黒赤竜と紅い竜
竜となったレナーテは、ぐんぐんと天高く飛び上がっていく。
翼が空を切り、額を撫でる風。
千年振りの感覚に、レナーテは心を踊らせた。一生のほとんどを過ごした神殿の辺りには、高い山も大きな木もなく、生い茂る森の中で人目につかないように飛ぶことは難しかった。
(なんて、今はそんな場合じゃなかったわね)
しかしそれも一瞬のこと、今はやらなければいけないことがある。リガレフに対する怒りを忘れているわけではなく、自分でも意外に思うほどレナーテは冷静だった。ルベルトが拐われたと知った時の激情に比べれば、今の心中は穏やかとすら言っていい。飛び立つ時にエリーが叫んでいたことも、しっかり覚えている。
ある程度の高さにまで達したレナーテが辺りをぐるりと見渡すと、遮るものの何もない城下町の上に自分以外の竜が一頭。
離れていたその距離を、翼をはためかせて一瞬で詰めたが、相手は急な接近にも驚いた様子はなく、レナーテを見つめたまま動く気配すらない。
その余裕そうに見える態度が、元よりこの竜を良く思っていないレナーテの勘に触った。
『あんた、どういうことよ。こんなタイミングで出てくるなんて、人間達に恐れて下さいって言ってるようなもんじゃないの』
およそ千年ぶりの同族との邂逅。それは生まれて初めての、肉親以外の竜との出会い。
黒を基調とした外見だが、薄っすらと赤みを帯びていることから、この竜も自らと同じ火のマナに祝福された火竜だ。
目聡く相手を分析しながらも、レナーテは矢継ぎ早に告げる。
『それに、人間の村を焼き払ったのはあんたでしょ。あんたのせいで、あたしがやったと思われてたのよ。あんたが何考えてるかわかんないけど、あんなヤツに従って人間を殺して、恥ずかしいと思わないわけ!?』
あんなヤツとは言わずもがな、リガレフのことだ。
リガレフはレナーテではないこの竜を見て、勝利を確信したように高笑いしていた。元より王の器ではないリガレフがここまで実権を握るに至ったのは、レナーテ以外の竜の協力があったはずなのだ。
この竜が裏でリガレフと繋がっているのは間違いない。
『その件については、私にも弁明させていただきたいことはございますが、まずはお初にお目にかかります、我が主』
『マイ、ロード…?』
どんな言葉が帰ってくるのかと思えば、それはレナーテにとって初めて聞く敬称だった。
今この瞬間、レナーテ達は人間に聞き取れるような言葉で会話をしているわけではない。それは言わば思念の伝達に近く、人が聞くことのできない音を響かせることによって成り立っている。下から見上げる人々には、二頭の竜が威嚇し合って動かないようにしか見えていないだろう。
『我が主という意味です、我が主』
『主?あたしが、あんたの?ふざけないで!』
レナーテはその顎から巨大な炎球を吐き出すが、対峙する竜はいとも簡単に躱して見せた。
この時、上空にいるレナーテには届いていなかったが、赤い服の少女によって治まっていたはずの人々の悲鳴が、吐き出した炎球を見て遥か下で木霊していた。
『ともあれまずは自己紹介から。本来我々には名など必要もありませんが、それでは人間共に縁の深い貴女には違和感があるでしょう。人間共と交流する際、私が便宜的に使っていた名はジェラールと申します。お好きなようにお呼び下さい、我が主』
名言はしていないが、その言葉の裏には人族への侮蔑が含まれていることを感じ、レナーテは苛立った。
『ジェラールね。それじゃあまず、そのマイロードっての止めてくんない?なんかムカツクから』
『失礼ですが、それは出来兼ねます』
『このっ…!』
人の姿をしていれば、今のレナーテの額には青筋が見えるのではないかと思ってしまうような、瞬間沸騰だった。慇懃な態度を取っているにも関わらず、命令を受け入れそうにない態度にレナーテは腸を煮え繰り返す。
『ふん、まあいいわ。で、どうなの。なんで人間の村を焼き払ったわけ?なんであんなヤツに従ってるのよ』
『我々の悲願のためでございます』
『悲願…?』
怒りを抑え込み、言及を続けるレナーテに返ってきたのは、そんな理由だった。
『我々火竜は、元より同じ竜にも敵の多い種族。数多くの他竜との争いや、過去の戦争で人間共に狩り尽くされ、最早数えるほどしか存在しておりません』
『それとあたしが何の関係があんのよ。あたしは残念だけど、本当に嫌だけど、やっぱり竜よ。だけど、心は人間だわ。あんた達の事なんて関係ない』
竜であることは変えられない。まして人になる事など叶わない。それでも、心だけはルベルトと同じ『人』でありたい。
『そこまで人間共に肩入れしているとは。やはり、お迎えに上がるのが少々遅すぎたようです。決して悪いようには致しません、私と共においで下さい』
『着いて行くわけないでしょ。あたしがあんたの何なのか知らないけど、あんたは決定的に間違ったことをした。あたしを仲間に引き入れたいなら、人間の村を襲ったのは失敗だったわね』
自らの行いを悔いても、過去には戻れない。レナーテの強い反発を目の当たりにして、ジェラールが押し黙った。
(そうよ、あんたになんかついていくもんか。例え同じ人間でないとしても、あたしは、ルベルトと共にいる)
そう思うレナーテだったが、次にジェラールが放った言葉に、激しく脳を揺さぶられるような衝撃を受けることとなる。
『…その悲願のため貴女を私に託したのが、貴女のお父上だったとしてもですか?』
『お父様…?』
今、なんて言った。
あたしの、父親?
『そうです。今は火竜を統べる長に留まっておられますが、近いうちに全ての竜を従える竜帝となられる御方でございます。恐れ多くも陛下は、実の娘に当たる貴女を私に託されました。故に私は、貴女を迎えに来たのです』
レナーテの脳裏に過るのは、寡黙だったが優しかった父親の姿。常に人間のことを案じ、天災が起きそうになれば即座に駆けつけ、懸命に人々を守り抜いてきた雄々しく紅い竜。
『お父様が、生きてる…?』
『ご存命です。但し、陛下は竜である誇りからその身を人間のように変えることはせず、頑なに本来の姿を保っておられます。昔とは違い自然にあるマナの量が極僅かのため、無理が祟って天寿を全うされる日も、おそらくはそう遠くありません、故に貴女を』
竜族の言うそう遠くないとは、あと何年、何十年のことをいうのかレナーテにはわからなかった。ともかく、長い生涯に終わりが見えていることは確かなのだろう。
『そんな、でもっ…』
考えてもいなかった話の展開に、レナーテの頭の中は真っ白になった。
優しく勇ましかった父親の姿と、あの日、人間に獰猛に襲いかかったらしい、想像だけの父親の姿が交互に思い浮かんでは消えていく。
それと同時に思い出されるのは鮮烈な過去の記憶。
母親の亡骸に絶望し、枯れるほど泣き尽くしたあの日。
来る日も来る日も人間を埋葬し、墓を作り続けた数年間。
辛く、苦しく、悲しかった全ての思い出が、いつの間にか悪魔の形となって、レナーテの心に襲い掛かってくる。
『我が主、私と共に陛下の…お父上の元へ参りましょう。私の話を信じるか否か、まずはお会いしてみてから決めてはいかがでしょうか』
お父様に会えれば、あの日の真相がわかるかもしれない。それはあたしのためじゃなく、ルベルトのためになる。ジェラールの言葉を肯定する悪魔のような囁きまで、自分の中から聞こえてくるようだった。
(あたしは、あたしは…)
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
あたしは何をしたかったのだろう。
あたしはやっぱり竜だ。
お父様に会いたい。
人間になんかなれるわけないんだから。
お母様どうしたらいいの。
ヴィリバルトはなんて言ってたっけ。
今まで楽しかったな。
人間はどうしようもない悪いヤツがいるんだ。
ドラゴニュートって可哀想。
ジェラールは敵。
いや味方?
『 我が主、人間共の元を離れましょう。私と共に』
ルベルトは、何て言うかな。
あたしが急にいなくなったりしたら、心配してくれるかな?
レナーテは瞳を閉じて、自分がいなくなった後に想いを馳せた。
コイツと一緒にあたしがいなくなって、あのリガレフとかいう人間は切り札を失い、最低でも地下牢へ閉じ込められるだろう。
街の人々の混乱は、エリーがなんとかしてくれる。セバスティアンもいるし、国王がもし病で死んでしまっても、シルヴィアはこれから立派な女王になっていくのだろう。
ルベルトはきっと、無事にセリスを助け出す。
そうして、あたしがコイツと一緒にどこかへ飛んでいったことを、誰かに聞くのだ。
ルベルトは、どんな顔をするだろう。
【レナァァァァァテェェェェェェェッ!!!!】
不意に、あの夜のルベルトの叫びがレナーテの頭の中で鮮明に思い出された。
レナーテの瞳の中のルベルトは、悔しそうな表情で、無力感に打ちひしがれていた。
(あたしがいなくなってルベルトが心配しないわけ、ない)
あの日、自分を守ろうとしてくれたルベルトの背中を思い浮かべる。
そもそもそんなこと、十年以上ルベルトと戦ってきたレナーテが一番知っているはずなのだ。
ルベルトは騎士。護るものがあれば、自らの命など厭わずに戦う。それは歴然とした力の差がある、竜の姿のレナーテにも例外ではなかった。
いつだって全力で騎士であろうとしていた。
いつ死んだっておかしくないくらい律儀に、真っ直ぐに。
『いかがなされま『あんたは黙っててよ!』』
ジェラールの発した音は、今のレナーテには邪魔でしかなかった。
もしも、ルベルトがあたしを探し始めたらどうなる?
ルベルトはどんなにボロボロになったって、悪い人間にどんなに騙されたって、その命が尽きる最後まであたしを探し続けてくれる。
あたしは自分がどこに行くのか知らないし、ルベルトに伝えようもない。
離反した竜であるあたしを探すのなら、リィナの助けもアテにできない。
それをわかっててコイツと行くのは、みすみすルベルトを死地に追いやるのと同じだ。
そもそもあたしは、ルベルトと離れることを望んでない。
どうしてコイツに着いていく必要がある?お父様に会いたいから?
つまり、ルベルトとお父様、どっちを選ぶかってこと?
レナーテは、カッ、と目を見開いた。
「グオアアァァァッ!」
大きな咆哮を上げたレナーテの瞳には、一際強い煌めきが宿っていた。
そんなの、ルベルトに決まってる!
レナーテは大きく仰け反って息を吸い込むと、先ほどの炎球よりも一回り以上大きな炎をジェラールに向かって吐き出していた。
(悩む必要なんてない、あたしは、ずっとルベルトの側にいるんだ!)
先ほどとは違い、空中で一回転してその炎を寸前で躱したジェラールは、大きく翼をはばたかせながら抑揚のなく語りかけた。
『やはり、お迎えに上がるのが遅かったようです。今は素直に退くとしましょう。しかし、これから先あなたは私達の元へと来ることになる。他ならぬ、あなた自身のために』
負け惜しみのように聞こえたジェラールの言葉だったが、ジェラールは更にもうひとつだけレナーテに告げると、城下町を目指して急降下を始めた。
『それは…本当なの…?』
ジェラールの残した言葉によって、父親が生きていると聞いた以上の衝撃がレナーテの全身を貫いていた。
守らなければいけないはずの城下町に飛び込んでいくジェラールに、注意を向けることができないほどの感情のうねり。
レナーテは我を忘れた。
翼を羽ばたくのも忘れ、自らが落下していることにすら気づいていない。それどころか数秒後には人の姿に戻り、徐々に速度を上げながら落下していく。
竜が人の姿になる意味を、その意義を。
レナーテは涙を流しながら噛み締めていた。




