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第一章 復讐のエクスキューズ

 ――世界は平和である。

 ほんの十数年前までは狂人の戯言としかみなされなかったその言葉も、今や現実となった。

 もっとも、但し書きは付く。

「少なくとも、この世に【神】がいる限りは」

 それが最も肝要で、何よりも要点だった。

 【神がシハイする世界(ガン・ミシュパト)】と呼ばれるシステムの構築以来、人が人を無秩序に殺す世は終焉を告げた。いま、世界にあるのは〝正義の為の殺戮〟だけである。

 【正義】。

 その敵は即ち【悪】であり。

 殺戮とは即ち【悪】の殲滅。

 そして【悪】とは……大凡(おおよそ)、ヒトではない。

 それは【世界の(アクマ)】と呼ばれ、正義の【使徒】によって、滅ぼされる運命(サダメ)にある。

 人と人の争いの時代は終わりを告げた。

 それは平和な時代の幕開けだった。

 しかし――

 時に俺は思うのだ。

 その【平和】の先に、いったいなにがあるのかと。

 もしかすれば、その先にポッカリと口を空けているのは、楽園などではなく闇黒なのではないのかと。

 ――平和とはいったい何なのか。

 その答えは、この立場になっても、未だ、出ていない。


◎◎


「…………」

 本来、特例的に【教会】の命令系統の外に置かれている俺――迎日(むこう)刹理(せつり)には、たったひとつの場合を除いて【使徒】としての活動は許可されていない。

 【使徒】の振る舞いが許されないとは、つまり【世界の(アクマ)】に対する【神の息吹(ブレス)】の行使が許されないということだ。

 そうして同時に、被害者からの依頼を受け付けることもまた、許されてはいないと言うことだった。

「お願いです、何卒(なにとぞ)、何卒……ッ」

 ……だから、今俺の手を取り、縋りつき、涙を流し懇願する老女の切実なる願いを、俺は承諾することが出来ないのだった。

『……なら、早くそう言うべきでしょう? 分かっていないの? 私たちには、あまり猶予がないのよ?』

 帯剣している刃から伝わってくる、鈴を鳴らしたような声に対し、俺は返答を保留して老女に言葉をかける。

「……詳しく、お話を伺いましょう」

「……っ⁉」

 驚愕であろうか、彼女は顔を跳ね上げ、見開いた瞳でまじまじと俺を見詰めた。

 皺深い――恐らくその実年齢よりもいっそうに齢を重ねて見える容貌に、俺は深い苦悩と、果て土のない憎悪を見た。

「……或いは、こんな自分でも、お役に立てる可能性があります」

「――――」

 老女は、何度も頷いた。

 ガクガクと頷いた。

 その瞳からは次々に新たな涙が零れていた。

 しかし、清らかなはずのそれも、どうしてか俺の目には濁って映り。

『……お人好しのことね、ホント』

 そんな、あまりに痛烈な皮肉に打たれながらも、俺は老女の話しに耳を傾けたのだった。


§§


 ――それは、もう3年も前のことなのです。

 孫娘は、その父親と共に海へと水遊びに出かけ……生きては帰ってきませんなんだ。

 父親は、この婆の息子は、全身を引き裂かれて帰ってまいりました。生皮を剥がれ、関節という関節の全てを逆に折られ、(なます)()りの様にされて、戻ってまいりました。

 孫娘は、もっと悲惨でした。

 目を抉られ――その目は父親に食わせ――耳を削がれ、手も足も引き千切られ、そして、そして……ああ、14にもならない子供だったのですぞ⁉ なのに、なのに……っ!

 ……孫娘は犯され、そのあとで身体を縦に二つに裂かれ……壊れた玩具のようにして、婆の元へ戻ってまいりました。

 すべては、あの【濃緑色の悪魔】の所業。悪鬼羅刹の――悪魔の所業にございます……。

 婆は、何度も何度も……お上に悪魔祓いを訴え出ました。しかし返答は、本当に悪魔の仕業かは解らないという……あまりに、あまりに無慈悲なお言葉で……!

 それより3年。

 まだ3年もう3年! 婆は二人の怨念と共に、今日まで恥を忍んで生き延びてまいりましたッ!

 もはや婆の頼る瀬はあなた様のみにございますっ。

 どうか――どうかこの婆と、息子と、孫の無念をっ。

 どうか。

 どうか……何卒!


§§


 ……そもそも、俺がこの街――阿座宿(アザスキ)を訪れた理由は、酷く薄弱なものであった。

 前回の敗北の結果――最早数えることも愚かしいほどに重ねに重ね続けている敗北だが――俺はとうとう、【魔王(ベリアル)】に繋がる情報の全てを失ってしまったのだ。

【切望者】のブレスは修復中であるが、【彼女】の存在を知りえたのならば、俺は如何なる場合であれ即応しなければならない。

 しかし、現状で決定的な情報はなく、仕方なく不確定な目撃談を辿って【彼女】の行方を追跡していた。その結果行き付いたのが、この極東列島の最果ての街だった。

 【彼女】は数年前に、この近辺を拠点としていた可能性がある……そんな生糸の如く薄弱極まりない情報であれ(何せ目撃情報が【赤い悪魔】を見た、の一点だ)、藁にも縋らなければ浮く瀬も無い俺達には信じるより他はなく、このような辺境の街までやってきたのだ。

 その辺境への、渡航の許可が下りるまでには随分な時を要した。

 ……が、無論文句は言えない。

 渡航自体、【教会】の認可が必要であり、【神】の認証が必要なのが今の時代だ。

 長距離渡航に必要な燃料資源や時間を、あたら粗末に扱うべきではないというのが【教会】の建前。

 そうして実際のところは、起こりえないとは言われているが、起こりうる可能性が極めて高い、宗教的人種的に対立する人々の余計ないさかいを未然に防ぐため、という教会の本音が透けている。

 流石にその程度は、末端の俺にも分かることだ。十年もの歳月をかけて築いた【平和】だ。早々に壊したくはあるまいし、また人類はそれほど愚かでもない。

 ……勿論それは、今ある平和が真に平和であるとするならば、だが。

『不遜な考えね? 私が一応でも【神】の端末である事を忘れたの?』

「……そうではない。ただ、俺にはよく、分からないのだ」

 人々に争いが無く、命が愚かな戦争や紛争で消えていくことなどない今の時代の素晴らしさは――この【平和】は、こんな俺にもよく分かる。

 だが、しかし、それで戦いそのものが消えてなくなったわけではない。

 【使徒】は【アクマ】と戦わなければ為らない。

 それが義務であるが故に。

『仕方が無いでしょう。【世界の敵】はみな、【神】を破壊しようと目論んでいるわ。同時に、ただ【平和】を甘受している罪なき民草も滅ぶべきだと思っている。そんな危険思想と――その思想を実現させてしまう力は、さっさと消滅させてしまうべきよ。此の世から、永遠にね』

 …………。

『セツリ、勘違いをしては駄目。アレはもう、ヒトじゃない』

「……分かっている」

 そんなことは、分かっている。

 もうどうしようもないほどに痛感している。あのような行いを為すものは、あのような絶望を振りまくものは、もはや――


「もはやアレは――【悪魔】だ」


 分かって、いるのだ。

『……そう。ならいいの。あなたが自分の罪を忘れず【悪】を討つ意志を忘れていないのなら、私は私に宿る力のすべてをあなたに委ねてあげる……でも、だけれどね、セツリ』

 そこまでは弄うような響きすらあった相棒の声が、急激にトーンを落とす。

絶望、でこそないが、思い浮かべた情景は、恐らく俺と同じであっただろう。その情景は、数週間前のあまりに手痛い敗北のはずだった。

『――今のあなたでは、アレを止めることすらできない。精々アレは、あなたを〝路傍の石〟程度にしか捉えていない』

「そうして、俺とアレの戦力差もまた、そのあたりと言ったところか」

『ええ、残念なことにね』

「…………」

 思わず押し黙る。

 脳裏に浮かぶのは【魔王】の従える闇黒の炎――【DE(ディー)FLAME(フレイム)】。

「……あの【奇蹟】は、一体なんなのだ?」

 最早幾度目とも知れない、そんな不毛な問い掛け。頼りにする相棒からも、結局帰ってくるのは毎度同じ、戸惑うような苦々しい回答だった。

『……ごめんなさい。私にも分からないわ……本来【ベリアル】が発現するはずだった【奇蹟(ザイン)】は引斥(いんせき)制御よ。引き合う力と離れようとする力。反発と吸着。磁石のS極とN極のような力……【ベリアル】も私と同じ最初期の(オリジナル)、その有する力は【神】に近しい。でも、あんなに出鱈目のはずがない』

 それには首肯を返すしかなかった。

 この【ルーシェ】と呼ばれる相棒が使役する力【振動制御】――理論的にはあらゆる粒子の振動を自由にすることが可能だというが、結果、その超能を用いるのが人間である以上、それは不可能ごとに成り下がっている。

 【神の息吹(ブレス)】。

 今でこそ【天使】・【悪魔】と()が別れてはいるが、その大本は同じものだ。

 【神】の神格――多元型量子コンピューターの制御下、演算処理下に在って、始めて十全万全に行使することが可能になる理外の力。

 ありていに言ってしまえば【神】の手足であるもの――それが【ブレス】だ。

 来たるべき、冗談ではない【神】による世界の改変に使用されるはずだった【奇蹟】。

 そんなものをヒトの脳みそで……しかも全開で行使すれば――愉快な言葉遊びが待っているだけだ。

『全壊ね……でも、そうなるはずなのよ。ヒトの能力の限界――【バベルの摂理】がある以上、起こりうるすべては相対性理論から特殊相対性理論までの物理法則に支配され制限を受ける。だから私の力も【極位相の剣】止まりで、【ベリアル】の力もまた……精々が重力レンズの生成がやっとのはず』

 それでもそれは、光を捻じ曲げ、超質量を無から生むと言う常識外の力だ。

 しかしアレの力は、それすらも超越している。

『常識外といえばそれこそが常識外。埒外で法外で理解の外よ。少なくとも、私にはこの世界の物理法則に従順であるような可愛げのあるものには見えないわ。幾ら重力と質量、そしてエネルギーが切っても切れない関係にあるからと言って、あらゆる全てを拒絶できる炎なんて――反則よ』

「…………」

 何処か拗ねたような彼女の言葉には全くの同感だったが、それを認めたところで俺がアレを討たねば為らないという一事に変わりはない。

「あれだけの大殺戮を許してしまったのだ。俺がその命を絶たねばならぬ。俺が、やらねばならぬのだッ……」

 未だ網膜に灼き付き剥がれぬヴィジョン。

 (くら)い閃光に焼かれる【荒野】。残された不毛の大地。草木一本すらなく……しかしその大地の色は――赤い、赤い血の色で。

「……アレは、もはやヒトではない。狂ったか。(こわ)れたか。でなければ――悪魔に憑かれたか」

『【世界の敵】よ。そう思いなさい。そうして、何があっても、殺しなさい』

「……ああ」

『そのためなら、私はすべての力をあなたに与える。でも現実問題、それだけでは駄目。少なくとも、今のあなたでは駄目』

「…………」

 結局、一周して議論はそこへと戻る。

 俺でなければ為らないのに……俺では駄目なのだ。躊躇してしまう俺では、如何にルーシェの絶対に近い力を奮えても――アレを殺し切れない。

「だが……アレを殺すのは俺だ。俺が、殺さなければならない。せめて」

 そうせめて、アレが生まれた理由が、俺のエゴにあったというのなら……それがアレの、せめてもの救いとなるのなら……。

『……セツリ。アレは、私ですら及ばないような力を奮う』

 相棒が、苦々しく言う。

『デフォルトでそれが出来たわけがない。考えられるのは【同化】に際して変異したという可能性。――私が、言いたいことが分かる?』

「…………ああ」

 俺は、頷いた。

 何を言われているのかは、よくよく理解できた。だが。

「だが、それは最後の切り札だ。いや、切るべきではない、最悪の札だ」

一歩間違えれば――俺自身がアレと同じに為る。

『…………』

 ルーシェの僅かな沈黙。だがそれは次の言葉で理性的に否定される。

『その可能性はある。だけど、私は信じる。あなたが持つその【正義】が、必ず【悪】に打ち勝つと』

「……ルーシェ」

 俺の、驚きとも自責の綯交(ないま)ぜになった嘆きとも付かない声を聞き、それでも姿を見せない相棒は、ほんの少しだけ、微笑んだようだった。



 憎しみに燃える老女の話を聞き、奇妙なまでに協力的な近隣に住まう人々に話を聞き、渋る町の役人の統括に話を聞き、俺は大凡、何を為すべきかを理解し、決定した。

 結局あったのは不確実な情報――3年前より時折、赤い飛行物体をこの辺りで見たというそれ。俺が【使徒】として動くには薄弱極まりない理由だが……しかしそれはいつものことだ。

 ルーシェなど『やっぱりね』と一言言った切り、俺に何かを言うことをやめた。呆れたか、無駄を悟ったのだろう。

 なに、と俺は自らを嗤う。

 迎日刹理はただ頭が固く。

 ――何より、外道を()いてはいないというだけなのだ。

 俺は俺自身が正義だとは思わない。

 だが、悪には悪の。

 外道には外道の、正当なる裁きがあるべきなのだと……ただそう信じているだけなのである

 そこに例外はあってはならない。

あらゆるものが受け入れるべき、世界の選択であるのだから――


◎◎


「――押し通る」


 巧妙に擬装されていた入口――絶海に面する岸壁からその内部へと突入し、勢いのまま見張り二人を叩き伏せる。

 強行突入に際し、堅い地面に無様に転るが、どうでもいい。天然石の床にぶつかる痛みを対価だと堪えながら、回転で勢いを殺し、洞穴内部で立ち上がる。

「何者だテメェ!」

 今時山賊でも言わないだろう、そんな三文にも値しない定型句を無視し、どうやら騒ぎを聞きつけ集ってきたらしい10人ほどの男女の群れを観察する。

「……【魔宴(サバト)】か? いや、精神を支配する類の香の匂いは感じない。呪術的なサブリミナルが壁に彫られているわけでもない。ならばこれは」

『……分かっていてわざと言っているでしょう? ここにいるのはすべて【世界の敵】候補よ』

「…………」

 真理に根ざすルーシェの言葉に、咄嗟には反証が浮かばない。いや、熟考しても浮かぶまい。俺は神学者ではないのだ。そして、あまり信じたくないことだが、どうやら今ここにいるものたちは皆、【アクマ】の崇拝者らしい。

 ……だが、そうだというのならば。

「――自分は【使徒】、迎日刹理。【教会】の許可を受け、我意(がい)が為に【世界の敵】を討つもの」

 名乗りを上げた刹那、それまでは敵意だけだった場に殺意が充満する。

 刺し殺すような、射殺すような、しかし凡庸な殺気。そこに集うすべてのものが、俺を殺すべき対象として認識したようだった。

 ……さて、結果だけを見れば、俺は愚かしい真似をしたことに為る……いや、全てを考慮しても俺の行いは愚かだ。

 これから為そうとしていることを加味すれば、よりいっそうにそうである。熟慮も咀嚼をしても、その結論を翻すことは出来ないだろう。

 しかし、俺が【使徒】たる事を宣言したことによって生じた変化は、敵意が殺意に据え変わったというと一点だけではなかった。

「――退()きなさい。皆さん、早くここから、去りなさい」

 洞穴の奥より、澄んだ声が響いた。

 悪意というものの感じられない、どちらかと言えば慈愛のようなものすら混じる声。

 そうしてその声の主の意図は、効果覿面に現れる。

「――――!」

 声を聴いた途端、そこにいたすべての男女が行動した。それまでの、俺への殺意などなかったもののようにして、一瞬顔を見合わせただけで、瞬時にこちらへ背を向ける。そうしてそのまま、洞窟の奥へと向かって走り出す。

 逃走。

 逃げる彼らは、何の疑問すら抱いてはいないようだった。

『なっ、逃げた⁉ くっ、セツリ! 何をぼさっとしているの! はやく追いなさい! そして――』

「そして、どうするというのですか? まさか――殺すというのですか?」

 それは、とても静かな声だった。

 夜の湖畔のように、静謐とした声だった。

「……あなたは?」

 俺は、闇の中よりゆっくりと現れたその人物に、問いを投げる。

 人影は、女性の形を執った。

 たおやかな髪と、世界中の慈悲を集めたように澄んだ瞳が特徴的な女性。

 彼女は、濃い緑色のローブを身につけ、右腕に一体型となった連発式短小弓銃(リボルバー・ボー・ガン)を装備し、それを俺に、狙うとも知れず向けていた。

「何故、わざわざあなたは名乗りをあげたのですか、迎日さん?」

 女性は、俺の問いには答えず、逆に質問を投げかけてきた。

『セツリ!』

 相棒の叱咤が飛ぶ。答えるなという意味だろう。それはある種当然の忠告とも言えた。何せ、【アクマ】は言葉でヒトを惑わすものなのだから。

「……自分は」

 しかし。

「無益な殺生を」

 俺には答えなければならない理由が。

「好みません」

 義務があった。

『セツリ!』

 叫ぶ相棒と、

「…………」

 俺の言葉を聞いた瞬間、酷く嫌悪したような表情を浮かべた女性。

 帰ってくるのは、相棒の制止ではなく、女性の蔑み。

「……【教会】の【使徒】が……人殺しを厭いますか? ふ、ふふ……この〝魔女狩り〟風情がッ!!」

「――――」

 魔女狩り。

 それは【使徒】に対する最大の蔑称。神を狂信し、己たちの欲望のためだけに罪なき無辜の命を奪った、中世の異端審問官を呼ぶ悪罵の言葉。

 その【世界の(アクマ)】は口にする。俺が常々疑問に思い続けてきた真実を。

「人殺しは、嫌だと……今の【神】に従わない全てを【悪】と! 【敵】と断じ! そうしてその口を封じるために、見せしめとするためだけにっ……戦う力すらないものを殺してきた【教会】がそれを言うのですかッ!!」

「――――」

 その通り。それはあまりに、その通り。

 【神がシハイする世界(ガン・ミシュパト)】と呼ばれるシステムの構築以来、人が人を無秩序に殺す世界は終焉を告げた。いま世界にあるのは〝正義の為の殺戮〟だけだ。

 その敵は即ち【悪】であり。

 殺戮とは即ち【悪】の殲滅。

 そして【悪】とは、大凡、ヒトではない。

 それは【世界の(アクマ)】と呼ばれ、正義の【使徒】によって、滅ぼされる運命にある。

 人と人の争いの時代は終わりを告げた。

 それは平和な時代の幕開けだった。

 しかし――そこにも殺戮はある。

 【使徒】は【アクマ】を狩る。

 【アクマ】と――それを敬うもの全てを、狩る。

 【悪】と断じて殺戮する!

「それが、今の世界の在り様です! 大多数の人間が平和な世界を生きる為に、抗うもの全てを犠牲とする――それが【神】の、()り方なのでしょうっ⁉」

 そうだ。

 それが世界の選択だ。

 多数の平和のためならば、少数すべては見殺しにすべし。

 【神】とは、量子コンピューターで処理される70億人類の総意――などではない。

 それは多数決の原理。

 多くあるものの意見が通り、少なきものたちの意見は黙殺される。

 結果、相対的には平和な世界が生まれる。

 それが世界の選択。

「多くのものは、それを甘受する」

「ですが! 私達はそんなものを認めるわけにはいかないのです!」

 女性は叫ぶ。

 元々付いてもいなかったボウ・ガンの照準が揺れ、出鱈目な方向を指す。

 目元には涙すら浮かび――

それが俺には、清らかに見えた。

「何故皆が、幸福になってはいけないのですかっ? どうして小さきものたちが、蔑ろにされねばならないのですかっ? 平和とは、生けとし生けるもの全てが、平等に授かるべきものでしょうっ⁉」

 だから!

 女性は、叫んだ。

「だから私は戦うのです! 私は、戦うのです! 今ある偽りの【神】を討ち! 新たなる真に等しく正しい【神】を顕現させるために! そのためにならば――本当の【悪魔】にだって為ってみせます!!」

 そう叫ぶと同時に、女性は唐突にボウ・ガンの引き金を引いた。

『セツリ⁉』

 響いた声は、叱咤であったか、叱責であったか――気に留める余裕もなく、俺はその場に伏せ――

「あの偽善者共に、人の皮を被った獣たちに何を吹き込まれたのかは知りません! しかしその言葉を信じ、私と、小さきものたちの前に立ちはだかると言うのなら、私は――あなたを殺します!!」

 強い言葉と共に、女性はボウ・ガンを胸に抱いた。


 そして――悪魔との契約を結ぶ。


「善の善なるを以って善を為すはそれ即ち独善! 我は偽善の禍ツ風に挑む翼! 祈りに応えよ風の精霊王――【ベルゼバウ】!!」

 鍵言(キーワード)と同時に凄まじい瘴気を伴う風が吹き荒れ、女性を包み込む――それは濃緑色の鎧と為って洞窟を飛び出す!

「…………」

 見送り、立ち上がり、

『……セツリ』

 相棒の言葉に、今度こそ頷き……俺は、左腰の剣を抜剣する。

 一つの決意とともに――

 我等は謳う。


「『許し給え生命(いのち)を穢す冒涜を。

 憎み給え神に刃を剥く同胞(はらから)を。

 憐れみ給え、我が悪討つ誓約を。

 我、切望を以って(こいねが)う!

 降臨せよ(アドベンド)――【アンキシウス】!』」


 俺の身を、漆黒の光が(よろ)う。


*§§


 ――来る!

 全身を【アクマ】の力で覆い、蝿と人体を融合させた(やじり)の如き濃緑色の異形と化した久住(くずみ)ガラシャは、【神の息吹】の発動を探知した。

 一拍遅れて『友よ、恐ろしきものが来る』と、酷くざらついた声の【OS(ベルゼブブ)】が危険を告げる。無感動であることの方が多いこのOSが、そんな感情を露わにしたことに驚きもしたが、しかしそれすら3年前からは珍しくもないことだと納得し、すぐに旋回に入る。

 (むし)(はね)を模した翼を打ち鳴らし、流体的な設計が施された強化装甲【ベルゼバウ】の異能を駆使して最速で回旋する。

 ――見えた。

 正面に、それを捕らえる。

 それは漆黒の装甲に、機械の翼を広げた異形の天使の姿であった。

 その天使は、通常の【ブレス】ではありえないほどに痩身だった。

 肉眼であれば、ライダースーツの上にプロテクターを当てただけにすら見えるその装甲は、しかし【ベルゼバウ】の強化視覚を通してみれば、これ以上もないほどに頑強な黒金であることが明らかに為る。

 そのプロテクターもスーツも、全てはアダマンタイト基の単分子様結晶による合金装甲。光波外被合金(ライトウェーブ・アダマンタイト)

 その全身を這い回る、まるで血管のような赤いラインは熱量光子(フォトン・ブラッド)を循環させるための正に血管。しかしそれは、【ベルゼバウ】に置いても適応されている初期型のブレスの基本構造。

 だから、異常であったのはその頭部であった。

 【ベルゼバウ】の装甲で分かるとおり、通常【ブレスの】――それが試験作である【悪魔】であっても発展形である【天使】であっても、高機動・高速戦闘を主眼に据える限り――そのフォルムは流線型となるはずだ。

 大きく見ればそれは人型であっても、実際の形状としては戦闘機に近い。

従って頭部装甲もキャノピーにスクロール系モノ・アイが埋め込まれている形が通常である。でなければ、高速戦闘中に空気抵抗をもろに受け、頭部には著しい加重が懸り――場合によっては損壊してしまう。

 だが、その漆黒の【天使】は違った。

 形状は、正に翼を持つ人。

 ――天使。

 その頭部には、上部頭頂、左耳上部、右耳上部に総計三対の飾り角が相貌部を貫いて後方へと走っており、飾り角からは長い長い漆黒の髪が伸びている。また角の前面部には亀裂が走り、その亀裂からはまるで血色をしたモノ・アイが一つの角に一つずつ――つまり総計三つの魔眼が存在し、此方を捉えていた。

 ガラシャを絶句させるにあたり、それはあまりに十分すぎる異形であった。

 あまりに――どう考えても戦闘には不適切で、狂った芸術家が仕上げたような敵騎の機影。

 それはあまりに禍々しく。

 ――そして、なんと神々しい……。

 芸術(アート)

 そのブレスに対し、芸術の言葉は正しすぎた。

『――友よ、観賞の猶予は無い。間も無く敵機は迎撃可能領域に入る。武器を構えよ!』

 ――っ!

 【悪魔】の声が彼女の停止していた思考を動き出させる。

「きょ、距離を算出! 最適狙撃ポイントを予測!」

『彼我距離3600! ポイント到達まで05、04、03――』

 ガラシャは右腕をその漆黒へと向ける。

 右腕――小型のリボルバー・ボウ・ガンだったはずのそれは――全長130センチメートルもの凶悪なる矢がつがえられた単発式重型矢銃(ヘビィ・ボウ・ガン)と化していた。

 その長大な矢が、

『――02、01、00!』のカウントダウンとともに射出される!

「死んでください魔女狩り!」

 射出と同時に、一瞬で音速を超えたそれは、轟音を立てて漆黒を射ぬかんと飛翔し――

「――振動制御(オシレーション・コントロール)――【橙花(リムーバル)】!」

 命中し、矢が致命的な部位を貫いたかのように見えた瞬間、その漆黒の姿が(たわ)み、すり抜けた。

「――え?」

 ガラシャは目を疑った。当然だった。まさに今捉えたはずの漆黒がブレたのだ。撃墜を確信した手応えなどなく、それどころか、眼前に!

「くぅっ⁉」

 翅を振り急降下! 墜落と同義ほどの急角度で真っ逆さまに落ちていく彼女の聴覚に、ビゥン! と、己が発するものとは明らかに異なる風切音が届く。

走った戦慄に、思わずモノ・アイを回せば、一瞬前まで彼女の首が在った場所を、銀のブロードソードが抜けていくところだった。

 ――な、なにこれ?

 恐怖と驚愕に、思わず自問する彼女に応えたのは、やはり【悪魔】だった。

『――振動制御による位相の歪曲と加速……擬似的な空間転移と推察。冷静に距離をとるべし』

「なっ⁉」

 しかしその解答は、彼女を絶句させるに余りあった。

 漆黒と濃緑色の機影がいったん離れ旋回、海側から陸側へ、再び互いを迎撃正面に捕らえ飛航する。

 ガラシャの精神が復旧。

「――そ、それでは距離をとっても同じです!」

『否。粒子の振動に干渉するなどという埒外の【奇蹟(ザイン)】――それほど連発できるとは思われない。距離を取り射撃を続ければ、最終的に此方の勝利を得る事が可能』

「ですが、私の【飛蝿の(フライ・フライ・フライ)】も連発は」

『ならば此方もまた【ザイン】を行使すればよい』

「…………」

 至極至当の結論であると、怜悧な計算の上に発言しているのだろう、そのざらついた声の悪魔は言う。

 ガラシャは、


 ――……私は。

 ――……私は、どうしてもみなが幸せに生きる世界を実現したい。その思想はあの方もお認めくださった! なら、迷うことは無い。

 ――すべては、正しき真為る神を呼ぶために!


 覚悟を決める。

「ベルゼブブ! 【ザイン】を使います!」

『友よ、承認する――祝詞(のりと)を唱えよ』

 ガラシャは一度大きく息を吸い、決意とともに鍵言を叫ぶ!

「瘴気を翼に腐肉をアギトに! 我が無限の同胞よ――(あらわ)()でよ!」

 その言葉(コマンド)と同時に、世界は雑音に包まれる。

                            ――ヴーン、ヴーン。

 幾つもの耳障りな音が世界のあらゆる場所から放たれ、無限に唱和し、顕現する。

                       ――ヴーンヴーンヴーンヴーン。

 羽音は連なり、【ベルゼバウ】の右腕が泡立ち、何か蟠りが生じる。

              ――ヴーンヴーンヴーンヴーンヴーンヴーンヴーン!

 それはやがて蠢き始め、終には無数の毒蝿となって彼女の腕を覆いつくした!

 ――否!

 それはただの蝿などではなかった。

 それをつぶさに観察すれば明らかと為る。

 複数の関節を持つドリル染みた6対の足、剃刀の如く尖った翅、如何なるも噛み切ってしまいそうな鋼鉄の(あご)

 それは【アクマ】を形成する鋼を元に生み出された人造の生命――鋼の兵器であった!

 非生命より生命を創造するとは――神をも恐れぬ悪魔の所業!

「ぅぅぅううぐぅっ!」

 苦しげに呻く彼女の脳神経系は、今【奇蹟】の行使による演算の過負荷によって焼ききれるような痛みと衝撃が走っていた。視界が霞むほどの頭痛と眩暈。しかしその中でも、彼女の意志は透徹される。

「ぅぅ――【物体使役(モーション・コントロール)】! 自己に所有権があるものだけという【バベルの摂理】がありましても、これ全てが弾丸と為れば――どれほどの【天使】とて!」

 苦痛に耐えながらも、彼女に芽生えるのは絶対の自信。

 今日までその力を操り、守るべき者たちを守り通してきたという自負が、彼女に絶対の自信を漲らせる。

『友よ、撃て! 勝機は今にあり!』

「はいベルゼブブ!」

 彼女は、右腕を振り被り「征きなさァいッ!!」振り下ろす!

 ブーウ、ブブブブブブブブブブブブブブブブウブブブブブブ――ッ!!!

 音速を超えて――魔生物の散弾は放たれた!

 それは先ほど放たれた鋼鉄の矢と同じ――否、それ以上の超速度で飛翔し、再び漆黒を捉える!

「――【橙花】!」

 漆黒が振動制御を発動! その姿が大きく撓み――ブレて――

「巡れ同胞!」

 ――ガラシャの激声、その声は――

「――っ⁉」

 なんと言うことか、【奇蹟】を生じさせる!

 擬似空間転移により回避したはずの魔生物の弾丸は、その場で旋回し、全く同速度で漆黒へと再び襲い掛かったのだ!

「ぐっ!!」

 漆黒が高軌道によってそれを回避しようと努める! だが明らかに漆黒を上回る速度で、鋼鉄の蝿の群れは天使に襲い掛かるのだった!

 【魔弾】。

 それは絶対を以って(うた)われる伝説。

 狙ったエモノは逃れることは適わず、その弾丸にただ射抜かれるのみ。

 そう、【ベルゼバウ】の顕す【奇蹟】は、【生命の創造】などではなく【魔弾】だったのだ!

 そしてその理は、漆黒と言えども例外ではなかった。

「ぐ、がァァァッッ⁉」

 迫る無限量の牙が、遂に漆黒の左脚部を射止める!

 着弾と同時に装甲が砕け散り、大量の血飛沫が噴出! カチャカチャと鳴る蝿の牙が血を啜り、ぐちゃぐちゃと音立てて肉を食む。

 ただでさえ空力設計のなっていない身体が、完全なアンバランスさを示し、その機動性能を著しく低下させる! 性能の一切が減殺される。

 ――勝てる!

 だからこのとき、ガラシャに生じた確信を、誰も慢心と罵ることは出来なかった。

 空に戦いの場を求めた【ブレス】同士の戦闘は、その(あらわ)す【ザイン】のみによって左右されるものではない。基礎の能力である旋回性、加速能力、装甲の堅牢さ、何よりも装着者の技量が有無を言う。

 その前者三つの能力に置いて、現状【ベルゼバウ】は確実に【漆黒】を優越していた。そして今、【ザイン】までもが見事に嵌り、漆黒の窮地は際立ったものと為る。

 だから、このとき【ベルゼバウ】は思考を停止してしまった。更なる戦術の構築を放棄し、現状のままでの勝利を確信した。慢心ではない。だが、それは紛れもない侮りであり――遂には装着者の技巧を忘却させるに至る。

「ぐぅぅぅぅううぅぅっぉおおおおぉっ!!!」

 漆黒が絞り出すような咆哮を上げる!

 その全身に走る血管内を【熱量光子】が疾走! 膨大量のエネルギーが(ほとばし)る! 翼が大きくはためき、その機体が直上へと急上昇を始めた!

「――振動制御――【青嵐】――【拡散機(スプレッサー)】!」

 ――く、苦し紛れ?

 ガラシャがそう判断したのも無理からぬことだった。

 高空への、凶悪な追跡者を引き連れながら、その制御困難の機体を持って成し遂げた上昇は、確かに賞賛の価値があっただろう。

 だが、アンキシウスは天上に登りつめ、しかしいまだ【魔弾】に追尾されているという事実は何も変わらない! 既に上り詰めるだけ上り詰めたアンキシウスに逃げ場は無く、在るのはただ、敗北者の失墜のみ――

「オォォオオオォォォオオオオオオオォオオォォォッ!!」

 だが、そこで彼は卓越の対応をやって見せた。

 無限量の弾丸が迫る中、その窮状に於いて漆黒――【切望者(アンキシウス)】は、絶対の信頼を置く刃に活路を見出す!

「――振動制御(オシレーション・コントロール)――【極位相の(ピリオド)】!」

『――柒曜超越、窮界を統べる――!』

 ガッ。

 詠唱とともにアンキシウスの長髪が空間に波紋のように広がり、三対の飾り角に刻まれた(みっ)つの魔眼が音を立てて見開かれる!

 【極位相の剣】――それはルーシェの【奇蹟】を迎日摂理が昇華した(つい)の秘剣。

 幅広のブロードソードを納刀し、鞘を左手で、柄を右手で握る。

【フォトンブラッド】が疾走し、漆黒がベクトルを変え急降下! 同時に演算を続けられていた【極位相の剣】が発現する!


「――【ピリオド】――共振剣(レソナンス)――【蒼紫(ヴァイオレッド)】!!」


 ――怒轟轟(ドゴォォォォ)ゥ!!


 それは絶対の大奔流!

 拡散エネルギーの大瀑布!

 抜刀された剣は空間全てに超振動の不可視の刃――あらゆるを透過する純粋エネルギーの、波涛(はとう)の波動をぶちまける!!

 そのあまりに凄まじい剣技(ブレード・アーツ)は、迫った無限量の金属蝿すべてを無に帰したのみでは飽きたらず、さらに効果範囲を拡大。

 遂には【ベルゼバウ】すら呑み込んで大爆発を発生させる!

「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――ッ!!?」

『ぐあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――ッ!!?』

 そして――蝿の精霊王は失墜する。

 彼女たちは忘れていたのだ。

 【神の息吹】の装着者の技量は、時に絶対窮地すら覆し、【奇蹟】すら改変して見せる事を。


『あらゆる事象を終結させる私の終焉符(ピリオド)――その前で、無事にいられるものなどありはしない』


 ルーシェの勝ち誇るような声が、塵芥に至るまで殲滅された青空に虚しく反響した。


§§ 


「――ご婦人」

 俺は【ブレス】を纏ったまま、地に降り立って対敵へと話しかけた。左足は損壊していたが、内部ほどの損傷ではないため取り合わない。

 視線の先、荒涼たる岸壁に、その存在は力を失って倒れ臥していた。

 風の精霊王――ベルゼバウ。

 しかしその悪魔の鎧は砕け、あの洞窟で見た女性の身体と顔が一部覗いている。

「ご婦人」

 再び声をかけると、意識を取り戻したらしい彼女が俺を見た。

「――っ!」

 向けられたのは、凄まじいまでの憎悪の眼光。

 そうして、一体どこにそれだけの力が残っていたというのか――広範囲に於ける過振動の衝撃波、エネルギー自体と振動のオーヴァーロードによる沸騰という二段構えの必滅技を喰らい、かつ高空からの落下。如何に堅牢な【ブレス】とはいえ、生きていることのほうが不思議であるのに――しかし、彼女は立ち上がろうとする。

 無論、立ち上がれるわけも無く、半身を起こそうとして手を付けばそれは折れ、ズシャリと音を立てて崩れ落ちる。

 それでも彼女の憎悪は砕けはしない。装填されてもいないボウ・ガンを俺に向ける。

「ッッ!!」

 悔しさか、憎しみか、怨嗟か――毅然と彼女は、俺を睨みつける。その目尻には涙の粒が浮かび、歯は食いしばられ、全身は小刻みな痙攣を繰り返していた。

 溢れ出すおびただしい量の血液。

 ひと目見て解る致命傷だった。

 そんな彼女に向かって俺は、

「ご婦人、一つ、お尋ねしたいことがあるのです」

 酷く上の立場からものを言う。

 見降(みおろ)すように。

 見下(みくだ)すように。

「あなたは、仰った。『あの偽善者』と……そう仰られた」

「…………」

「その真意を聞きたい」

「…………」

 女性は、俺をジッと見つめた後、一度視線を下げ、歯噛みをして、掠れた声で言った。

「……私は、私を頼る人を、助けることが出来ませんでした」

「…………」

 目を閉じる。

【ブレス】により感覚が大幅に拡張されている以上、光学式の感覚器など閉じても開けても変わりは無いが、しかしあまりに苦い思いは、そんな無意味な行動を俺に強要した。

 大凡、分かっていたことではあった……しかし。

「……今の世界に不満を持つものは、いるのです」

 女性が言う。

 酷く悲しげな表情で。聖女も()くやという慈哀の顔で。

「【神】というシステムは、確かに世界を平和にしました。戦争などというものはこの世から失せ、日々の食事に飢えるものも、殆んどいなくなりました。望めば労働は許され、それなりに豊かな生活を認められます。多くのものは世界に満足し、【神】を賛美して、日々を生きているのでしょう……ですが」

 砕けた仮面の内側から、女性の澄んだ色の瞳が俺を見る。その瞳に映るのは、漆黒の天使。酷く禍々しく、まるで【悪魔】のように不吉な死天使。

「……この、無気力はなんでしょうか?」

「…………」

「人は日々を生きています。そこには平和があり、明日が約束された世界があります――ですが、では何故こうも、人は無気力なのでしょう?」

「…………」

「労働はします。日々の糧を得るために働いています。なにかあれば笑いもします。ですが、何故誰も、怒ったり泣いたり、しないのでしょうか?」

「…………」

「怒りも、悲しみも、それが無い世界は、ひょっとすれば素晴らしいものなのかも知れません。ですが、それではあまりに人間味が無い……笑みだって、皆どこか虚ろで、まるで『そこは笑うべきところだから笑っている』とでもいうような、台本どおりの、マニュアルどおりの、通り一遍等で起伏の無い感情しか、今を生きる誰もが、持っていないように思うのです」

「…………」

「それはきっと【神】が全ての人間の意思を集計し統合しようと試みているからでしょう。世界を平和にするため、争いやいざこざなど発生することなどありえないように、70億通りの意思を一つにして、たった一つの正しい意思を生み出そうとしているからでしょう」

「…………」

「人格の統合。集合的唯意識。【神】とは、自分であり、他人であり、あらゆる他者が自分と同じだという……たった一つの意思に支配される群体としての人類……その雛形。絶対優勢の、一己限りの多数決」

「…………」

「私は……私の愛する全てが、皆同じものに為ってしまうなんてこと、耐えられません。一人の独裁者による都合のいい意識の書き換えなんて、とても、とても……!」

「…………」

「――だから、戦うのです! そんな何もかもを、打ち砕くために!」

 言い切り、女性は血を吐く。

「うぅぅっ!」

 その吐いた血の、残りをすべて嚥下して、まるでそれすら力に変える様にして、そしてとうとう、女性は立ち上がる。

 ガクガクと震える全身で、それでも立つ。

 濃緑色の鎧は砕けている。とてもではないが飛航など不可能で、戦う力などあるわけもなく――しかしそれでも彼女は、俺と相対する。

「何より私は!」

 叫ぶ。

「私は、【神】を受け入れないから殺すなどという不自由の世界を認めません! そんな理由で、多数決で何の罪もない女の子とその父親をあのような目に遭わせる獣たちを許せない!」

『……セツリ』

 これ以上は聞くべきではない。

これより語られることに対し、迎日刹理という人間が得をするような事象は一欠けらもありはしない。

 悪魔の言葉になど耳を貸さず、今すぐに【神意】を代行すべきなのだ。そんな意志を含んだ相棒の忠告だった。

 分かっている。そんなことは分かっているのだ。だけど、だけれど。

「……二人は、あなたと意志を同じくしたものでしたか?」

 聞くべきでない事を、尋ねるべきではない事を、それでも俺は、求め。

 そして解答を聞く。

 あまりにやりきれないそれと――あまりに許されない己の罪状を。

 悪魔は、叫んだ。

「あの二人は! ただ自由を求めただけです! なのに、なのに寄って集って……あんな、あんな! ――許されるというのですか⁉ 海の向こうに行きたかったという子供の夢を、ただ叶える為に私を頼ったというそれだけの理由で、陵辱され殺されるなんて! 悪魔と一緒にいたというだけで――【神】を享受しているだけのどこにでもいる人々が獣のような振る舞いをしてそれが許されて――無実の彼女たちが許されないということが⁉」

「…………ッ!」

 臆測としては、分かっていたことだった。奇妙なまでに住民は協力がよく、司法はまるで苦虫でも噛んでいるかのように口を鎖す。

 事実を隠したいから饒舌で、真実を言いたくないから口を鎖す。

 何のことはない。

 神も天使も……まして悪魔など引き合いに出すまでもなく――此の世はどこまでも、醜悪だ

 それがヒトの本性。

 平和な世に於ける唯一の殺戮。

 悪魔とそれに与するものは――殺されても文句は言えない。

「迎日さん……そう言いましたね……あなたは、何故【神】に従うのですか?」

 女性は俺を睨み付けながら根源的な問いを放つ。

 だがその問いに、俺は答えることが出来ない。幸いに、女性の言葉はただの独白のようなもので、すぐに続く言葉がその問いを無にしたが。

 だが。

「私は、いまの【神】を認めるわけにはいかないのです。あの方も、だから戦っている」

 あの方?

「赤き、炎の化身……【魔王】織守(おりかみ)朔夜(さくや)

「なッ……⁉」

 そこで、俺はその名を聞いた。聴けるなどとは露にも思っていなかった名前を、僥倖にも耳にし、震える。

 織守朔夜。

 今世界を滅ぼし、【神】を討たんとする【世界の敵】筆頭であり【魔王】。そして何よりも、俺が愛した女性――

「いまは遠き西の地で活動されるあの方も、今の世界を否定するために戦っている! 古き誤つ神を討ち、新しく正しき【神】によって世界を(ただ)すために! そうして、私もまたそれに賛同するのです。こんな間違った世界など、認めるわけにはいかないのです! いと小さきもの全てが蔑ろにされる世界を、私が変える!!」

 鬼気迫る形相を浮かべ、その女性はボウ・ガンに矢をつがえる。

 既に【ブレス】の力など失せ、あるのはひ弱な女性自身の力だけであるだろうに、しかし十数キロはあるであろう矢が弓につがえられ、引き絞られて俺を向き……そのまま、その場に落ちる。

「――っぁぁ!」

 全身から力が失せ、崩れ落ち、それでも女性は、歯を食いしばって俺を憎悪の視線で射抜く。

 守るべきもののために。

 ――あの老女と同じ眼差しで。

 無気力な人々の中で、ただひとり憎悪に狂っていた彼女と同じ瞳で、俺を視る。

「――ッ」

 そう、この女性は理解しているのだ。

 俺がいまだ【神の息吹】の装甲を解かない理由を。

 何故人を二人も殺しておいて近隣の住人の誰一人も咎を受ける事無く、老女だけが何も知らず憎悪に狂い、全てが悪魔の所為になったのかを。

「――――」

 俺は、

「――振動制御――」

 刃を、抜刀し背に回す。

「――【極位相の剣】――」

 死命を制する。

 生殺与奪の権を握る。

 そのボロボロの装甲では、この【奇蹟(ザイン)】を受けきることは出来ない。女性にもそれが理解できている。

 しかし女性は逃げない。

 自分が逃げればどうなるかが分かっているのだ。

 もし彼女が逃げ、俺を殺すことが出来なければ――俺は、あの洞窟にいたすべての人間を殺さなければならない……。

『そう、セツリ。【悪】はすべて滅びなければ為らない。私はそのための鎧。そのための剣。この世に存在する一切の邪悪を滅ぼすための力』

 それが契約。

 【魔王】に挑むために俺が求めた、あまりに禍々しい絶対の武力。

 ……決断は下している。

 【ルーシェ】を纏ったその瞬間から。

 漆黒の【神の息吹(ブレス)】は、目前の【悪】を滅ぼすまでは止まらないのだ……!

「――ピリオド――共振剣」

 それは呪戒。

 それは誓約。

 破ること叶わぬ絶対の掟。

 【神】の定めた――摂理。

 天使の力を(つか)うなら、必ず悪を殺すべし。

「――――」

 見る。

 この後の殺戮を知り、もはや適わぬ身体で、それでも俺を止めるため立ち上がろうとする気高き【聖女】の姿を。

 震える手は土を掴み、萎えた足が(くう)を掻く。

 その眼前で、俺は術式の構築を終える。あとはただ――振り降ろすのみ。

「……あなたは、私を殺すのですか?」

「……一身上の、都合により」

「あなたは……【神】のために、とは、言わないの……ですね?」

「…………」

「なら……これも、ひとつの――」

 辞世の句は終わる。俺に応える言葉はない。

『セツリ』

 冷たいその声に、心の中だけで頷き、


共振剣(レソナンス)――【紅紫(アブセレッド)】……!!」


 俺は剣を、振り降ろした。


◎◎


 血塗れの手。

 殺せば問答無用で討ち棄てられる死体の全てを、偽善の感傷で埋葬する。

 名のない墓標を打ち立てながら、俺は茜に染まる空を見る。

 名も知らぬ婦人よ。あなたは正しき神を呼ぶと言った。

 だが、その正しいとはなんなのか。

 恐らく誰にも分かりはしない。なにが正しく、なにがまことで、一体何が正義であるのか。

 誰もそれを知りはしない。

 だから、俺はせめて今を守りたい。

 今を生きる人々が。

 せめて慎ましくも幸福に生きられるよう。

 それが偽善であると知りながら。

 殺戮に手を染める自身がいつか裁かれるその日を待ちながら。

 誰かの明日のために。

 俺は、【使徒】の本分を真っ当する


 それが、世界ではない――俺の選択なのだから。


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