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暁のアンキシウス  作者: 雪車町地蔵


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第五章 暁のアンキシウス

 ――そこは漆黒の闇だった。

 手を伸ばしても何にも触れない、何処を見ても見通せない、そんな闇。

 その闇の中で、俺は上下左右の感覚を失いながら、漂っていた。

 いや、歩いていた。

 どこかへと向かおうとしていた。

 何も見えない闇の中で、か細く何かが聴こえている。

 それは、哀しげにすすり泣く声だった。

 歩く。

 その声だけを頼りに、闇の中を歩き続ける。

 やがて俺の視界に、その光は届いた。

 ――少女であった。

 まだ年端も行かない、純白の衣装を着た、黒髪の長い少女だった。

 少女はその場にうずくまり、声に出して泣いていた。

 始めて見る少女だった。

「どうして」

 俺は、漠然と声をかける。

「どうして、泣いているのだ」

 彼女は、涙交じりに答えた。

「私が、役立たずだから」

 ……役立たず。

 それはつまり、誰かのためにならなかったと、何かを為し得なかったと、そういう意味だろうか。

 そう問えば、少女はこくりと頷いた。

 清らかな涙が、緋色の瞳から絶え間なくこぼれ落ちていた。

「私は、助けてあげなくちゃいけなかったのに」

 彼女は、深い悔恨と共に言葉を吐く。

 悔しげに、哀しげに、切なげに。

「……あの人の地獄は、私の父が始めてしまった。そうして、私がいたから、続いてしまった」

 だからせめて、あの人を助けるものになりたかったのだと、少女は言う。

「あの人は剣を望んだ。身を守る鎧よりも、困難を切り開く刃を望んだ。だから私は、そうあろうと誓った」

 己を冷徹に研ぎ澄まし。

 鋼の意志を鍛造し。

 どこまでも悪を憎む心を製錬した。

「そうして私は、一振りの刃として打ち上がった。悪を斬ることに特化した、邪悪だけを、この世すべての悪を断つ剣として」

 だけれど――と。

 少女は悔しそうに、涙を流す。

 その薄い唇を噛み締めて、血をにじませながら、後悔の涙を流す。

 慚愧する。

「私があの人に与えたのは、地獄への(しるべ)でしかなかった……」

 その男は、殺したのだという。

 彼女の呪いに突き動かされるままに。

 その誓約の通りに多くの悪を、それに従う者を、斬って斬って、斬り続けたのだという。

 彼は殺したのだ。

 ヒトを殺したのだ。

 悪を断つ剣は、人を斬る剣でもあったのだ。

「それに、私は最も断つべき悪を、一度も斬り捨てることが出来なかった」

 それは、魔王と呼ばれるもの。

 絶対にして無敵。

 強靭にして不敗。

 狂った真紅にして、最強の悪魔。

 それを打ち滅ぼすことが、ついぞ叶わなかったのだと、彼女は泣く。

「それがあの人の宿願だったのに。唯一、あの人を救ってあげられる贖罪の方法だったのに。それだけが、あの人の切望だったのに!」

 自分は、それを叶えてやることすら出来なかった。

 それが悔しく、それが辛く、故に惨めなのだと、彼女は泣く。

「私は迷ってしまった。あの人と一つになることを。あの人を喰らって、あの人を使い潰して魔王を討つことを……私は、迷ってしまった」

 躊躇ったことが、無理矢理にでも強制しなかったことが、己の犯した最大の失策であったのだと、彼女は語る。

 ……しかし、それは罪なのであろうか?

 誰かを想い、その身を案じ、最後まで共にいたことが、何かの罪にあたるのであろうか。

 ――当たる訳がない。

 そうであろうはずがない。

 もし、そんなものが【正義】の基準であるのなら、俺は正義などいらないと思った。

 【神】も、世界の選択も、それを正しいとするなら不要だと思った。

 ――否。

 間違っている者は、別にいるのだ。

 そう、誤ってしまったものは、彼女ではないのである。

 狂う事もなく、正気で謀略を巡らせ、更に誤ってしまった者が、また別にいるのである。

 それを自覚した瞬間、驚くほど簡単に、その名は俺の口から滑り出た。

「〝ルーシェ〟」

「――――」

 少女が、その全身をビクリと震わせる。

 見覚えのない少女。

 こぼれそうな緋色の瞳に、赤い頬をした可憐なその少女のことを、俺は、何故だか相棒だと認識できた。

「おまえは、間違ってなどいない」

 間違っていたのは俺だ。

 そうして、アレたちであるのだ。

「ルーシェ。それを、確かめにゆこう」

「――え?」

「言ったはずだぞ?」

 戸惑う相棒に、俺は、微かに微笑みを返し、手を差し伸べた。


「これは――俺たちがやり遂げねばならぬことなのだ」


◎◎


 瞳を開ける。

 風切り音とともに、目の前に一本の大剣(グレート・ソード)を降ってきた。

 薄汚れ、聖なる輝きを失った剣。

 大地に突き立つ剣の銘は【聖剣ゼント】。

『む……無念、也――』

 彼は、いまわの際にそう言った。

 俺は応える。

「……後は、任せろ」

 立ちあがる。

 ギリギリと関節は痛み、一動作ごとに死にたくなるような苦痛が全身を席巻する。

 血反吐は絶えず、また熱量光子の損耗は激しい。

 それでも、俺は立った。

 理由は単純であった。

『セツリ……』

 俺を支えてくれるものがいた。

 アンキシウスとは一人の名ではない。

 俺と、相棒が揃って、始めてそうであるのだ。

 故に、飛べる。

 片翼では飛べなくとも。

 比翼の鳥は、寄り添い飛ぶのだ。

 紛い物の、翼などには頼らずに!

「やってくれ、ルーシェ」

「……本当に、いいの?」

「後悔は、もう、やり尽した。それに」

「それに?」

「――おまえとなら、何処までだって()ける」

「――――ッ」

 バカッ!

 彼女はそう怒鳴って、それから俺に、真の名を教えてくれた。

 俺は、その名と共に、飛翔する。


「ゆこう――【ルシフェル】!」


 俺達は一つになった。


§§


「――ん?」

 純銀の聖騎士をこの世から完全に消滅させ、一息を吐くあたしの眼下で、それは立ち上がった。

 ゆっくりと、ふらつきながら立ち上がり、しかし、確かに一歩を踏む。

 その傍らには、あの忌まわしい女の剣が落ちていた。

「……これは」

 眺めている間に、それは様相を変えた。

 漆黒のブレス。

 細く細く研ぎ澄まされた、その刃金の肉が、光を纏う。

 尋常ではないその様。

 (つど)うたのは、青い燐光であった。

 儚い、いまにも消え入りそうな光が、無数にそれへと集まっていく。

 それを見て、あたしの口でベリアルが言った。

『ついに、目覚めたか』

「……じゃあ、あれが」

 あたしは――にんまりと笑う。

「そうか。そうか!」

 遂に、遂に決意をしたのか、迎日刹理。おまえはとうとう、あんたはとうとう、あたしと同じものになる覚悟を果たしたのか!

「よし、だったら来ればいい! 存分に――愛してあげる!」

 そう宣言した刹那であった。

 光が、散った。

 渦巻く燐光の中心から、そうしてそれは、弾かれたように飛び出して来た。

 一対の、黒き翼を持つ天使。

 三つの魔眼を有する死天使。

 切望者。

 アンキシウスが、力強い羽ばたきと共に空へと駆け昇る!

「さあ、まずは小手調べよ! この程度は、巧く避けて見せなさいよね!」

 拒絶の火――白色火薬。

 あたしの上空に浮かぶ拒絶の火の本流から、無数の白い光球が降り注ぐ!

 それは、一撃一撃が天使や悪魔を焼き尽くすほどの高威力。

 かつて彼は、この技になすすべもなくやられていた。

 だが。

「――振動制御(オシレーション・コントロール)――【橙花(リムーバル)】、【黄牛(アクセル)】!」

 その機影が、一瞬にして掻き消え――あたしの眼前に現れる!

「なっ⁉」

「――まず、一手」

 ガギン!

 反射的に繰り出した手刀と、彼の儀式剣が衝突する!

 火花を散らし、弾かれて、あたしは一歩分後退する。

「ベリアル、い、いまのは!」

『あれが真の振動制御。そして、同化に際しあれをも覚醒させたか』

「なにをよ!」

『汝が大敵として恐れ、あの日打ち壊したクオンタム――アレの母の力を』

「量子制御⁉」

 それは、もっとも極小の単位を操る【奇蹟】。

 世界を構築する量子の制御。

 つまり、今行われたのは疑似ではない本当の空間転移で!

 それは、あたしの王の力に並ぶ――神の御業だった!

「――ふ、うふふ」

 あたしは、それを聴いて、笑う。

 嬉しくなって、心底笑う!

「あっはっはっはっはっは! それでいい、それでいいのよ刹理! さあ、あたしを殺しにいらっしゃい! あたしと同じ頂まで、今度こそ上り詰めて!」

 ベリアルが告げる。それだけが、残る足りない要素なのだからと。

 ギュゥゥン!

 死天使が、青いフレアを噴出し、こちらへと旋回する。

 (はや)い!

 こちらと同程度に!

「拒絶の火――」

 ステップ2、次にあたしが繰り出したのは、周囲全体を一瞬にして拒絶しつくす広範囲攻撃だった。

 それに対し、刹理は――

「――振動制御――共振剣(レソナンス)

 その、最大の奥義を以て応じる。

 背面に大きく回される剣と、収束し拡散する無限量の振動!

 それが、あたしの技と同時に放たれる!

「――黒色火薬(パウダー・オブ・ブラック)!」

「共振剣――【蒼紫(ヴァイオレッド)】!」

 極大の、波涛の波動がぶつかり合い、轟音と共に、空間を押し潰しながら相殺される!

 それは、以前までの彼では考えられないほどの超威力の【ザイン】だった。

「す、すごい……!」

 あたしは、思わず感嘆の息を呑む。

 あの弱々しかった青年が、優しさだけが取り柄だった少年が、この三年の地獄の末にここまで達したのだ。

 この領域までやって来たのだ!

 愉快だった!

 痛快でたまらなかった!

 世界全てを書き換えて、真の楽園を作る前に、これほどの楽しみがあるとは思っていなかったのだ。

 こんな睦事があるなんて!

「共振剣――」

「――ッ⁉」

 続く驚愕。

 今の今、最大の技を繰り出した彼が、続けざまにもう極限の奥義を構築している。

 それは人間にできる技ではなかった

 故に確信する。

 彼は、同化を果たしたのだ。

 あの剣と一体となり、あたしの領域へと並んだのだと!

「なら、あたしも相応の力で迎え撃つ!」

 拒絶の火――赤色恒星。

 それは、あの聖騎士でもなければ突破できない超火力の産物だ。

 燃やし尽くし、拒絶し尽くす、触れるだけで灰燼と化す劫火だ。

「それに、耐えきれるか!」

「耐える必要など、ない」

 彼は、研ぎ澄まされた戦気と共に刃を奮う。

「レソナンス――【紅紫(アブセレッド)】!」

 極限まで収束された振動の刃が、真紅の炎を断裂する!

「――――」

 唖然。

 こちらの技が通用しないことではない。

 彼が、己を省みないことに対する驚愕だった。

 彼が切り拓いた道は、本当に僅かなものであった。

 その機体が通るギリギリよりもなお狭く、余波と放射熱でその装甲が融解し破損する。

 で、あるにも関わらず彼は真っ直ぐに飛ぶのだ。

 ――まるであの〝聖騎士〟のように。

「……英雄」

 知らず、あたしはその言葉を口にする。

 あたしが拒んだものの名を。

 ベリアルが想定した者の名を。

「……クッ」

 歯噛みと共にあたしはザインを連発する。

 事実だけを見るのならば、こちらに被害は全くなく、彼だけがダメージを食らい続けていた。それは、いつもとなんら変わらなかった。

 変わらないはずなのに、全く違っていた。

 炎の中を邁進し、傷だらけになりながら放たれる一刀。

 それを弾き飛ばし、返しの蹴りを決めながら、あたしは彼に問う!

「なんで!」

 どうして!

「あんたはそこまでして戦う! あたしを阻む⁉」

「【正義】の為!」

「正義!」

 ガリリッと、その返答にあたしの奥歯が音を立てる。

 その正義は【神】の齎す平和を守ることなのだ。

 お人好しのこいつは、未だにそんなことのために戦っているのだ。

 そんなことのために、あたしと同じ大量殺戮者になって!

「下らない!」

 本当に下らないと思った。

 どうしてあたしのためにそこまでするのかと。

 だけれど、彼から返ってきたのは、それに対する返答ではなく、あたしと相似形の問いかけだった。

「ならば……お前は何のために、こんな真似をしている」

 答えは簡単だった。

 簡単すぎて、言葉に詰まった。

 だって、あたしはずっと回答を示し続けてきたのだから。

 ……あたしは、天使を殺した。

 参賢者のシステムを破壊した。

 【神】を手中に収めた。

 あたしを同胞と崇めた悪魔すら皆殺しにした。

 この先にやることなんて、決まりきっている。

 それは実現だ。

 思想の――理想の実現だ。

 かつて、神の創造主が目指した理想の――

「【恒久平和】」

 言った。

 あたしではなく。

 彼が。

「――っ」

 驚きにモーションが遅れ、彼の一刀を右肩にもらう。

「グッ」

 すぐさまに拒絶の火を展開し、その損壊自体を〝拒絶〟。同時に刹理に一撃を叩きこむ。

「ぐっ、があああああああああああああああああ!!」

 だが、彼は引かない。

 その一撃を耐え、追撃の刃を翻す。

 量子制御【青嵐(スプレッド)】。

 攻撃の〝当たる〟という事象の確率が、散らされていたのだ。

「ギ、ギギギギギ!!」

 振り絞る至力で、あたしは再び拒絶の火を展開!

 彼の顔面に【白色火薬】を叩きつける!

 ガギィン!

 鋼鉄が鋼鉄を()む音。

 そして何かが砕ける音が響き――結果、漆黒の存在が、仮面の半分を粉砕されて、その場から退く。

 あたしは大きく呼気を吸い、体勢を立て直す。

 接敵。

 戦闘。

 撃退。

 再戦。

 延々と飛び続けながら、様々に空の場所を移しながら、あたしたちは戦い続ける。

 緋色の軌跡と、青色のフレアが絡み合い、世界中の空を覆い尽くしていく。

 そんな中で、あたしの裡に何か不定形のもやもやとしたものが生じ始めていた。

 迎日刹理は知っていた。

 あたしたちの目的を。

 あの愚直な青年が、いったい何時辿り着いたのか。

 少なくとも、一度前に闘ったときは、一つも分からずにいたというのに。

 いや、いや。

 それよりも、その事実を知りながら、どうして彼は――


「間違っていたのだ」


 彼は、静かに言った。


§§


 そう、間違っていたのだと(おれ)は自覚し、指摘する。

 誰もかれもが、何もかもが、その方法論を間違っていたのだと、それを悟る。

 機体は破損し、(おれ)はいま、天空から地上めがけて墜ちていた。

 青のフレアをまき散らし、漆黒の羽をばらまきながら墜ちていく。

 その中で悟る。

 その中で、(おれ)は気付く。

 己の過ちに。

 織守朔夜の過ちに。


 そして――ツラストラウス・ニーチャの過ちに。


 今ならば分かる。

 すべては彼の謀略であったのだ。

 【神】を作り上げた彼は、かの天才は、当然のようにその欠陥も自覚していた。

 【神】の齎す平和が、少数を切り捨てるものでしかないことを知っていた。

 だからこそ、それを改善するために三つのブレスを【神の躰】を残したのだ。

 しかし、人は彼の想像以上に愚かだった。

 【神】の為の肉体を、人が使うようにしようとした。

 それは彼にとって想定外であり、そうして強大な力を秘めた【神の息吹(ブレス)】を、その量産系たる【天使】と【悪魔】を、人類に行使させるわけにはいかなかった。

 それが、新たな争いの引き金になると理解していたから。

 故に自殺し、【御業】の再現を遅らせた彼は、その最大の信奉者と一芝居を打ったのである。


 織守朔夜と、〝同化〟し、手足にすることにしたのだ。


 問題はいくつかあった。

 〝同化〟処置には、厳重なプロテクトが掛かっており、緊急時以外発動が認証されぬこと。

 その管理者が、朔夜を愛する男であったこと。

 織守朔夜が、強い意志を持っていたこと。

 彼はその全てを逆手に取った。

 平和を願う朔夜の意志を利用し、その精神を差し出させた。その精神を食らった。

 その仕組まれた緊急事態に、愚かな男が愛する者を救おうと同化処置に手を出すことは、どれほど想像に易かっただろうか。

 かくて彼は、己の手足を再び手に入れ、すでに量産の体勢に入っていた天使と悪魔を、次々に破壊する。

 だが、織守朔夜の強靭を超えた意志は消えていなかった。

 彼女は彼女として、一つの目的を果たそうとしていた。

 それが【恒久平和】。

 世界の再構築に拠る、絶対の平和である。

 故に、彼と彼女は天使も悪魔も殺したのだ。

 自らと同じことの出来る神の器を、一騎残らず殲滅するために。

 そうして今残るのは(おれ)織守朔夜(ツラストラウス・ニーチャ)のみ。

 彼女は(おれ)を撃破して、世界を再構築する。

 それが、誤りであると知らずに。

「何も、何も誤りなんかじゃない!」

 彼女が叫ぶ。

 ニーチャではなく、織守朔夜が。

 狂っても、壊れてもいなかった彼女が。

「あたしは、平和な、あんたが願った本当に平和な世界を作るんだ! 優しいあんたが、泣かないですむような世界を!」

 無数に迫る純白の炎。

 もはや回避もかなわず、その全てがこの身を貫く。

 慟哭していた。

 彼女は、泣いていた。

 涙が(おれ)を貫いて行く。

「あんたには、この世界は辛すぎる! この三年でよく解った! この三年、地獄を見てあんたも分ったはずだ!」

 そう叫ぶ。

 それが彼女の目的の一。

 そうして確かに、よく分った。

この世界は、あまりに辛く厳しい。

 少数の意見は切り捨てられ、大多数の意見に蹂躙される。

 正義を語れば悪を打つことが許され、悪に与した者には如何なる所業も許される。

 これは、決して平和な世界ではない。

 だが、それは平和でもあるのだ。

 正義によって成り立つ、矛盾するように、そうである平和なのだ。

 ……そうして、それが(おれ)の誤り。

 正義を信仰しながら、悪を今日まで討てなかった(おれ)の誤り。

 迎日刹理は、織守朔夜を愛している。

 故に。

 彼女を。


 ――悪と断ずることが、できなかったのである。


 だから、斬り捨てることは適わなかった。

 悪討つ誓約(ツルギ)をその手にしながら、それを有効に活用できなかった。

 誤り続けていた。

 それが、いまならば分かる。

 そして、いまならば理解できる。

 織守朔夜は〝悪〟なのだ。

 世界の平和を踏みにじる、悪魔なのだ。

「そうよ、でも違う! あたしは、本当の平和を――」

「平和とは」

 (おれ)は、彼女の絶叫を遮り、静かに語る。

 平和とは、()べて和を尊ぶこと。

 日常と言う、波風のない掛け替えのない和やかさを守ること。

「故に、それを乱す者はみな悪なのだ」

 (おれ)は、墜ちながら追憶する。

 あの憎悪に涙する老婆の言葉を。

 あの名も無き婦人の哀哭を。

 あの言葉を失った少女の笑顔を。

 あの正しき聖騎士の誇りを。

 平和とはそれであり、正義とはそれなのだ。

 守るべきは、人の日常の穏やかさであったのだ。

 だから、(おれ)もまた悪だった。

 織守朔夜が悪であるように、この(おれ)も、そしてあの婦人も、聖騎士も、天使も悪魔も、皆悪であったのだ。

 ――いや、それだけではない。

 誰しもが悪だ。この多数決の平和を享受するあらゆる者が悪だ。

 誰かを嫉み、誰かを疎み、誰かを恨む。

 そうしてそのものの掛け替えのないものを奪う。

蹂躙する。

 ヒトはそうして生きている。誰もが悪で、誰もが加害者。

 性悪説。

「それでも」

 例え、人の心根が悪であるのだとしても。


「平和を望む者は、必ずいるのだ」


 落下が終わる。(おれ)は地に降り立つ。

 そこには、一振りの巨大な刃が突き立っていた。

 聖剣(ゼント)

 善悪を斬り別ける刃を、俺はこの手に執る。

「終わらせよう、争いなど、下らない」

 それが、(おれ)の選択だった。

 それが【神】でも、世界と言う人類大多数の意見でもない、(おれ)自身の選択だった。


§§


 ――死天使が墜ちる。

 そして、その時になって、あたしは初めて気がつく。

 己の周りに浮遊する、無数の極細塵(クォーク)ほどの青い光の存在に。

「これは……」

量子(クオンタム)

「え?」

 ベリアルが、答える。

『吾が妻の力。そうか、それが汝らの答えか』

 戸惑いとともに眼を凝らす。

 あたしの周囲だけではなかった。暗黒の空の(もと)、至る場所に、あらゆる場所に、その青い光は浮遊しているのだった。

「なに、これ」

 混乱する。

 刹理の言葉に揺れていた心が、全てを言い当てられて狼狽する想いが、更に揺れる。

 確かめようと、その奇妙な光に触れようとするたびに、心の中のもやもやが強くなる。

 何かが心に差し込んでくる。

 それは、苦しくて。

 切なくて。

 哀しくて。

 そうして、少しだけ暖かい――

「〝心〟……?」

『そう、心だ。これが()が問いかけの最果てよ。人の心は、真に繋がりえるのか。そうしてその想いは、何であるのか。【神】は、何を為せばいいのか』

「なにを、ベリアル、あんたは何を言って――⁉」

 ギラリと。

 地上で何かが輝いた。

 青い光の中、光の海の中を、急速にこちらへと向かって来るものがいた。

 それは漆黒。

 死天使。

 切望者。

 迎日――刹理!

「――え?」

 何かが、伝わった。

 その漆黒から溢れる何かが、苦しくて熱くて悲しくて暖かい何かが、青い粒子にのって直接あたしへと届いた。いや、それだけじゃなかった。

 彼に寄り添うものの何かが。

 もっとたくさんの〝心〟が、あたしへと、届く。

(われ)は実証した。人の魂とは、その心とは振動である。その制御を為し得るは吾の娘』

 【暁】のルシフェル。

『そうして、その心と心を繋ぐ物質は、この世にはまだ存在しない。故に、それを量子から組み上げる必要があった。それを妻に委ねた』

 【塵】のクオンタム。

『あとは、引き合うものを統括するものが、その位階まで両者を引き上げ。世界を変える力が必要だった。それが――吾ら』

 【王】のベリアル。

『すべては此処に揃った。早計に【神】の統治を許した吾の罪科も、遂に(あがな)われる』

「じゃあ、これは」

 この清廉な青い光は。

 いま、私の中を占めている、こんなにも暖かい何かは。

『ひとは悪を悦ぶ心を持つ。悪を為すことに快楽を覚える。その歪んだ、汚泥のような快楽に身を任せることがある。だが、それと同時に善きことをも尊ぶ』

 すべてのものは悪であり。

 すべてのものは善である。

 ヒトは、その両側面を持って生きている。

 そうして、いまあたしが感じているのは、暖かな思いだった。

 平和を愛する思い。

 それは、子の明日を想い、安らか成れと願う親の心。

 それは、親や友との日々を想い、笑顔を浮かべる幼子の心。

 愛する人を想う真心。

 幾つもの笑顔が、想いと祈りと願いのヴィジョンが、あたしの中に流れ込む。

 戸惑いと理解が流れ込む。

 これがすべて、平和への願い――?

「……刹理を媒介にして、世界中の人々の心が、通い合っているとでもいうの……?」

 それは、有り得ないことだった。

 有り得てはならない、ヒトの身には(ゆる)されない力だった。

 バベルの摂理など超えた力だった。

『そう、いま迎日刹理は、(ことわり)を超えて神域に届く!』

 来る、やって来る!

 確かな思いを胸に、その両手に剣を構えた漆黒が、地上からあたしの(もと)まで。

 王の頂を超えて、神の領域にまで!

『嗚呼、事は此処に為り。万事、成就せり。人は【神】とすら共に歩むのだ……!』

 億万の重責から解放されたような、そんな安らかな感嘆を呟いて、ベリアルは緩やかに機能を停止する。あたしの顔を追い隠していた赤のバイザーが、色を失う。

 バイザーの向こう――あたしの肉眼に、そうしてそれは確かに見えた。

 それは、両手に剣を構えているのではなかった。

 それは〝比翼の鳥〟だった。

 漆黒の瞳の青年が、拡散する振動を帯びた大剣を掲げ、緋色の瞳の少女が、収束する振動を帯びる細身の剣を携えて、夜明けの空に昇る明星のようにやって来る。

「『――柒曜超越、窮界を統べる――』」

 暁に登り詰める彼らは、あたしに向かって剣を奮う。

『「【極位相の(ピリオド)】――【共鳴剣】」』

 その両の剣に、世界中全ての人の想いを乗せて、すべての燐光が、いま収束する!


『「【共鳴剣(レソナンス)】――【超越縁(オーバーレッド)】!!!」』


「――ああ」

 刃が――紛れもない【正義】の刃が――【悪】を断った瞬間。

 あたしは、とうとう理解した。

 ……なーんだ、と。

 なんだ、これでよかったんだと。

 ようやく、納得をした。

 平和を乱す悪いドラゴンは、ここで英雄に退治されて、そうしてそれでハッピーエンド。

 これは、何の変哲もない、陳腐な御伽噺。

 ……でも、それが、それこそがあたしの作りたかった正しい世界で――

 なによりあたしの愛したその人は、いま、哀しんでなどいなかったから。

 その刃は〝愛〟だったから。

 彼の傍らには伴に歩くものが、寄り添ってくれるものが、そこにいたのだから。

 だから、なーんだ、である。

 これでいい。

 これで、いいんだ……っ!

「――でもね、刹理」

 あたしは、あんたのこと、


「ほんとうに、愛していたのよ……?」


 それがあたし、織守朔夜の伝えたい、本当に素直な、最期の想いだった。


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