法術と人になりたい竜の少女
レナーテがダイヤウルフの群れを一蹴してしばらく歩き、神殿の近くへ到着した三人は、改めて神殿を眺めた後、ルベルトが住んでいた小屋で休息をとることにした。
ちなみに、神殿を見たいと言っていたリィナは、無言、無表情、無愛想の、相も変わらず無い無い三拍子のまま、神殿の外観を見回し、中を練り歩き、たっぷりと三十分ほどを使ったあと、もういい、とルベルトに告げた。
ルベルトとレナーテはといえば、最初の十分ほどはリィナと連れだって歩いていたのだが、途中からは神殿の外でとりとめのない話をしていた。
リィナなりに思うところはあったのだろうが、その感情の希薄さから、感動や感慨といった反応が分かりにくいため、見ていたルベルトとレナーテは早々に飽きてしまったのだ。
ふたりは、神殿の外観はそれこそ何度も見てきた。その上で内部もさほど見所がないとなると、退屈に感じてしまうのも無理はない。
簡素なキッチンでその事を思い出しながら三人分の紅茶を淹れたルベルトは、先にテーブルに座っていたふたりに淹れたての紅茶を差し出した。
ルベルトは、自分の淹れた紅茶を飲みながら、やっぱりエリーには敵わないな、と苦笑する。
「ダイアウルフ。あんな生き物、千年前にはいなかった」
紅茶を飲んで一息ついたあと、改めて先程遭遇したダイヤウルフに思いを馳せるリィナ。誰に言うでもない呟きに、それはそうよ、とレナーテがティーカップを両手に持ちながら、お行儀悪くその両肘をテーブルについたまま答えた。
「人間が魔獣って呼んでるあの子達がポツポツ出始めたのは、あんたが眠って百年くらい経った頃だから、知らなくて当然よ。時々はここら辺にも出ていたんだけど、町に続く道に出てきたのは初めてだわ。あたしが神殿を離れたからかしら?」
さすが、千年以上生きてきた竜と言わざるを得ないだろう。魔獣を研究している学者が大喜びしそうな、魔物が出始めた正確な時期も、彼女にとっては当たり前に知っていることだ。
「そうかもしれないね。僕も聞いた話だけど、自然に存在する四大属性のマナを正しいものとするなら、自然界にはない、負のマナを取り込んでしまった動物が、魔獣になってしまうものらしい。そのふたつは相反するから、自然のマナがたくさんあるところには魔獣は寄りつかないとも言われてる。僕には見えないけど、レナーテは竜だから、人とは違ってマナを常時纏っているよね? それがダイアウルフ達の抑止力になっていたのかも」
レナーテの言うことに頷きながら、そうルベルトが補足した。
「まあ、普通の人間なら見ることも感じることもできないでしょうけど、あの子達なら感じ取れるかもしれないわね」
突然のダイアウルフの出現をそう結論付けたところで、話を聞いていたリィナが、微かにだが、少し浮かない表情になっていることにルベルトは気がついた。
「負のマナ…」
リィナは視線を落として、俯きがちに何かを考え込んでいるようだ。
ルベルトは、自分の説明にはおかしいところはなかったはずだと自問自答しながらも、普段が無表情だけに、少しでも顔に感情が出ていると、リィナのことが気になってしまう。
「リィナ、負のマナに何か心当たりがあるのかい?」
顔を上げたリィナは、数秒の間じっとルベルトを見つめてから、弱々しく首を横に振った。
「わからない。けど、魔獣の纏っているマナは、私の力と似ている気がする」
その言葉に、視覚や嗅覚でマナを判別出来るというレナーテの意見が気になり、思わず彼女を見たルベルトだったが、レナーテは肩を竦めながら、どうかしらね、と一言言うだけだった。
リィナが表情に出すほど気になっている、負のマナについての結論が出ないまま、なんとなく話し出すのは憚られる雰囲気が場を支配した。しばらくはティーカップのカチャカチャという微かな音が古びた小屋に響いているだけだったが、そんな沈黙を破ったのはやはり、レナーテだった。
「そういえばあたし、ルベルトに少し付き合って欲しいことがあるのよね。できればリィナも見ててほしいわ」
時間はまだある。特に断る理由もないルベルトが了承すると、リィナもまた、無言ではあるが了承したようで、席を立ち上がった。
レナーテに言われるがまま、白い甲冑を装備し、消えて無くなってしまった千年盾の代わりに、予備として持っていた古びた大きな盾、そして愛剣を手に取ったルベルトは、彼女の後に続いて小屋の外へ出た。
「それでレナーテ、一体何をするんだい?」
未だに何も聞かされていないルベルトがそう問いかけるが、いたずらを思い付いた子供のような表情で、レナーテはその詳細を語ろうとはしない。
「んー。ちょっと、ね。ルベルトと戦ってみようと思って」
武器や防具を装備させられた時点で、ある程度荒っぽい用事であることは想像がついてはいた。だが、ルベルトには戦う理由が見当もつかない。
「レナーテ、戦うって一体…」
戸惑うルベルトを見ながら、レナーテがニヤリと口元を歪ませた。
「ファイヤーボール!」
あろうことか、レナーテは臨戦態勢に入っていないルベルトに向けて、突然炎弾を放った。
レナーテの行動に驚いたのは対峙しているルベルトだけではなかった。少し離れた場所から見ていたリィナも、珍しく目を見開いて驚きを露にしていた。
もっとも、彼女が驚いたのはレナーテの急な攻撃に対してではなく、別の理由があったのだが。
当然ルベルトには、周囲の状況を確認している余裕はない。自分の上半身を覆うほどの炎弾を見て、咄嗟に盾に身を隠し、法術を使う。
「水の加護!」
瞬間、ルベルトの回りには薄い水色の膜が現れる、が。
(まずい、やはり千年盾じゃないと、僕の力だけではマナが足りない!)
いつもより自分を覆う水のマナが薄く感じられたルベルトは、レナーテが放った炎弾を堪えきれるのか、咄嗟に判断できなかった。急な攻撃に反応が遅れたことで、回避もどうやら間に合いそうにない。
覚悟を決めたルベルトは、襲い来る炎に目を凝らし、身を固くしながらも、竜化していないレナーテの炎が、普段よりも威力が弱くなっていることを期待するより他なかった。
ゴオッ、という音ともにルベルトの盾に着弾した炎は、盾を中心として四方八方に飛散しながら、最終的には古びた盾を少しだけ溶解させる程度に留まった。
結果的にはルベルトが期待した通り、竜化している時の炎と比べれば、威力は数段弱まっていた。故に今はこの程度で済んだ。千年盾を使っていた頃は完全に防いでいた竜化したレナーテの炎も、今の盾で同じことをすれば、盾を溶かし尽くし、貫通し、ルベルトに甚大な火傷を負わせたことだろう。
ルベルトは自らの課題を一つ認識した。今まで使用していた千年盾は、大きなマナ結晶を加工して作られた、言わば伝説級の盾だ。その盾が無い以上、現状の装備に合わせて自らの戦い方を変えなければ、直ぐに命を落とし兼ねない。
更に言えば、盾自体は古いだけで、作りは決して粗悪ではない。水の加護がなければ、今の攻撃にすら耐えたかも怪しいのだが、それはともかく、別な方法を考え、装備の防御力不足を補う必要性がある。より強くなるために、自らの法術にも磨きをかけなければ。
まあ、法術がなければ、並の防具を溶かし尽くすかもしれないと思わせるほど、レナーテの放った炎弾の威力がそれだけ高いとも言えるが。
ルベルトがそんなことを考えていると、いつの間にかリィナがレナーテに近寄り、話を始めようとしていた。
「コハクは今、法術を使った。竜であるあなたが、どうして?」
慌てて、ルベルトもふたりの側に駆け寄る。
レナーテが炎弾を放った際にリィナが驚いていたのは、竜であるレナーテが法術を使ったからであった。リィナにとっては、今レナーテが放った炎弾など、いとも簡単に防ぐことができる程度のものであり、不意打ちであろうが、ルベルトと違ってそれ自体に驚く要素は感じられない。
では、なぜ驚いたかといえば、元々法術とは、人間の、それも一部にしか使うことができないとされてきた技法だからだ。それはリィナがいた千年前も、ルベルトが過ごしてきた現在も、ほぼ同様の認識である。
レナーテはというと、驚くふたりを尻目に、いたずらを成功させた子供のような表情を浮かべ、はしゃいでいる。
「法術って要するに、どんなマナを体に取り込んで、そのマナをどうやって外に出すかでしょ? 取り込むマナの質や量で威力が変わって、どんなふうに出すかで、範囲だとか形が変わるのよね」
レナーテの言ったことは正しかった。補足するとすれば、人体の構造上では誰しもがマナを取り込むことができると考えられている。その上で、法術が使えない人は、マナの取り込み方が理解できないだけ、という説が一般的だ。
マナを取り込むというのは、言葉や文字では説明できない感覚的な部分に頼るところが大きい。マナの取り込み方は人によって様々で、そう考えれば、やはりこれもある種の資質とも言えるのかもしれない。
また、取り込んだマナをどう外に出すのかも、戦いにおいて使用する場合は特に重要になってくる。
体のどんなところを通じさせて、どこから放出するのか。いわゆる術式というものだが、これもまた人によって千差万別だ。
術式は、体に流れるマナをイメージすることで、慣れればある程度自在に変えることができる。同じような法術でも、術式を変えることで威力を格段に上げたり、同じ効果でもより長く使用できたりと、その効果を調整することもできる。
要するに、術式によって法術に使用するマナを増幅させたり、省力化したりすることも可能ということだ。
「法術って、竜化してるときに炎を吐くのと原理は大差ないわよね。だから、あたしにも当然使えるわ。特にあたしは、この姿でいる時間が長いから、竜化していない時にでも、自ずと炎の出しかたもわかってきたのよね」
元が竜だから、やっぱり火のマナしか取り込めないんだけどね、と笑うレナーテ。
「でも、どうして急に攻撃なんてしたんだい? 僕としては、自分の実力を知る良い機会にはなったけど」
あくまでポジティブに考えるルベルトに、レナーテはさらに笑顔になる。
「暇潰しにひとりで法術の練習をしてたとき思ってたのよ。法術って、自分のイメージしやすい名前をつけてあげた方が強くなるんじゃないかって。ここら辺の森は静かでしょ? 思いっきり叫んだら、ルベルトのいる小屋まで聞こえそうで、今まで実験できなかったのよね」
ルベルトは、そんな理由で自分に炎弾を放ったのかと思わないでもなかったが、実のところレナーテの考えは的を射ていた。
「その通りだよ。法術は、自分のイメージがはっきりしていればしているほど、発動までの時間が速くなるし、威力も強くなる。声に出すことで、イメージをより強固なものにすることができると言われてるね」
当然、ルベルトも法術を使うときは、法術に自分なりの名前をつけ、声に出すようにしている。
やっぱりね、と笑うレナーテだったが、ルベルトはふと、先程のダイアウルフと遭遇した時にレナーテが使った衝撃波のことを思い出した。
「でも、ダイアウルフに放ったあの衝撃波は、法術ではなかった気がする。あれは多分、竜化するときにマナを集める要領で自分の回りに集めて、途中で止めてマナを打ち出してるんだよね? あんなことができるなら、法術なんて必要ないんじゃ?」
先にもあったが、レナーテが竜化するには大量の火のマナが必要となる。それは人が法術を使うために取り込もうとするマナの量を遥かに凌ぎ、集めるスピードも比べ物にならない。
レナーテが放った衝撃波は、相当量のマナを一時的に集めなくてはならないため、人にはまず出来ない芸当と言える。人の姿の状態であんなことが出来るのならば、法術など使用しなくとも、十分に法術師を名乗れるというものだ。
「うーん…前まではただの暇潰しだったけど、これからしばらくは人間として振る舞うわけじゃない? 法術を法術らしく使うことも、必要かと思って」
それを聞いたルベルトは即座に納得した。
食事の時もそうだが、レナーテは人間らしくあることを望み、そうして過ごすことを心から楽しんでいる。
幼い頃に集落の人間と心を通わせ、母親を亡くし、父親も行方不明となってしまった彼女は、千年という長い時を人の手によって拘束され、他の竜に出会うこともなかった。
レナーテが知ることの出来た情報は全て人に由来するものばかりで、千年騎士と戦うことを除けば、その境遇上、竜として生きることの出来ない竜だった。
レナーテは、竜とはどのような生きるべき種族なのかわからないまま、自らの両親の業を背負い、贖罪し、竜として生涯を終えるしかないと考えていた。そんな彼女にとって、自らを人間の女性と変わらない扱いをするルベルトとの出会いは、今後、死ぬまでに二度と味わうことがないであろうほどの、凄まじく衝撃的な出来事となった。
レナーテは竜だ。それは変わらない。
だが、両親以外の竜を見たことがなく、千年の間人の歴史と言葉を学び、自らも人と同じ姿で暮らしてきたレナーテにとって、人と触れあうことが自然で、頭のなかで思い描く自らの友人も、恋人の対象さえも、既に人なのだ。
だからレナーテは一生懸命に人間らしくあろうとする。ルベルトと共にあるために、本当の本当の本気で『人間』になりたいと思っている。
少なくとも今はまだ、レナーテは意識してそう思っているわけではない。しかし、彼女の行動がそれを物語っている。
「…そろそろ戻った方がいい。グライスナーの子孫も、今から私たちが町に戻った頃には、準備を終えているはず」
レナーテが無意識の内にルベルトに熱い視線を送っていることに気がついたのかは定かではないが、抑揚のない声でリィナが進言した。
「そうか、もうそんなに時間が経っているのか。それじゃあふたりとも、用事も済んだし町へ戻ろうか」
ルベルトは懐にしまってある懐中時計を取り出して時間を確認した。町へ戻ろうという言葉に、レナーテは元気よく返事をして、リィナは静かに頷く。
ルベルトは懐中時計を懐に戻しながら歩き出した。その懐中時計を見るリィナの表情が、いつもの無表情から、優しげに染まっていたことに、前を歩いていたルベルトとレナーテが気がつくことはなかった。




