↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/1

喪失の許嫁

はじめまして。お読みいただき、ありがとうございます。


北海道・札幌を舞台にした、春から始まる恋愛小説です。

十五歳の春、突然「許嫁」を告げられた少年と、人前では凛としている少女。二人が少しずつ近づいていく物語を書いていきます。


雪解けの季節のように、ゆっくり、静かに進んでいきます。

お付き合いいただけたら嬉しいです。


誤字脱字や設定のおかしな点がありましたら、感想などでお知らせください。

第1話 春の約束


四月の札幌は、まだ冬の名残りの中にあった。


道の端には、灰色になった雪の塊が残っている。

その下を、溶けた水が細く流れていた。


高校の入学式を一週間後に控えた、春休みの終わり。

真翔は、駅から家までの坂道をゆっくり歩いていた。


水たまりを踏んだ。

思っていたより深くて、靴の中まで冷たい水が染みてくる。


「……またか」


小さく息を吐いて、真翔は歩き出した。

この季節の道は、昔から少し苦手だった。


家に着くと、玄関に見慣れない革靴が一足あった。

客がいるのだろうか。

奥のリビングから、両親の低い声が聞こえてくる。


「ただいま」


「おかえり、真翔。ちょっとこっちに来て」


母さんの声が、いつもより少し丁寧だった。

リビングに入ると、客の姿はなく、テーブルに湯呑みが三つだけ置かれていた。


母さんは、何も言わずに僕の左側の席に座った。

父さんは向かいで、じっとテーブルの木目を見ている。


「真翔に、話しておかなきゃいけないことがあるの」


僕は湯呑みに手を伸ばした。

指先が縁をかすめて、二度目でようやく持ち上げられる。

母さんが、そっと皿を僕のほうへ寄せた。


「お前に、許嫁ができた」


父さんの声は、静かだった。


湯呑みの中の茶が、わずかに揺れた。


「……いいなずけ?は?」


「正確には、お前が生まれる前に決まっていた話なんだ」


「十五年も、黙ってたの?マジで?」


「大マジ、だが言うつもりは、なかった」


父さんは少しだけ目を伏せた。


「でも、先方のお嬢さんが、来週から同じ高校に通うことになってな」


窓の外では、屋根から落ちた雪解け水が、規則正しく音を立てている。


「会ってみてほしい。それだけでいい。断るかどうかは、そのあとで決めてくれ」


真翔は、湯呑みを両手で包んだ。

熱が、指先からゆっくり伝わってくる。


春になれば何かが変わる、と誰かが言っていた気がする。

けれどそれは、こういう変わり方のことじゃなかったはずだ。


そして入学式の日の体育館は、まだ冬の匂いがした。


天井の高い空間に、石油ストーブの熱がうまく届いていない。

パイプ椅子に座った新入生たちが、肩をすぼめて式の始まりを待っている。


真翔は、列のいちばん端の席に座っていた。

ここなら人の頭に視界を遮られることも少ない。そう思って選んだ席だった。


「続きまして、新入生代表挨拶。新入生代表、白石美奈さん」


名前が呼ばれた瞬間、体育館の空気が少しだけ変わった。


返事は、短くてよく通る声だった。

席を立つ気配のあと、壇上へ向かう足音が一定のリズムで響く。


真翔は、ほんの少しだけ首を傾けて、壇上を見た。

距離がうまくつかめないときの、いつもの癖だった。


そこに、彼女が立っていた。


腰まで届く黒い髪が、背中でまっすぐに揺れている。

制服の襟元ひとつ乱れていない。

壇上の中央で、彼女は一度だけ礼をした。


そして、顔を上げる。


静かな目だった。

緊張も、気負いもない。何百人もの視線を受けているのに、まるで自分の部屋で本を読んでいるような顔をしていた。


「本日は、私たち新入生のために、このような式を開いていただき、誠にありがとうございます」


声が、体育館の隅々まで届いた。


高くもなく、低くもない。

一語一語がはっきりしていて、聞いている側が自然と背筋を伸ばしてしまう声だった。


原稿は、手元にない。

彼女は壇上から、ときどき会場全体をゆっくり見渡しながら話していた。


「四月の札幌は、不思議な季節です。道の端にはまだ雪が残っているのに、足元には溶けた水が流れ、どこかから春の気配がしてきます。冬が終わったとも、春が来たとも、言い切れない時期です」


ざわついていた後列が、いつの間にか静まっている。


「私たちも、いま同じ場所に立っていると思います。中学校を卒業して、高校生になった。けれど、まだ何者にもなれていない。期待もあれば、同じだけ不安もあります」


彼女は、そこで一度言葉を切った。

間の取り方が、うまい。


「私は、その不安を、悪いものだとは思いません。不安があるのは、これから先に大切にしたいものがあるからです。何も望んでいなければ、人は不安になることもできません」


何人かの新入生が、顔を上げた。


「雪の下に何があるのかは、春になるまでわかりません。目に見えているものだけが、すべてではないからです。同じように、この三年間で出会う人も、見つける自分も、今の私たちにはまだ見えていません」


真翔の指先が、膝の上でわずかに動いた。


「だからこそ、焦らず、けれど立ち止まらず、一日ずつ積み重ねていきたいと思います。うまくいかない日があっても、それは春が来る前の雪解けのようなものだと信じて」


話し方に、迷いがなかった。

慣れている、と真翔は思った。

人前に立つことも、人に聞かせることも、彼女にとっては特別なことではないのだろう。


だからこそ、少しだけ遠く感じた。


「最後に、先生方、先輩方、そして共に学ぶ仲間の皆さん。私たちを温かく迎えてくださり、ありがとうございます。この学校で過ごす日々を、悔いのないものにすることを誓い、新入生代表の挨拶といたします。新入生代表、白石美奈」


深く一礼して、彼女は壇を降りる。


一拍遅れて、拍手が体育館に広がった。

それは、儀礼的なものというより、思わず出てしまったような拍手だった。


(あれが、僕の許嫁……)


実感が、まるでなかった。

壇上の彼女と、昨日聞いた「許嫁」という言葉が、どうしても同じ場所に収まらない。


その途中、ほんの一瞬だけ。

席へ戻る彼女の視線が、会場の端、真翔の席のあたりを通り過ぎた。


目が合ったのかどうかは、わからない。

彼女は何事もなかったように、まっすぐ自分の席へ戻っていった。


拍手の音の中で、真翔は膝の上で拳をそっと握った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。