夜の鍛錬と不安な心
「はっ!ふっ!はあっ!」
小さくした薪の明かりに照らされる闇夜に、ひとつ、またひとつと鋭く風を斬る音が消えていく。
実戦を想定して左手に盾を持ちながら、時に法術を使い、ルベルトは汗を拭き取ることもせずに剣を振るっていた。
ルベルトが千年騎士になった頃。父親が死んだ十歳の頃には、この夜の鍛錬は習慣になっていて、それは旅に出てからも人知れず続けている。
子供の頃は身の丈に合わない剣に振り回されるだけだった。今はもう手元にない千年盾と呼んでいた大きな盾は、持ち上げるだけで精一杯だった。法術だってうまくできないことが大半だった。
(僕には攻撃力が不足している。圧倒的な防御力を誇った千年盾がない今、守りを固めて手数で攻めるのも、限界がある)
自らの課題をそう分析し、不足している部分を補うために、ルベルトは刀身を法術で覆い、尚も剣を振り続ける。
(僕には、レナーテのような身体能力も、リィナのような法術の力も、エリーのような知力もない。オールラウンダーといえば聞こえはいいけれど、すべてが中途半端ではダメなんだ)
最近、夜になるとリガレフに捕まった時のことが思い浮かぶ。何度振り払おうとしても消えてくれないのは、怒りよりも後悔の方が強いからだろうか。
もしあの時、セバスティアンではない兵士に呼び出されたのがエリーだったら?
(そもそも、エリーはあの状況で僕らから離れることはしなかっただろう。今考えれば、状況がおかしいことくらいすぐに分かりそうなものだ。あのとき、僕は警戒しているつもりで、どこか油断していた。それに引き換え、エリーは警戒を怠っていなかったようだった。僕が、勝手に飛び出していかなければ、あんなことにはならなかった)
レナーテだったら? リィナだったら?
(あのふたりなら、仮に連れて行かれたとしても逃げるのは容易いだろうな。それどころか、城を破壊し尽くすことだってできるはず)
レナーテが城を破壊する姿や、リィナが一瞬にして城内の兵士たちを無力化する姿が、ありありと脳裏に浮かぶ。
(…結局、僕が弱点なんだ。彼女たちの足を引っ張っていたのは、この僕だ)
ルベルトたちが何かを決めるとき、最終的な決定権は、全員の意見を纏めるルベルトにあることが大半だった。
(自分がパーティーの中心であると勘違いしていた…のかな。皆と一緒に旅をして、なんだかんだとうまくいっていた。それがいつしか、自信ではなく、驕りになっていたのだろうか)
疑問は、やがて不安へと変わっていく。
(この夜の鍛錬だって、本当に役に立つ保障なんてどこにもないんだ)
生まれ育った町を離れ、王都までの道のりで人知れず練習した『炎竜の盾』が、結果的にレナーテを救い出す活路を見出した。
しかし、努力することで得た力がどのくらいあるのかがわからない。圧倒的な才能や種族の壁の前には、意味を成さないのではないかという疑念が尽きなかった。
十歳にして両親を失ったルベルトは、強大な力を持つ竜と戦い、今もこうして生きている。それはルベルトの実力ではなく、元を正せばヴィリバルト=ヴァイゼンボルンと交わした盟約や、レナーテの献身によるところが大きい。
そんなネガティブな考えも相まって、王都を出立して二日経って頭が冷えてきたのか、ルベルトは終わりの見えない不安にとりつかれていた。
(僕は騎士であろうとしてきた。しかし、騎士とは民を守るために剣を振るい、仇なす者を討ち、倒す者。主君もおらず、守るべきものを持たない僕は、果たして騎士と呼べるのだろうか)
ルベルトは、今の自分に存在意義を見い出せない。
神殿を守護していたとき、ルベルトには確かに守るべきものが存在していた。巫女を護り、千年を越えてきた誇り高い一族の末裔だと信じて、疑うことすらしなかった。
(僕は何も考えてこなかった。ただ巫女様を、神殿を守ることだけを考えて生きてきた。巫女様が目覚めてからのことなど考えもしなかった)
エリーは、役目を終えたルベルトとどのように暮らしていくのかを考えていたし、レナーテは自らの役目を終えた後のことを決めていた。形はどうであれ、皆なにかしらの『その後』を考えて生きていた。
武力だけでは騎士とは言えない。騎士とは、武力の他に誇りと知性を兼ね備えて初めて、騎士足り得るのだ。
(だけど、僕は自分が何を成すかも考えず、ただ漫然と生きてきた)
ふと、王都で囚えられたとき、自らを顧みず真っ先に助けに駆けつけてくれたレナーテを思い出す。
(そんなレナーテと二人、命からがら逃げ出してきたあと、僕は僕の意思でセリスを助けたいと願った。レナーテやリィナ、それにエリーも呆れているようだったけど、僕の意思を尊重してくれた。しかし、それは…)
一際、ブオン、と鋭く風を斬る音が木霊し、静寂が訪れる。
(それは…仲間を自らの意思で危険に晒したのと同じこと。僕はあのとき、セリスを助けたいという思いばかりが先走っていたのではないだろうか。皆を危険にさらすことなど、考えていなかったのではないか。それは、自らを騎士と錯覚した、ただの自己満足ではないだろうか)
ルベルトは地面に剣を突き刺し、上がった息を抑えることもなく、満点の星空を仰いだ。
「誰か、教えてくれ」
・・・・・
今夜のルベルトは、様子がおかしい。
どうにも、鍛錬に集中できていないように見える。
息を乱し、剣を振りながらも時折見せる苦悶の表情は、鍛錬の厳しさだけではない何かを物語っている。
暗いテントの中、ルベルトを見つめる視線があった。
「ルベルト…」
レナーテだ。
ルベルトの次に夜番の彼女は「おやすみ! 二時間経ったら遠慮なく起こしてよね!」とルベルトに言いながらも、その実寝る気などは全くなかった。
『炎竜の盾』を見てからというもの、レナーテは毎晩ルベルトの鍛錬を見守り続けており、もはや日課となっている。
レナーテはあの時の感動が忘れられない。
幼い頃から育み、守り続けてきたルベルトの存外に大きな背中を。
自分の鱗を模した紅蓮の盾を掲げた雄々しい姿を。
「やっぱり、いつもとは違うみたい。どうしたのかしら…?」
十年以上ルベルトを見てきたレナーテは、彼の動きが普段と違うことなど、一瞬で看破できる。違和感はほとんど直感によって察知しているため、その正体は何かと思案を巡らせる。
「あの顔は、何かに迷っている時のルベルト様の表情に違いありません」
「ひうっ!?」
テントの入口をちんまりとめくり、熱い視線を注ぐレナーテの背後には、いつの間にかエリーが立っていた!
びく、と体を弾ませ、慌てて後ろを振り向くレナーテ。
「エリー、急に出てこないでよ、びっくりしたじゃないの!」
エリーは不敵な笑みを浮かべ、ルベルトに聞こえない程度に音量を抑えながらも、声を張った。
「レナーテさん。ルベルト様の必死に頑張る姿を見ているのがあなただけとお思いですか? 否、断じて否! あなたが見始めるもっと前から、わたしはずっと見ていました!」
え、ちょっとエリーどうしちゃったの、と狼狽えるレナーテなんてエリーはお構いなし。
「旅が始まった頃は、レナーテさんもリィナ様もすぐに寝ていましたので、寝る間際にこっそりとルベルト様を見るのがわたしの日課だったのです。ここ数日は、同じ嗜好を共有する仲間としてレナーテさんに特等席をお譲りし、後ろから除き見ることしかしていませんでしたが、今日のルベルト様の様子を見ていたら、いても立ってもいられません、さあ、避けてください!」
「い、いやよ! 最後まで譲りなさいよ!」
「こちらこそお断りします。第一、ルベルト様の次に見張り当番のレナーテさんは、きっちりと仕事を果たすために、早く寝るべきなんです」
「う…」
エリーの振りかざす正論に、レナーテはぐうの音も上げられない。
「…とまあ、冗談はこのくらいにして」
そして急に真顔になるエリー。
「どこからが冗談なのよ!?」
「ご想像におまかせします。少なくとも、レナーテさんの言うとおり、昨日までのルベルト様とは表情が違いすぎます。具体的に言えば、今日のごはんは何にしましょうか? と訪ねたあと、お店の前で真剣に考え込んでいる時のお顔に近いですね」
「え…」
「もちろん、深刻さは大分違うと思います。ですが、迷い、という点においては、同系統であると断言します」
「正直、全っ然わかんないんだケド…。でも意外だわ。エリーなら、ルベルト様があんなにも思い悩んでいます、わたし、ほおっておけません! とか言って飛び出していくと思ってたのに」
「もちろん、そんな気持ちがあることも否定はしません。ですがレナーテさん。あなたは、ご両親が集落を焼き尽くした後、すぐに立ち直れましたか? 数年後、ヴィリバルト=ヴァイゼンボルンと会話したことで、心の底から救われましたか?」
意外にも話がシリアス方向に展開したが、素直なレナーテは「うぅん、それは違うかも」と、エリーの話を真剣に聞いていた。
「 …そうでしょうね。これはわたしの想像ですが、確かにヴィリバルト=ヴァイゼンボルンの言葉によって、少しは気が晴れるところもあったと思います。ですが、何かに思いつめたとき、それを振り切るのは自ら悩んで出した答えだけなのです。望まぬままに千年従者として産まれ、定められた運命を前に、お門違いにもルベルト様を毛嫌いしていたわたしが、こうしてルベルト様と一生添い遂げると誓ったように。その心は、その意思は、自らが悩み抜いた末に出した答えに導かれるものです」
「うん…わかる、気がする」
「未熟なわたしが、ルベルト様にこのような献策をすることもお恥ずかしい限りですが、わたしは信じます。今の葛藤が、この瞬間ルベルト様を苛んでいる苦しみが、何れルベルト様のかけがえのない信念の礎になると」
「ルベルトの迷い…かぁ」
「どうですか。わたしはレナーテ様がわからないくらいの、ルベルト様の些細な表情の変化から、ルベルト様のお心がわかります! 羨ましいですか!」
えへん、とどこか誇らしげにエリーが胸を反らせた。
「羨ましいというか、すごいと思うわ。でも、なんだかそれだけじゃないような気もするのよね。なんていうか、悔しい? そんな感じにも見えるの。…ほら、今の剣の振り方! いつもより少しだけ力んでて、地面とまっすぐじゃないの」
ね、エリーもわかるでしょう? とレナーテが言う。
「ぐ、ぬ、ぬ…いいでしょう、認めます」
「…なにをよ?」
なんでもありません! とそっぽを向くエリーには、ルベルトの剣から迷いや悔しさを感じることはできなかった。エリーの目には、ルベルトの動きはいつもと変わらないように見える。
エリーとレナーテは、おおよそルベルトの考えがわかる。しかし、判断材料が異なっていた。
一緒にいるときは進んで身の回りの世話をしてきたエリーは、自らの行動がどの程度ルベルトの意に沿っているのか、どのくらい喜んでくれているのかを判断するため、常にルベルトの表情を気にしてきた。顔色を伺っていたのではなく、あくまでルベルトの喜ぶ顔が見たかったからだ。
対してレナーテの推察は、ルベルトの動きを起点にする。何千回、何万回とルベルトの剣捌きを見てきたレナーテは、ルベルトの得意な技も、苦手な動きも、全て知っている。いつもとはどう違うのか。それを突き詰めて考えれば、自ずと答えが見えてくるのだ。
今この場にリィナがいれば、誰も見たことのない法術を駆使し、自分であれば最適解を得ることもできる、と豪語したかもしれない。しかし彼女がこの時間に、まして自ら起き上がってくることなどはあり得なかった。
なんだかんだと言いながらも、ルベルトを心配そうに見つめるエリーの横顔を見ながら、レナーテは思いを馳せる。
(ルベルト、あなたは決して弱くない。いいえ、むしろその努力を思えば、並の人間なら相手にもならないと思う。…焦らなくても大丈夫。近いうちにあなたはきっと覚醒する。今はまだその力に気がついていないだけ。あたしにできることがあるとすれば…)
レナーテの思いは口にされることのないまま、夜はただ更けていくのだった。




