けるうちに、やはり先ほど会が短く感じられたのは何かの錯覚であるという気がしてきた。見ている私の気が昂ぶっていたのかもしれない。

 気が付けば既に先輩は大三に入っている。見れば見るほど模範的な射だ。「みどころの~」という教歌が自然に思い起こされる。

 今度こそは冷静に先輩の射を見届けよう。引き分けていく梓先輩を見守りつつ、私はそう気持ちを新たにする。

 矢は遂に口割りに至った。ここから会が――

 パンッバン。

 高い弦音、的が強かに叩かれる音。

 それは羽島梓の弓が必然的に伴うものであり、なんらの驚きもない。

 私が驚いているのは別のところだ。

 退場していく先輩のかんばせは入場時と同様透き通り、この天の下には何一つ新たな事など無いかのようである。

 そんな馬鹿な。とてつもなく特別な、驚くべきことが起きたというのに。


 梓先輩は淡々と弓を立て、軽く息を吐いた。私が呆然としている間に、腰を降ろしゆがけを外してしまう。そこから立ち上がって道場の入り口に体を向けるまで、梓先輩の動きそのものは極めて自然なものだったが、しかし不自然なまでに私とは目が合わなかった。

 慌てて声をかける。


「先輩」

「……さて、矢取りに行ってくるかな。まあ悪い射じゃなかったねそうたいして良くも無かったけどまあいつも通りって感じで」


 ひどく早口になっている梓先輩を無視して、言う。


「早気です」


 先輩は五秒ほど完全に動きを停止させた。じっと答えを待つが、結局、


「……さて」


 と、依然逃げの態勢にある先輩に、


「早気です」


そう、乙矢を放つ。

 的心を射抜いてしまったのか、先輩は完全に押し黙った。

 早気。凭れとならぶ弓道の病である。会で伸びあい詰めあいがならぬまま放してしまう現象。単に会が短いだけなら問題では無い。鍛錬次第で会に必要なの時間は短くなるからだ。そうではなく、自分で自分の放れを制御できなくなる状態、これを早気と呼ぶ。

 その理由は様々に考えられる。弓力の過剰。中りへの精神的圧力。しかし、思いつく限りのどれもが、梓先輩にはあてはまらないように思えた。


「どうしてですか。先輩が早気になったとこ、見たこと無いんですけど」


 思いのほか問い詰めるような口調になってしまったことを言葉を放ってから悔やんだが、幸いにも梓先輩は気にしていないようだった。

 私から背を向けたまま、梓先輩はあらぬ方向を見ながら、


「私もまだまだ全然、未熟だった、ってことだ。ここ触ってみな」


 そう言って先輩は自分の背中を指さした。

 恐る恐る近づき、ちょんちょんと突く。


「硬いです」

「違うっ、手のひらで」


  すこし緊張しながらも言われたとおりにすると、先輩のやや高めの体温に続けて、背骨の向こうで響く激しい鼓動が、手のひらを通じて伝わってきた。


「な」

「……どうしてですか」


 問う言葉は先ほどと同じだったが、意味内容はすこしだけ変わっていた。

 早気の原因は分かった。少なくとも何かふざけていたとかそういうことではない。梓先輩に、先輩自身にも制御のできない何かが起こっていた。

 その何かとは一体何だったのだろうか。

 聞かれた先輩は、恥じ入るように耳を赤くしてこう答えた。 


「こころがね、ちょっとね。弓を引いて緊張したのはもしかしたら初めてかもしれない」


 梓先輩は今此処に在らざる彼方に目を向けながら、「なるほどね、そう言う事だったんだ」と小さく呟いた。

 羽島梓にとって的中は当然のものである。それゆえ先輩には緊張するという事がない。「精神の鍛錬」など文字通り理解に苦しむ言葉だったのだろう。

 それが、変わってしまった。

 私が一人の弓引きに起こった変化に思いを馳せていると、先輩は不意にちいさく首を回し、こちらに視線を向けた。


「驕ってた。さっきまでの発言は取り消す。ごめん」

「い、いやそんな謝られても」


 私がそういうと先輩は再び顔を背けてしまった。 

 声をかける気にはなれなかった。先輩は自分が知らなかった感覚に戸惑っている。それを邪魔することは許されない。

 しばらくして、梓先輩はぽつりとつぶやいた。


「弓、続けるかなあ……」

「ほ、本当ですか」

「やり残したこと、やっぱりたくさんあるからね。部活入るかは分からないけど」

「髪もまた短くしますかっ」


 梓先輩が振り返ってひどく不審そうに私を見るに至り、私は自分が口を滑らせたことに気付いた。慌てて話題を逸らす。


「矢取り行ってきますね」

「ああ、いや良いよ」


 何時もの通り手をひらひらさせる梓先輩に、私もいつも通り答える。


「こういうのは後輩の仕事なので」


 そう言うと、先輩はひどく神妙な表情を作った。


「ずっと黙ってたんだけどさ、私、実はあんまり年功序列ってしっくりこないんだよね」

「そうですか。私はあんまり嫌いじゃないですよ」

「そうか。じゃあとっとと行っちまえ」


 鼻息高くそう言うと、先輩は私とすれ違って座敷へと向かった。着替えるつもりなのだろう。下手すると私が矢取りをしている間に帰ってしまうかもしれない。梓先輩はいちいち行動が早い。

 そのなる前に聞いておきたいことがあった。


「先輩、やっぱり弓好きなんですよね?」


 すると先輩は一瞬硬直したのち、


「はっ、べっつにー?」


 とこちらを見ずに答え、更衣室の扉を閉めてしまった。

 その中途半端な答え方に少しばかりの違和感を覚えながらも、私は矢取りをすべく道場の扉をくぐる。

 いよいよ夏めいて強い日差しを感じて、傘立てなんか出す必要なかったな、と私はひとりごちた。

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