第二章 【聖騎士】のジャスティス
――迎日刹理との付き合い自体は、もう3年にもなる。
ルーシェは今更にそんな事を自覚する。
3年前の幻想――血塗れの少年は、【天使化】の処理を終えたばかりの【ルーシェ】の前に跪き、涙を流して【天使】の力を求めた。
もちろん、ルーシェはそんな理由で――その程度の何かしらを理由にして根源的には世界すら改変してしまうような己の超能を彼に授けたわけではなかった。
【神】の端末であり末端である彼女は、その戦闘に関する以外の大部分を、多元型量子コンピューター【ヴェクサシオン】に依存している。超能を潤滑に行使する為に【OS】として僅かに主体的な自我を持つが、それは所詮、基のモデル(メーカー)ごとの性格の違いでしかない。何に特化し何を苦手とするかと言うことでしかないのだ。
しかし、そんな存在であるはずのルーシェが、【神】に背いてまで当時ただの少年でしかなかった彼――迎日刹理を行使者に選んだのは、やはり間違いなくルーシェがルーシェであった故なのである。
彼女は別段、刹理の涙に心を打たれたわけではなかった。
むしろ、その涙を無様とすら思った。
しかし彼女は聞いたのだ。
確かに聴いたのだ。涙を流しながらも、激情と激痛に苛まれながらも――一つの震えもなく放たれた、刹理の言葉を。
彼女はその真っ直ぐな言葉を聞き――その刃金のような精神に触れ――すべてを視て、迎日刹理を、己の行使者として認めた。
それは信頼に似ているようで違う、もっと高潔な、或いはもっと低俗な、本当に些細で大袈裟なたった一つの理由ではあるのだが、しかし今の彼女に、それを気付き、理解しろというのはあまりに酷な話しだろう。
いま、彼女に残されているものはチカラと、チカラを操る術と、【神】に対する忠誠のみ。
彼女が一つの決断とともに、己自身の【感情】を理解するのは、まだもう少し、先の話である。
だから、いま彼女が感じている苛立ちのようなものは、それとは少しも関係がない――はずだった。
§§
『…………セツリ』
時折、タイヤが荒れたアスファルトの表面で跳ねる。
世辞にも整ったとは言い難い道であったが、少なくとも舗装されているだけましであろう。山道をただ行くよりはよほど。
『……ねぇ、セツリ』
……もう冬が近いからか、林道に見える木々は紅葉を通り越し、落葉を散らせ、静かに冬支度を始めていた。
しかし中には頑迷なものもいるのか、葉を散らすこともなく青々と梢を茂らせ、枝張りも悪くない、そんな高木が、ちらほらと見て取れた。
常緑樹か落葉樹の違いなのだろうが、植物を専門としない俺には判断が難しい。流石に針葉樹か広葉樹ぐらいかは判別が付くが、これだけ西方に来ると植生が随分と違うのだと実感をすることになる。
俺は名からも明らかな通り漢字圏で生まれた。その後は各地を転々としているが、その主な事由は屋内での生活・研究が殆んどであり、はっきり言って周囲の環境――特に植物の緑や海の青については記憶が薄い。覚えているものといえば、【彼女】とともに見た夜空と、そこに散る満天の星。
……そういえばあの時始めて、俺は空に輝く星と言うものがほぼ全て恒星であるという事を知ったのだったか――
『――セツリ』
「……なんだ」
空を見上げていた所為か、相棒のあまりに冷たく(そして白々しい)声に、俺の反応は若干遅れることになった。
いや――理由ならば、恐らく他になかったわけでもないのだろうが。
『……ねぇ、セツリ……あまり、愉快な気分ではないのだけど?』
「……うぅむ」
唸る。他にどうすればよいのかも分からず、、しかしルーシェの言うことの正当さも、俺は受け入れないわけには行かなかった。だから、やはり俺は困惑に唸るしかなかった。
「…………」
逃避の為に上げていた視線を、仕方なく下に戻す。
「……すぅ……すぅ……すぅ……」
そこには、一人の少女が俺の身体に寄り掛かるようにして眠っていた。年齢は、まだ十か幾つだろう。表情こそないが、穏やかな寝息は少女の安眠を推察させた。少女にしては長い髪が口元に入っているのを、俺は手を伸ばして払う。触れ合った服越しの肌からは、少女特有の熱が伝わってきていた。妹がいれば、このくらいかもしれない。ほんの僅かな愁意を感じるが、両親の死はもはや十年も昔のことであり、今更に思うことはほとんどなく。
『セーツーリーっ』
「…………」
……逃避は許されないらしく、俺は視線をそのままやや右にスライドさせる。
少女の腕の中に、鞘に収められた一振りの剣が抱き締められていた。
質実堅剛……とは言い難い、どちらかと言えば華美な造りのブロードソード。刃渡りは1266ミリ。刃自体にも彫金が施され、様相としては儀式剣に近い。鍔の装いだけは現実的な鉤系(ソードブレイカーの役割を帯びるが、今までにそれが可能だった相手とは直面したことがない。その機能の発現にははっきり言って素人と玄人級の技量差がなければ成立しないのだ)。柄には聖書上の空想生物――赤い竜、レヴィアタン、ベヒーモス――が描かれている。
その剣の収められている鞘も鞘で金細工や宝石によって覆われており、全体としての景観は16世頃の作を思わせる。
昔語りに聴く騎士が奮ったものにしては、聊か豪奢が過ぎるようだったが。
『セツリ』
「うぐ」
いい加減にしろというニュアンスが多分に含まれた声に、俺は怯む。正直な話をしておけば、俺はあまりこの相棒が得意ではなかった。苦手、と言うほどではなかったが、少なくとも得意ではなかった。
『……セツリ。とにかく今の扱いが甚だ不本意よ。気に食わない。改善を要求するわ。具体的にはあなたの腰に私を戻しなさい』
腹を据え兼ねたか、遂には具体的な要求を述べ始めた相棒の声は、その剣から響いていた。
「……座っているのだ、佩刀は難しい」
『なら立てばいいわ』
「この状況でおまえは、よくもそんな事を言えるな……」
如何に俺とて、安らかに眠っている少女を起こしてまで剣を腰に下げるほどのつまらない矜持を持ち合わせてはいなかった。
『……へー、セツリは共に戦場を駆ける私よりも、そんな年端も行かない少女を優先するというのね? ――このロリコン! ペドフィリア! 見下げ果てた相棒よ、ふん!』
「…………」
行使権が自分にある剣に、幼女コンプレックスだとか異常者だとか悪態を吐かれるという名状し難く稀有な経験を味わった。
しかし。
「…………」
【ルーシェ】。
いまだ真の名は教示してもらえず、そんな愛称のようなもので呼んではいるが、この相棒――(恐らく)彼女は、神の端末たる【神の息吹】である。
つまりその原型は、今より30年ほど前、在野の科学者であったオーギュスト・ヴァーチャズ元理学博士が学会を追われることと為った冒涜的な論文〝生体波動のパターン化における代替的意識の抽出と固定〟に端を発していることになる。
これは、生体――否、生体に留まらず、世界に存在する全ては固有の波動を有しており、それを別の器で再現することによってその器に元の波動と同じ意識・能力を帯びさせることができる、という内容の論文であった。
どう眇めてもSF染みたその内容と証明の不十分さ、論理の欠損による不可能性から信憑性なしと断じられたその論文は棄却され、また所属していた研究施設で女性問題を起こしたことも相まって、彼は学会を追われることとなった。
そして翌年、ヴァーチャズ博士は心臓発作を起こし他界。帰らぬ人となり、その狂科学的な論文ともども、なかったものとして扱われることになった。
しかし僅かその7年後、その異端の論文を発掘したものがいたのである。
ツァラトゥストラ・ニーチャ。
当時、東亜重工の主任研究員であり――そして何より、現在の【神】の雛形を作った人物である彼は、一種の天才であった。
彼は当時、若干17歳にして12の博士号を持ち、その分野は物理学から生物学、果ては超心理学にまで及んでいた。彼が東亜重工で開発し、特許を得た発明は最早数えきれない。物体の量子圧縮と解凍の再現性理論、超高度純粋金属の精製及びアダマンタイト基の発見、分子間反発力を利用した高速移動とその応用航空技術、エトセトラエトセトラ……。
発明王……或るいは王すらも超えていたのか、確かにその言動に関しては常軌を逸した――むしろその言動に関しても、と表現すべきか――ものが多く、教誨師としての資格を有し刑務施設へと何度なく足を運んだという逸話や、実験の為と称してポケットマネーで小型ジェット機二機を購入し空中で激突させたという噂など、その奇行の類は枚挙の暇がない。
その逸していた天才である彼が、狂ったとされていた論文とめぐり合い如何様な事態が起きたか。ニーチャは、ヴァーチャズの論文の不備を次々と指摘し、不可能性を一度は証明。その後、新たに論理を構築し直し、学会がトンデモと言って打ち棄てた論文を、僅か一年の歳月で実現可能なものとしてしまったのである。
と、同時に、この頃から彼は、既に修め終えた二つの学問を見詰めなおす。
量子力学と。
神学である。
そこになにがあったのか。果たしてなにが彼をそう駆り立てたのか、当時を生きていたわけではない俺には分からない。きっと誰にも理解できない。
しかしその結果、彼は形而下形而上を問わず【神】という存在を生み出そうと画策した。
当時は第三次世界大戦の爪跡も深く、世界に住む殆んどの人類が平和を切に願っていた。そんな情勢下を巧みに利用し、ニーチャは極秘裏に国連へと取入り、彼自身の頭脳を交渉の材料としながら【神】を運用する為の組織【教会】を作り出し、真の平和を生むための下地を作りあげた。
そうして12年前、遂にそれは完成する。
多次元型量子コンピューター【ヴェクサシオン】。
制御システム【マギ・トリニタス】。
生体波動受信機【アンドレーション・シンフォニー・フォーク】。
【神】の器であり、その魂と為る全てを創造し、当時65億存在した人類全ての波動をサンプリング、統合、平均化を行い【神】の【神格】に相応しき三つの波動を作り出した。制御システムの波動の数を、一つではなく三つとしたのは、唯一意志の優先ではなく、より確度の高い人類の総意を生み出すためであった。
彼はそれを起動し、世界に初めて、形ある【神】が降臨を果たした。
【神】は世界中に存在していた幾つもの〝問題〟に解答を示し、【教会】はそれに従って〝問題〟を解決した。その積み重ねの結果、世界には平和が訪れた。
世界は平和に為ったのだ。
しかし、ニーチャは更に先を見据えていたらしい。【神】というシステムだけでは解決不可能な事体――世界自体の改変が必要になる事態を想定していた。
そして彼は――生み出した。
神の肉体となるもの――奇蹟の代替品である三つの物理法則を支配する力を。
【神の息吹】。
第一号――引斥制御システム【王】。
第二号――振動制御システム【暁】。
第三号――量子制御システム【塵】。
神ならぬ多数決に元ずく【神】が使用するためのチカラ。
【ヴェクサシオン】を【神】の魂の器とするならば、【ブレス】とは【神】の躯――その手足。
故にそれは地球上でもっとも強く、堅固な武装により鎧われて、何よりも神の似姿として存在する。最初期の作である三つの【ブレス】のみが人型に酷似した姿をしているのはそのためだ。
そしてその【ブレス】を、【神】が用いれば世界を何の奇も衒いもなく改変できてしまう。故に、その超絶の力には、例え人類の総意である【神】であっても軽々しく使用できないよう、プロテクトとして三つの意志が刻まれた。
マギ・トリニタスとブレスのOSとして抽出された三つの人格が、それぞれに宿り、互いを監視し、【神】の使用決定の意志に対しても審議を行うという二段構えの防御構造をとっていたのだ。
それは世界を変える力だ。
しかし【神】はその力を今のところ行使してはいない。その創造主たるニーチャの意に反し、【神】が不要と判じたことも一つの要因ではあったが、3年前、何よりもそのうちの一つが破壊され、あまつさえ残る片割れの一方が【世界の敵】へと堕したためである。
その【世界の敵】こそが【王】のブレス――【魔王】ベリアルであった。
そしてその敵対者であり、【天使】であり、【魔王】と【悪魔】の総てを討つ宿命と責務を帯びる【神の息吹】こそ――我が相棒【暁】――【ルーシェ】なのであった。
「…………」
いま俺の眼前で、一人の少女が抱いている剣。その中に【ルーシェ】の全てがある。
量子的分解をされ封入されているその力は、本来的には人が使うものではない。しかし【教会】が自殺したニーチャの御業の再現を試み、【神の息吹】の模造品――今の世の【天使】と【悪魔】を生み出したことによって、その試作として【ルーシェ】や【ベリアル】も人の装着が可能なように改変された。
そう、元を辿れば【天使】も【悪魔】も同じものであり、超初期の三つの【ブレス】に於いては、天使や悪魔の区別すらなかった。
ヒューストン戦役の騒乱に紛れて盗み出された初期型のブレスを【悪魔】、それ以外を便宜上【天使】と呼んでいるにすぎないのだ。
しかし、今ここにある――ここにいる【ルーシェ】は【天使】だった。それも、【悪】に滅びを齎す【死天使】。
それこそが俺の希った力。脆弱な意志しか持たない俺に、【悪魔狩り】を遂行させる為の誓約であり呪詛であり――
『……じょ、冗談よ。本当にセツリが、私を蔑ろにしているとは思わないわ。だから……そんな顔、しなくたっていいじゃない……』
「……ん?」
相棒の、らしくもない気弱な声に、没頭していた回想から引き戻される。
回想の間、なんら特別な表情を浮かべていた覚えはないのだが、或いはおかしな顔をしていたのだろうか。
「いや、お前の気持ちを推し量れない俺自身にも、多分に問題があるのだろう。やはり、ユーザーでもない人間に触れられれば嫌悪を覚えるものなのか?」
元の意識――波動がヒトではあったとは言え【ルーシェ】の今は【神威代行】の【ブレス】。それならばやはりヒトとは違う矜持、ものの感じ方もあるのだろうと思いそんな事を口にしたのだが、
『――なっ! 何て破廉恥な事を言う男なの⁉ セツリ、見下げ果てたわ!』
凄まじい怒気とともにそんな返答が返って来た。
……分らない。全く分からないが、どうやら、酷くクリティカルでヒステリックな部分に触れてしまったらしい。
『誰がヒステリックブルーよ!』
「……誓ってもいいが、俺はそんなことは言っていない」
『ヒステリックに乱れ撃ちなんかしていないわ!』
そんなこと、されても困る。ことあるごとに異能が暴発するなど、恐怖が過ぎた。
『というかセツリ。二度と私に向かってそんなセクハラ失言をしては駄目!』
「……セクハラで、失言……」
あまりにあんまりな言い様だった。俺は何か、そこまでの事をしでかしてしまったのだろうか……?
『そうよ……もう、ぐすっ…………鞘付の刀身を……男の人に触れさせたことなんて……初めてはセツ……ぅぅ……朴念仁……唐変木……伊呂波も機微も分からないくせに…………ぐすっ』
「…………」
思念が掠れすぎていて何を言っているのかはさっぱり分からないのだが、凄まじく罪悪感を覚えざるえない呟きであることはどうやら自明のことであるようだった。
というか、涙声が混じっている。波動として存在しているだけのはずなのだが、一体どこに、そんな細かい芸をする機関があるのだろうか?
『芸とか言うなッ!』
「……すまない」
こちらの思考が筒抜けな点は、もうこの際飲み込んでおこう。
「それよりも、だ……ルーシェ。それらしい波動は関知できないか?」
『……駄目ね。今の冗談の間にも一応このあたりの【波動力場】に接続を続けていたのだけど、まだ【魔王】の波動は関知できていないわ』
「そうか……しかし、この辺りにいる可能性は」
『ええ、高いでしょうね』
急激にトーンを、真剣なそれに変えた相棒が、今の〝容れ物〟に相応しい怜悧冷徹な思考の算木を弾く。
『如何にアレが総てを拒絶できる【炎】を従えているのだと言っても、人間の分際で【神】への接続もなしに、ザインを永遠と連続して使用できるわけがないのよ。そんな事をすれば脳神経は灼き切れてしまうし人格だって……その、瓦解してしまう。だからどこかで休息はしなくてはいけないし、その瞬間【魔王】の強すぎる波動は溢れ出す。私たちはそれを見逃さなければいい。アレだって、自滅するつもりはないでしょうしね』
ほんの一瞬、彼女は言い淀むようにしたが、すぐに普段の調子へと回帰した。そして分析の刃を俺に向ける。
『セツリ。あなたはその辺りをよくよく理解していなさい。私の力を使うとき、あなたには確かに覚悟がある。だけどその覚悟は、少しベクトルが違うわ』
「……ルーシェ」
『あなたは、どこか自分を軽んじている。状況を打開できるのなら、自分はどうなってもいいという愚かな意志が透けて見える。自滅どころか、自爆も辞さない何かがある』
「……俺は」
『私に宿る【奇蹟】――それを使えば、あなたは確かに最強の存在になれる。ヒトを超えて、ヒトを棄てて、【神】の領域の存在に為れる……でも、今のあなたはヒトよ。今のような無茶な戦い方ばかりしていれば、近いうちに、取り返しの付かないことになるわ』
「…………」
『勘違いをしないで。私はあなたを守るための鎧ではないの。私はあくまで、この姿の通りの【剣】。敵を断ち、あなたへ勝利を与えるもの』
「…………」
『だけど、今ある私の最大の力である【極位相の剣】――その振動……波長集束の剣である【紅紫】でも拡散の剣である【蒼紫】でも、結局あの【魔王】には届かなかった。なら、七色の内側にある小技では到底無理よ。そう、今のあなたでは【魔王】には勝てない。勝つための手段は一つ。私の力を総て解放するため、私と同じになること』
「…………」
『私は、あなたがそうなることを望んですらいる。それを、忘れては駄目。あなたがあなたの意志でアレを討ちたいように、私は私の責務として【魔王】を滅ぼさなければ為らないのだから』
「…………」
『そのために、私はあなたに、立ち塞がる敵の総てを殺させる』
「…………っ」
『あなたが望む望まないを別として、私が私のエゴで、あなたに殺戮を強制する』
「…………」
『あなたが泣き叫んでも、許しを請うても、贖いを求めても切望しても――私は正義の為の殺戮を辞めさせはしない。あなたは――それでも私を求める?』
それは、何時か聞いた言葉だった。
この苛烈な死天使は、いまになってまた、俺に戦う意志を問うていた。
運命に抗い、絶望に屈せず、己の倫理と良心すら枉げて戦うだけの覚悟が――悪魔を殺す覚悟が在るのかと、彼女は問うていた。
そうだ。
どれほど曲解し、綺麗な言葉で飾ろうとも、俺がいま敵を殺しているという事実は変わらない。
俺は大義名分を振りかざし悪魔とその信者を合法的に殺すもの――その罪は、いずれ裁かれなければ為らない。
彼女は俺を正義と呼ぶ。
その正義を信じるという。
だが、全ての始まりは俺の犯した罪がゆえ……今はまだ、そのときではないが、いずれは全てを、償わなければならない。
【彼女】を止め、誓約を果たしたときにこそ、俺はようやく死を認められるのだ――
「……いや」
それは、あまりに傲慢な考えだ。
甘すぎる考えだ。
俺の意志など関係ないのだ。何故なら総ては、
総ては、世界の選択なのだから。
「――許しは請わない。贖いも求めない。泣き叫びもせず、お前に責任を負わせるようなこともしない。罪は俺に在り、世界が俺の死を望めば死ぬ――それでも――俺はお前を求める。俺には、おまえの力が必要だ。俺は――おまえを切望する」
だから。
「だからルーシェ……これまでどおり、力を貸してくれ」
『…………そう』
剣に対し頭を下げるは滑稽か。その滑稽さゆえか、自ら問いかけをしながらも、ルーシェはいっそそっけないほどの声で肯定した。
『……それでいいわ。いまは、それで。……ん、まあ。いや、って言われたときは、少しだけ……』
「……何か言ったか?」
『は? いいえ、何も言っていないわ。幻聴でしょう? 耄碌をしたの?』
冷たくそう言われれば、返す言葉もなく。
「っと」
タイヤが跳ねた。軽トラックの荷台は衝撃を吸収せずに伝える。俺が僅かにバランスを崩し、
「――……」
そのタイミングで、少女が目を醒ました。
「…………」
薄く開いた瞳が、ポーと定まらない様子で俺を見上げ、
「…………♪」
無垢な笑みとともに、理解の色に染まる。少女はその笑みのまま俺の腕をギュッと抱き締め、逆の手で剣を少し持ち上げた。
「……ん!」
きちんと持っていた事を誇るかのようなその調子に、俺も思わず相好を崩す。空いていた手を伸ばし、少女の明るい色合いの髪を撫でる。少女は気持ちよさそうに目を細め、俺の腕を握る力を強めた。
『……これが、気に食わないと……言っているの……にっ』
「……!」
わなわなと勝手に剣が震えだし、驚いた少女が取り落としそうに為り、慌てて抱え直す。俺の服を掴んでいた手も離れ、少女は一層に、俺に寄り掛かるような体勢に為った。
『…………【神の見えざる手(アダム=スミス)】め……これが世に言うマッチポンプ……せめて、刀身さえ抜いてくれれば……!』
「どうするというのだ⁉」
何を物騒な事を言っているのだこの相棒は!
それ以上、少女にルーシェを預けておくことに危険を感じた俺は、丁重断ってに所有権を取り戻した。それでもやはり佩刀は困難であったので、片手持ちに肩へと乗せて、少女からも離れる。それほど広くはない軽トラックの荷台だ。俺に可能だったのはこの程度の気遣いだけであった。
『……逆さだけど、よしとする』
「ああ、そうしてくれ」
もはや投げるようにものを言って、俺は少女へと顔を向ける。
「……よく、眠れたか?」
「ん」
こくこくと少女は頷いて俺のほうへと這いよって来た。
「……どうした?」
柄にもない声を出せば、少女は俺の横に腰掛け、おずおずと伸ばした手で、ちょこんと俺の左腕の服を抓んだ。そうして、剣のほうを見て首を傾げる。
「ん?」
『な、なによ、この娘?』
「この行為を許してくれるかどうかを尋ねているのだろう」
『は、はぁ?』
「ん」
『…………』
相棒は暫く、測りかねたように沈黙していたが、やがて、
『ま、まぁ……このくらいは……許す』
不承不承と言った様子で、そう言った。それから、俺にしか聞こえない思念で、
『……やっぱりこの娘……恐怖で』
「ああ」
俺は首肯を返した。
苦い記憶と共に目を瞑る。
いま旅程を共にするこの少女に、数日前なにがあったのかを思い出した。
§§
十と数日前。
極東の国で【魔王】の潜伏場所について得た情報を元に、俺達は一路大陸へと渡った。もちろんそれは【ブレス】により海を渡ったという意味ではない。そんな長時間の飛航を【ブレス】は想定していないし、何より俺の体力や演算能力がもたない。
渡航には【教会】が運営している――今の時代に【教会】が運営していないものは商業のルートぐらいのものだろうが――船舶を頼った。
結果、海を渡ることに3日ほど掛かった。
本心としては飛行機を使い大陸西部まで一気に行きたいところだったのだが、【使徒】とはいえ【遇待】の俺には申請しても許可が下りなかったのだ。
ルーシェなど『本当に頭の固い連中だわ。この状況下、いつ【神】が襲撃を受けても不思議ではないというのに、その抑止力である私たちを蔑ろにして! まったく! 本来なら【司祭】クラスの待遇でも当たり前よ!』と、不快感を露わにしていたが、しかし現実はこうであるのだから仕方がない。
俺はなけなしの金銭で公共移動機関を梯子し、どうにか大陸の中部付近まで漕ぎ着けたのだった。
しかし、そこからは険しい山脈地帯が続き、バスや電車どころか乗り合い馬車のひとつも走ってはいなかった。
途方に暮れ「こうなれば本当に、ルーシェを装着して山を越えるしかないのではないか?」と、俺が真剣に悩み始めた頃――その悲鳴と爆発音は聞こえたのだった。
同時にルーシェが波動を探知。
俺は即座に【ブレス】を纏い急行した。
本来ならば【魔王】との関連が疑われでもしなければ俺の【神意代行】は許されない。しかしこの緊急時にいちいちお伺いを立てるわけにも行かず、また目的の場所が近いのならば【魔王】に関する何かもあるだろうと打算をつけての【装着】だったが――案の定、俺が駆けつけた先では蛮行が行われていた。
数台のトラック。
数人の商業者風の男達の前に、それはいた。
紫色の鋼――【ブレス】――【世界の敵】が、その力で暴虐の限りを尽くしていた。
トラックの一台が爆発四散、悲鳴と爆音がまた響く。
「――っ! 生存者を確認! 安否を最優先に行動する!」
『いいえ、セツリ。あなたの最優先事項はアクマを狩ることよ。履き違えないで』
「だが!」
『……アクマとの戦闘の結果、周囲で誰かが生き延びるとしても、それはどうでもいいことよ』
「……っ!」
その消極的な意見に乗るしかなかった。
分かっていた。
彼女にしても優先すべき【神意】。仮にも【行使者】である俺との狭間で揺れるしかない。どちらも立てることが出来ないのなら、言い訳のようなペテンを用いるしかないのだ。
だが、ならば。
あまり時間をかけてはいられない。
「――振動制御――【赤糸威――っっぁ⁉」
振動波を集束した一点集中の強化光線の刃で、まずは生存者とアクマの距離を開こうとして――俺は、それまでに感じたことのないような致命的な頭痛に襲われた。
「ぁ――っく――ぁがっ」
頭痛――頭痛と呼ぶことも憚れるような、激しい頭痛。
頭が締め付けられる、疼く、響く、割れる――そんなものじゃない!
まるで、まるでまるでまるで、脳味噌の全てを硫酸の酢漬けにされて不可視の生物に掻き食われているような――!!
感覚受容器の全てが脳髄に集中し激痛という激痛のみを感受しているような電流激痛痛み怒り不条理絶望痛い痛い痛いイタイタイイタイイタイタイ――毀レル!!
『セツリ!!』
「――っぁっ⁉」
俺が――あとほんの一瞬あれば崩壊したと確信できたとき、その冷たくも涼やかな声は響いた。
チカラの声だ。
相棒の声だ。
この三年の月日、共に在り続けた声だ。
その声が、脳髄に染みわたる。
その声が――俺の痛みを遠ざける。
「――――」
死ぬほどの痛みが、死んだほうがマシ程度に変わる。そのいつ失神してもおかしくないような痛みの中で、俺は状況の理解に努めた。少なくともルーシェの声はそれを可能にした。
経過した時間は一瞬だったらしい。
落下する己。
こちらに気が付き攻勢に移ろうとするアクマ。
炎上するトラック。
倒れ臥す人々。
そして――恐怖に震える一人の少女。
それはアクマと俺の射線上におり。
「ぉおおおおぉおおおおおおおおおおおっ!!」
俺は咆哮する!
痛みも何も置き去りにして、無視して、振り切って――あの日の【彼女】をダブらせて――
疾る! アクマが何らかの術式を発動! その前方に光――紫電を纏う球体『雷球⁉ 駄目セツリ、これに触れたら――』その助言に従う暇などなく、
「おおおおおおおおおおお!!!」
俺は少女の前に立ちはだかり、緊急防御として翼を前面に展開し――
烈光。
雷鳴。
衝撃。
「――――」
意識が、瞬間的に途絶した。
『――セツリ! セツリ! 目を醒ましなさい! この程度で、この程度で終わりなんて許されないのよっ!!』
「――――……ぅぅ、む」
叱咤。
泣き叫ぶような、そんな声に覚醒を促された。意識が復旧すると、拡大された感覚器が、周囲の状況を求めもしないのに伝えてくる。
場所が変わっていた。
車の荷台の上だった。
腰を降ろしていた。
「ここは……いや、なにが」
そこまで言ったところで、いまだ己がブレスを装着したままであることに気が付く。そして俺の傍らに一人の少女がいることにも。
「……ルーシェ」
『状況を説明しろというのでしょう?』
「ああ」
理由は、一つだった。
黒金に覆われた、俺の冷たい右手を、その少女は縋るように握っていた。その身体は、酷く震えているようだった。
『あなたは、この娘を助ける為に無茶をした。それは覚えている?』
「……おまえの制止を振り切ったのは済まなかったと思っている」
『そんなことはっ……いえ、いまはいいのよ。だけど、もう少し自分を省みるべきね。今、あなたが私を纏ったままだという事実を、もう少し重く捉えなさい』
「……それほどか」
自分の身体を見下ろした。見える範囲、装甲には細かい傷の他に目立つものは無いが、しかし。
ズキリ、と。
頭が疼いた。
「むぅっ」
『…………』
「……それで、どうなったのだ?」
俺は無言に為ってしまったルーシェに続きを促す。彼女は重い溜め息を付いた。
『……はぁー。あのアクマは撤退したわ。あなたがありえないことに1.21ジゴワットに耐え切ってしまったから』
痛烈な皮肉が来た。
『あれはあちら側の最大規模の【ザイン】でしょう。【バベルの摂理】がどの程度かは推し量るしかないけれど、空気中での放電現象なら、そうね精々があの辺りどまりでしょうね。それでも、十分あなたには死の可能性があった』
「……死は、常に覚悟している」
『あなたの死は、最悪でも私の目的達成と同時でなければならないのよ? 私の許可なく死ぬことは許さないわ』
「…………」
返す言葉もない。正にその通りだったからだ。
……気まずさを覚え、話を転調する。
「それで……何故俺はここに?」
そして、この少女は?
『…………あまり、気はすすまないのよね』
「なに?」
『独り言よ。あなたはあの状況下でアクマを撤退させ、この娘を守った。結果的にはこのキャラバンも守ったのよ』
商隊団?
『そう。【教会】公認の商隊だったらしいわ。だからこんなところにいて、だからあの悪魔にも狙われたんでしょうけど。その娘はこのキャラバンの隊長の一人娘という話しね。あなたは命の恩人と言うことで、今、用心棒という建前でこのキャラバンに混ぜてもらっている。あなたを休ませながら目的地に近づく方法が、これしかなかったのよ。肉体の急速修復には鎮静が一番だし……分かってる? もう一度言うけど、あなた、死にかけたのよ?』
「…………」
流石にここで、いつものことだと言うのは憚られた。
『い、言っておくけれどこれは、【ブレス】として【ユーザー】に対する当然の配慮をしているだけで、別に、心配をしたとか、そういうことではないのよ! 私が使命を達成する前にあなたに死なれては困るというそれだけで、えっと、そう、これはそう、職人が得物を案ずるようなもので…………ああーもう、私は何を言って!』
なにやら理解不能な理由で取り乱したルーシェから一端意識を切り、俺は少女の方を向く。
「…………!」
どうやら俺を見上げていたらしい少女と、仮面の上から視線があった。
明るい髪の色をした、まだ十になるかどうかと言った年頃の少女。
表情は子供特有の薄さがあるが、そこに嫌悪のようなものは見られない。この禍々しい死天使を見てなおだ。むしろそこには、何か、もっと眩しいものが。
「んっ!」
「……?」
少女が俺に飛びついてきた。抱きとめる。ゴツンと音がした。
「ん!」
少女は嬉しそうに頬を緩めた。震えは無く為っていた。
「……君は?」
名を尋ねようと声をかけると、少女は「ん! ……んん!」と、何かを言いたげに口をぱくつかせ、結局「ん…………」と、酷く困った顔で口を噤んでしまった。
「……どうした?」
しょんぼりとした少女に訳が分からず、尋ねる言葉を重ねていると、相棒が、
『ああ、セツリ、その娘はね』
こともなげに、こう言った。
『アクマに襲われたショックで――失語症に陥っているのよ』
§§
――あれから数日。俺はそのキャラバンに身を寄せる形で西方へと向かっていた。
その少女――マオは、ほぼ四六時中俺の側に居るようだった。父親の側に居なくてもいいのかと問えば、にっこりと笑って俺の手を取り、よく分からないので父親のほうへ問題はないのかと話しにいくと「いやぁ、我々が生きているのも迎日さんのおかげだし。娘が側にいるというなら、あなたの側ほど安全な場所もないでしょうから」などと言う言葉を賜り、俺は閉口するしかなかった。
というよりも、俺にとっての問題は、この数日間ずっと機嫌の悪い相棒の方である。
いや、それを機嫌が悪いと言っていいものなのかは分からない。そもそも【ブレス】の【OS】に、機嫌などというものがあるのかどうかさえ分からない。ただ分かっているのは、どうにも俺への風当たりが日増しになっているという事実だけで。
『……いい気なものね』
その日もまた、そうだった。
朝方。まだ小隊の皆が眠っている頃。俺は自身の少ない荷物をまとめていた。間も無く小隊の目指す街に着くと言うことであったから、俺もそろそろ別れ時であろうと準備をしていたのだ。マオは流石に父親のキャンプで眠っている。久方ぶりの、ルーシェとの時間であったのだが。
『あなた、自分が厄ネタだって、自覚があるの?』
飛んでくる言葉は、容赦のない痛烈な皮肉ばかり。
『忘れたわけではないでしょう? 私との契約。そしてあなたの罪。私達は、こうやって立ち止まっている時間はないのよ』
「……分かっている」
『そうね、分かってはいるのでしょうね』
正論に呻くような気分で上げた俺の回答は、しかし酷くあっさりと認められる。どころか、まったく予想だにしない調子の返答がきた。
『分かっていないのは、私なのよ……』
「……? 何を、言っているのだ?」
『何を、言いたいのかしらね?』
普段とは全く違う、どこか沈んだ物言い。奥歯に何かが挟まったようなもどかしさ。彼女らしさのない、ルーシェの言葉。
彼女は続ける。
『今の私が、何を言ったところで、それはきっと無為ね。だから、今から言う言葉も、戯言よ。聞き流してくれても構わない。でも、答えることができるなら、答えて』
「…………」
『……私は、あなたの剣。あなたの、チカラ。あなたの前に立つ敵を断ち、あなたの前に道を拓く刃。あなたは――そんな私を使い潰す気概がある?』
「使い、潰す?」
『そう。目的の達成の為ならば、私を犠牲にする覚悟が、あなたには、ある?』
「…………」
それは、それは。
これまでずっと、共に歩いてきた相棒を。
もはや、友として認識しつつあるこの剣を。
この女性を殺してでも、【彼女】を止める意志が在るのかという問いかけ。
つまりは、
「己のエゴために……それだけの犠牲を払えるかと言うことか……」
果たしてそれが可能なのか。
【世界の敵】を討つことすら【ルーシェ】の呪戒誓約がなければ果たせないような半端モノに、全てを犠牲にすることができるのか?
――否。
「できる」
そう、できる。
そう答えなければ為らないのだ。でなければ、今日まで犠牲にしてきた全てが無為となる。俺の都合の為だけに殺してきた全ての存在が、本当に無価値に為ってしまう。意味が、消滅する。意義が、消滅する。それは――許されることではない。
「ルーシェ。俺はおまえを使い潰せる。おまえの全てを使い【魔王】を討つ」
『…………』
決然とした言葉を吐く、少なくとも表面上は。それは決意であり、宣言であり、自己に対する言い訳であり。しかし必ず成し遂げなければ為らないことだった。
ルーシェは、
『……そう』
本当に小さく、聞き取れるかどうかすらも怪しいほどの声量でそう言って、そうして沈黙した。
◎◎
「ん~! んんー!!」
言葉を失ったままの少女が、それでも精一杯の感情を表そうと小さな手を大きく振る。別れを惜しみ、同時に今日までを感謝する無垢な感情がそこに在った。
俺は隊列のリーダであったマオの父親に再度頭を下げる。彼もまた、男臭い笑みを浮かべ俺へと手を振った。
小隊は買い付けと販売の二つの理由でこの街――アセンバード(現地の言葉で〝泉〟を意味するらしい)を訪れ、今はその両方の理由を終えてまた旅立つところだった。マオはほんの少しだけ、俺が隊列から離れる事を渋ったが、しかし特に駄々も捏ねず聞き分けよく、それでも別れを惜しんでくれた。その隊のみながそうだった。数日間の旅程を共にしただけではあったが、それなりに思うところが両者にあった。しかし出会いと別れは人の世の常。互いに再会を願いながら、俺達は別れる。
『……手を振ってあげなさい。そのくらいには、身体は回復しているでしょう?』
一体如何なる心境の変化が在ったのか、そんな事を言い出すルーシェに、しかし俺は従い腕を振る。
少女は更に大きく振り替えし、また珍しく、俺の口元に笑みが宿る。
『そう、そうやって、やっぱりあなたには、普通の生活の方がよく似合う。私はあなたの決意と覚悟に賛同して、今力を貸している。だけど、あなたは本来こう言った事をするべき人間ではない。あなたは、真っ当な世界に生きているべきよ』
「それでも、俺は為すべき事を成し遂げる。おまえにも、必ず報いる。だから、力を貸してくれ」
『……口ばかり上手くなって』
拗ねたような調子の彼女に、俺は笑みのまま向き直る。小さくなったキャラバンに背を向け、さて、ではどうやってここから更に西方へ向かうかと思考を始めたときだった。
遠くで、爆発音を――知っている音を――聞いた。
「――っ⁉」
直感。それであっただろう、俺はその場で後方を振り返った。
「――!」
燃えていた。遠い場所だ。真っ直ぐにずっと先。キャラバンが消えて行った方角で、黒煙が上がっていた。
「ルーシェ!」
咄嗟に叫ぶ。走り出す。そのまま刃を抜刀する。
「『許し給え生命を穢す冒涜を。
憎み給え神に刃を剥く同胞を。
憐れみ給え、我が悪討つ誓約を!
我、切望を以って希う!
降臨せよ(アドベンド)――【アンキシウス】!』」
誓約の祝詞――瞬間に剣から漆黒の粒子が溢れ出す。
量子圧縮から開放された装甲は、指示式に乗って俺の全身を取り囲む。それはあたかも雲霞に覆われる緑樹。だが、後に現れるのは硬質なる鎧。指先から爪先まで、一気に強化スーツが覆う。これが俺に超人の力を与え、【ブレス】自体とのアクセスを可能にするインターフェースだ。その上を黒金が覆っていく。鋭角に連ねる騎士鎧に真紅のラインが疾走し、最後にはフルヘルムが形成される。三つの飾り角に魔眼を持ち、漆黒の髪をなびかせながら、そして闇のような翼が羽ばたき、俺は宙に舞った。
あとはただ、加速した。
「――――っ!」
思わずに息を呑む。これよりも酷いものなら、三年前にもっと見た。だが、俺はその惨状に息を呑んだ。
呑んで、怒りに吼えた!
怒りに、呑まれた。
「きぃさぁぁまぁぁぁっ!!」
そこには奴がいた。
のたうつ瘴気のような、紫の鋼の【アクマ】!
その前方には、破壊されたトラックが――倒れ臥す幾人もの人が、マオが!
「――――――――!!」
瞬間的に沸騰し、もはやそれ以外の感情のなくなった思考の為すままに、俺は急降下する! 大上段に構えた剣を、その紫の【アクマ】に振り下ろす!!
『セツリ⁉』
怒り!
憤怒の剣が空間を灼いて奔る!
だが、相対するように抜刀した紫の【アクマ】に、俺の運剣はいとも容易く読まれ、巻き払われる!
巻き払われ制御を失った剣は流れ、引き摺られるような俺の身体と共に地面へと激突した。激突の衝撃で意識が瞬間的に明滅。大量の土砂が巻き上がる。
『セツリ! 落ち着きなさい!』
相棒の冷静な、しかし逸る声。
「――――」
だが俺の脳髄の沸騰は収まらない。
「がぁっ!」
土砂を跳ね飛ばしながら起立! 眼前に悪魔を捕らえ地を蹴る! 肩にかける刃と、全身を地面スレスレまで前傾、対敵たるアクマがそれにあわせるよう刃を掲げた瞬間に翼を起動!
「っ」
アクマの驚きが伝わる。俺は跳躍し、剣を起点に空中で一回転! そのまま担いでいた剣を一刀、繰り出す!
しかし、
「っ! ぁ!」
気勢一発! 紫のアクマはそれに応じて見せ、再び俺の剣を跳ね上げる! だが、それこそが俺の待ち望んだ瞬間だった! アクマは剣を跳ね上げ、俺の剣線はずれている。
しかしそれが初めから意志どおりであったのなら――続く剣理は構築されていた。
「――――」
流れる剣を基点に、更に半回転。剣を背に背負い、【加速器】を回す!
極位相の剣!
大凡この宇宙上に、それを阻めるものなど――唯一の例外を除いて――存在しない!
これはそれほどまでに完成され、畢竟に至った剣技!
『――セ』
俺は【奇蹟】を起こすべく、
『――セツ』
その術式を脳裏に浮かべ、
『――セツリ』
起動した――瞬間、
『セツリ――だめぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええッ!!』
「オシレーション・コン……※※ッ⁉」
灼き切れた。
何の冗談も、衒いもなく、そう思った。いや、或いはそう思うことすら出来なかったのかも知れない。俺の脳髄は白化し――発火した。
「※ĢGG※※痛※※NæĢ℣∄※※ЁЩЭ※怒※※ЯюΞ※※沸ヸヹÆ℣∄∭――!⁉」
言語化不可能な嵐が駆け巡る。
――痛みだ。
そう理解するまでに途方も無い時間がかかったようでいて、しかし俺の身体はいまだ空中にあり、その貫く激痛が己全身の統制を破壊するまでの時間――ああ、今地に堕ちた、でも衝撃も、痛みも感じない。何故って――激痛!
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!!」
今度は声とも音ともならない絶叫を上げた。
装甲が強制的に解除される。
『しっかりして! セツリ!! まだ敵がそこに!! いま生身を曝したら、あなたが死んじゃう!!』
「――――」
もはや言葉の意味が分からない。いな、何が分からない? 分からないとはなんだ? わからないわからないわから――
『セツリ!』
――イや、これは分かる。
何もかもが分からないが、この声だけは――分かる。
『セツリ!』
ルーシェの声。
『セツリィッ!』
俺が、地獄の道連れにした少女の声だ。
「――――」
沸いた。
脳が沸騰した。
怒りか。
否、己への憎悪。
統制が――戻る。
「ッ――ぐっ!!」
自分に向けて振り下ろされた刃を、回転して回避する。はっきり言ってそれがまず奇蹟だったに違いない。【ブレス】に強化された【アクマ】の剣をかわせたというのは、間違いなく天文学的な幸運の上に立脚する奇蹟だったのだ。そして、その転がった先に――
『セツリ!』
「……ああ」
もう一段階の奇蹟。
拾い上げるそれは剣。豪奢な装飾の施された儀式剣。
相棒――ルーシェ。
「装着を……可能か」
『それ以前に、あなた、頭は?』
「…………」
詰まる結論は、状況の絶望。
『いえ、【ザイン】の使用さえなければ、戦えるわ』
「決定打に欠けるな」
そんな事を言い合いながら、視線を前に戻す。激情は、腹腔の奥で滾るが、御せないほどではなくなっていた。脳味噌を掻き乱す激痛は、やはりいつかの如く死ぬほどから死んだほうがましになっていた。
……その理由は、後から考えよう。幸い、ルーシェには分かっているらしい。
「――――」
眼前には、いまそれがいる。
紫のブレス――【世界の敵】。
携える剣には、紫電が巻く。油断は見えない。俺の激変に、戸惑いすらなく、冷徹な思考の眼差しが、装甲を貫いて俺へと降り注ぐ。
「――【PROVIDENCE of BABEL】?」
「……何?」
【バベルの摂理】?
『――セツリ、今は無駄な事を考えないで! 戦うことだけを、生き残ることだけを考えて!』
「――ッ!」
そうだ、今はそんな余計な事を――余計な、事?
甦る。
炎上するトラック。
倒れ臥す人々。
マオ。
「――ルーシェ……?」
自身の目で確認するだけの勇気が、俺には不足していた。いや、言い訳は在る。目前の【アクマ】から視線を切れば、それは即決で死だ。だから、俺は相棒にそれを任せ、
「……大丈夫よ。まだみんな、辛うじて息がある」
「――――」
その言葉に、崩れ落ちそうな安堵を得る。次の瞬間には、目前の敵との戦闘に、意識が一極化される。
「――――」
「――――」
アクマは俺を見ている。構えはない。ただその一刀には必殺の力が乗り、油断はない。
対する俺は生身。この非力な身で、奴の装甲を貫くことは適わない。一瞬の時間さえあれば最強者たる【死天使】と変じることは可能であるが、その一瞬の時間を許すほど、目前の悪魔は温くはないだろう。一歩の元に距離を詰め、一刀の元に俺を切り伏せることが可能なはずだ。
奇蹟は二度も起こらない。
俺は死ぬ。
つまり、この瞬間に俺の運命は決した。
――ここまでか。
そんな諦観すら過ぎる。
酷い頭痛は俺の心を容易く手折ろうとする。
『――――』
しかし、その心を支えるものがいた。諦めるという選択肢はそもそも存在しない。この少女を、こんな地獄に引きずり込み、その力を無理矢理なまでに利用している俺に、諦めるなどという惰弱は許されない。俺に在るのはたったひとつの使命――己の罪の贖罪。
【世界の敵】を討つ。
その一事を成し遂げる為には、この状況の打開が必要だった。もちろん、それには時間をかけられない。マオの事もある。先ほどから治まりもしない絶え間ないこの苦痛もある。
「――――」
『――――』
目前のアクマを打ち破る方法は一つ。生身を持って悪魔に挑む、その英雄のごとき振る舞いを成し遂げる、たった一つの奇蹟。
『――――』
俺の考えを読み取ったのだろう。ルーシェが言葉も無く準備を始める。
【神の息吹】はその行使者たるものが装着して初めて力を奮える。しかしその最初期のオリジナルであるルーシェは、僅かであれば己の力のみで【奇蹟】を行使することが可能なのだ。いま彼女が為しているのは振動の集束――直前に【加速器】を回していたのが上手く働いた。流石に熱崩壊に導くほどの振動を集束させることは出来ないが、一振りの間であれば、アダマンタイト基の装甲を切り裂くほどの振動を発することも可能だった。
故に、あとは己の腕次第。
「――――」
「――――」
しかし、その一刀は彼方の速度には遠く及ばず。されど此方にはそれ以外の技がなく。
「――――」
「――――」
だから――それは一方的な緊張。俺のみが持つ緊張。その緊張の中、
「――っ」
悪魔はただ、泰然と刃を振り上げ、
「『――――!』」
俺と相棒がその刹那に死を覚悟し、されども諦めの一念すらなく、
『――セツリ、私は、あなたを――』
その声は幻聴だったのか、閃く刃。抜刀する俺。それよりも遥かに速く俺の頭部を叩き割ろうと迫る刃――終わったか――奇妙な感覚と、
ガキンッ!
鋼鉄が鋼鉄を喰む音を聴いた。
「――――っ⁉」
そして、その【銀】は現れる。
「――敵性体№063【アービゴル】……罪状〝神民に対する暴行・殺人。並びに【神】に対する反逆〟」
それは鎧だった。
漆黒や紫とは違う。洗練に洗練を重ね、なお無骨に仕上げたような、絶対銀色の【神意代行者】。
中世の西洋騎士が纏う様なフルメイトに、武者が着る甲冑を合わせたような外見の奇異な鎧。その色は恐ろしいほどに輝かしい銀。翼は二対四枚。流線型の戦闘機よりは、人型に近い――オリジナルのような姿! 何よりも特徴的なのはその紋章。一対の竜角が延びるそのヘルムに、緋を持って刻まれる天秤と喇叭を吹く天使のレリーフ。
「――――⁉」
それを認めて、初めてアクマに動揺が走った。
俺とて、驚愕を隠すことは出来なかった。
何故なら、そんなものを抱く【天使】は、この世にたった一人しかいないからだ!
「罪状明白」
銀の天使が俺の頭を――俺を真っ二つに切り裂くはずだった剣を阻んだ大剣を、ゆっくりと片手で持ち上げる。
「⁉」
それに抗うようアクマも両の腕に力を入れるが、阻むことすら出来ない。それどころかとうとう押し切られ、形勢が逆転する!
「!」
だが、アクマもされるままではなかった。
いま何が起きているか、自分が対峙しているのかが何者かを悟ったのだ。即座に【ザイン】を発動し、超高圧の電流を剣を通して銀の天使に叩きつける! それは致死性の一撃! 剣を組んでいる以上、電気の速度が超高速である以上回避は不可能であり!
だが、
「愚かな」
その全身を高圧電流に襲われたはずの銀は、しかし何一つ動じる様子もなく、高速で伸ばした手でアクマの喉を掴む!
「ッ⁉ ぐっ⁉」
「愚かな悪魔だ。神の加護を受けし私に、そのような邪悪なチカラが通じるとでも思っているのかね? アクマよ、私の【奇蹟】が如何なるものかを、とくと知るがいい」
そうして、彼の全身に銀色の清廉なる光が燈る。
それは噂に聴くフォトンブラッドの最新形【霊血】。熱量光子とは比較にならぬエネルギーを全身に満たす大出力触媒! それがオリハルコン基の装甲全体へと充満し!
「【奇蹟】――【絶対正義】!」
「――――」
その瞬間に起きた【奇蹟】を、俺は正確には理解することが出来なかった。それでも何が起きたかが分かったのは、単に俺が知識として知っていたからだ。
銀の天使。
正義の体現者。
本物の【神意代行者】。
別名――聖騎士。
その存在が発動したであろう【奇蹟】は、紫のアクマの装甲を量子分解した。装甲の下より出でたのはアッシュグレイの髪をした壮年長身の男性であった。
「――、――――」
その男性は、何かを口にしようとして、
「ガ、ギュッ!」
……喀血し、事切れた。
「――その命、神に還しなさい」
冷厳なる銀の響き。
戦慄と。
慄然と。
俺はその全てを見届け、何か言うべき言葉を捜し、見つけられず、そして――いつの間にか銀色の騎士が俺を見下ろしていることにやっと気が付いた。
パラディンは、
「……【特務使徒】――迎日刹理。及び、天使【暁】――アンキシウス」
俺の、俺達の名を呼んで、
「貴官らには、今日より私の指揮下に入ってもらう。拒否権はない」
感情の読めない声でそう言って、
「しかし――神の使徒同志、友好は結んでおこう」
一転、鋼鉄の手が差し出され、
「私は【上級使徒】――御剣真理。よろしく」
装甲が散った。
「――――」
俺はそのときに為って始めて、俺達の救い主がそうである事を知った。
「――――」
数多の悪魔と味方にすら恐れられる聖騎士――御剣真理は、
『……女性?』
まだうら若い女性だった。
彼女は、銀の粒子の中で俺へと手を差し出し、微笑んでいた。