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前編

「月のころはさらなり」「秋は夕暮れ」の続きになります。

咲耶さんが騙されて見合いを?――慌てて止めに走る和穂ですが、実は。

足元でザクザクと霜柱が音を立て、ぬかるんだ泥と共に背後に跳ね上がる。

冬の弱々しい日差しが、和穂の吐く荒い息を白く浮かび上がらせていた。


――あの女性(ひと)は。


咲耶は、きっと何も気付かないまま、ここへ向かっているはずであった。


 * * *


一月半ばの土曜日。

雅耶から、慌てた声の電話を受けたのは、ほんの数十分前だ。


「咲から今日出掛けるって聞いている?」

「ああ。初釜だとか言っていた。

 朝早いのに振袖で大変だと……」

「その茶会、見合いだ」

「……何だと」

「主家筋からの話だ。

 会ったら、こちらから断るのは難しいかもしれない。

 咲に気付かれないように、僕にも伏せられていた。

 祖父さんが、うっかり口にしなければ、気付かない所だった」


場所を聞き出して、和穂は慌てて家を飛び出した。

ウールのコートに片手を通しながら、財布を忘れていないかズボンのポケットを探る。

目的地は、ここから電車で二駅の距離にある高級料亭だ。

個人宅であったならば、

そうそう簡単に場所を割り出せなかっただろうことを考えれば、

これは不幸中の幸いなのだろう。


料亭の敷地内に設えられた茶室だなんて、咲耶さん。

お定まりの、ありがちな設定じゃないですか。


二駅の距離を、和穂は苛々と電車に揺られた。

咲耶の家からならば、タクシーでそれなりにかかるだろう。

大丈夫、間に合うはずだ。

改札から飛び出すと、和穂は走り出した。

今朝はこの冬一番の冷え込み、と天気予報では告げていたが、

その寒さを今は感じない。

ただ自分の吐く息の白さと、街路樹の下草にまだ残る霜の白さが、

それを知らしめるばかりで。


見合いの席であるならば、

咲耶はひとりでここに向かっているわけではないだろう。

恐らく両親、少なくとも母親と一緒であるはずだ。

それをいきなり飛び出していって、

何と言って引き止めたらいいのかよくわからない。

自分はまだ何者でもなく、何も持たない身なのだから。

――それでも。

咲耶が手の届かぬ所に行ってしまうのを、

ただ手をこまねいて見ているつもりはなかった。


走る和穂を背後から追い抜いて行ったタクシーが、

五十メートルほど先で、ウィンカーを出して停車する。

ドアが開くと、銀鼠(ぎんねず)色の和服姿の女性がゆっくりと降り立ち、

次いで、薄紅色の振り袖姿の女性が半身を覗かせた。


――あの横顔は。


和穂は息を切らしながら走り寄り、

料亭の門をくぐらんとしている後ろ姿に向かって叫んだ。


「咲耶さんっ!」


足を止め振り返った咲耶が、

肩で息をする和穂の姿をそこに見つけて、目を瞠った。


「森君?」


薄化粧を施し、髪を結い上げ、

雲どりに様々な花が描かれた振袖姿の咲耶は、

常になく華やかな美しさである。


「薙刀で男を払い除けてきたような女性には見えないじゃないですかっ」


和穂は唸ったが、咲耶には届かなかったようだ。


「森君の家、この近くだったの?」


そんなとぼけたことを口にする咲耶に、和穂の中の何かが音を立てて切れた。

数歩で距離を詰め、その手首をぐいと握りしめる。


――確保。


そのまま自分の方に引き寄せて、その目を覗き込む。


「咲耶さん。俺と、結婚して下さい」

「――はいっ!?」


仰け反る咲耶と、圧し掛からんばかりの和穂を、

咲耶の母が呆気にとられて眺めている。

その場を沈黙が支配した。

――と、その横にタクシーが一台横付けされ、

開いたドアから、やはり和装の老婦人が二名降り立った。

そう、ここは料亭の前であるからして。


「まあ、重松さん、明けましておめでとうございます」

「今年もどうぞ宜しく」

「こちらのお茶室、初めてですわね」

「お庭もなかなか風情があるというお話ですわよ」

「――あら、あちらは?」


年配の婦人たちは、賑やかに挨拶しおしゃべりしながら、

少し離れたところで手を取り合う(ように見えなくもない)

若者二人に視線を向ける。


「さ、さあ。私もちょうど今、着いたばかりですの。

 参りましょうか……」


はっと我に返ったらしい咲耶の母は、如才なくその二人を促し、

咲耶と和穂に向かって、背後でしっしっと手を振った。


「――行っていい、ということらしいけど」


門の中に姿を消した母たちを横目に、

咲耶が、固まったままの和穂に呟いた。

和穂は、掴んでいた手をぱっと放し、

ふらふらと数歩後ずさった後、髪を両手で掻き乱してしゃがみこんだ。


「――どういうことですか」

「そのセリフ、そのまま返してもいい?」


言葉を継ぐことが出来ず、和穂は頭を抱え込んだ。

どうやら茶会を装った見合いなどではなく、本当の茶会が催されるらしい。

それなのに、こんな所に突然現れた和穂は、

何の前触れもなく、結婚してくれ、と口走ってしまった。

しかも、彼女の母親の目の前で――


俺としたことが。


何ともいえない空気が漂うなか、小さなため息が頭上から落ちてきて、

和穂の髪がそっと整えられた。


「――こら、森和穂。

 他所様の店先でしゃがみ込むとは、営業妨害も甚だしい。

 立ちなさいよ、みっともない」


咲耶が和穂のコートの襟を引っ張り上げようとする。


「いい加減、君とか森君とかフルネームとかじゃなくて、

 名前で呼んでくれませんか」


和穂が俯いたまま動かず、拗ねたように口にすると、

笑いを含んだ声がこう答えた。


「生意気よ、森和穂。

 こんな所でへたり込んでいるくせに、そんな要求をするなんて」


咲耶は、諸々百万年早いわよ、と和穂の耳を容赦なく引っ張った。


「イタた、何するんですか咲耶さん」


中腰になりながら和穂は叫ぶ。


「ほらいつもの余裕はどこへ行った、和穂クン(・・・・)


思わず顔を上げると、可笑しそうに自分を見つめる咲耶と視線が合う。

何と言い訳をしていいかわからず、和穂は、すみません、と俯いた。

咲耶は首を傾け、眉間にシワを寄せる。


「それは、何に対しての謝罪?

 お茶会を欠席させたこと?

 ふざけてプロポーズしたこと?

 それとも、ここにしゃがみこんだこと?」

「ふざけてなんか、いませんっ!」


和穂は声を荒げるとすっと身体を起こし、再び咲耶に迫った。


「俺は、間に合わないかもしれないと」

「間に合わないって、何に?」


わけがわからない、という表情を浮かべる咲耶の顔を見下ろしながら、

和穂は自分の中に渦巻く想いに翻弄される。

この女性(ひと)に、あるいはこの女性(ひと)の周囲に対して、

約束できるものを、引き止めるものを、説得力のあるものを、

何ひとつ持たない自分が、もどかしい。

そうだ、あのセリフにしたところで、おふざけと取られても仕方がないのだ、

どんなに真実、それを望んでいるとしても。

今の己が口にする言葉は、それくらい重みがない――

間に合っても、間に合っただけじゃ意味がない、ということだ。

く、と唇を噛み締め、和穂は咲耶の手を取った。

それから、大通りに向かってゆっくり歩き始める。


「――寒くないですか?」

「君こそ」


剣呑とした視線を向ける和穂に苦笑して、咲耶は言い直した。


「和穂クンこそ、マフラーも手袋もなしで寒くないの?」

「ここに来るまでは、焦っていて寒さなんて感じませんでしたよ。

 今だって、この失策をどう取り戻したらいいか考えると、

 身体中の血が沸騰しそうで――」


表通りに出ると、和穂はタクシーを停め、咲耶と乗り込んだ。

突然現れて、わけのわからないことを言い、しでかした和穂に、

聞きたいことは山ほどあるのだろうが、咲耶は黙って車窓から外を眺めている。

その横顔に、振袖に、冬の薄日がちらちらと差し込む。

和穂の想い人は、華やかな花々に彩られた小さな春を纏って傍らにあった。

今は。

取り敢えず、今は自分の傍らに。

そのことに、和穂はひとまずの安堵を覚えた。




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