七夕の空を漕ぐ、タチバナ爆ぜる
本資料は、旧家の土蔵より発見された古文書に関する報告である。
発見者によれば、古文書は平安中期の女手による歌日記の断片と認められる。以下、発見者による当該断片の翻刻を掲げ、あわせて関連すると思われる同人の手記を付す。翻刻と手記との関係について、本稿の著者はいかなる判断も差し控え、ただ併載するにとどめる。
なお、古文書底本の所在は不明である。
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【歌日記】
いづれの年よりか、夢にあらはれたまふ人を忘れかねつ。乳母いふやう、人の夢に立ちあらはるるは、我を思ふがゆゑなり、と。
あやしき衣着たまひて、御髪短く、烏帽子だに被きたまはず、みな異ざまなれども、物語けうにをかしく、いつしかまた会はむことを待てり。ところは大きなる河のほとり、白珠を敷きたる原なり。風吹けど水音なく、昼なれど星さやけし。
天の川 月の架け橋 渡らせて 永久にとどめむ 夢の通ひ路
寝覚むれば、東雲の空白くなりゆき、袖濡らすはただ露のみ。
【手記】
※表紙には『夢日記 No.21』と付されている。以下同。
令和7年7月5日
あの不思議な夢が、今朝は一段と現実感を増していた。
あれについて整理しよう。海と見紛うほどの大河が、星の光をきらめかせながら静かに流れている。音はしない。あれだけの水量がありながら瀬音ひとつ立たない。世界に音がないわけではない。風は耳介を揺らすばかりにごうごうと吹いている。
道理に合わない。だけど夢の理屈で、いつもその矛盾を自然のものとして受け入れている。でなければ、その後に起こる出来事に身を任せるなんてできないだろう。
おれは真珠で埋め尽くされた河原にいる。乳白色の光が乱反射してあたりを照らしている。
そこで人を待っている。誰かはわからない。だが、この上なく大切な人だという確信だけがある。
その人はずっと現れなかった。子供の頃から二十五の今これを書いているときまでずっと。恒星が白く爛れ堕ちるほどの時間を待ち続けた。ところがついに今日、その影が見えた。影は向こう岸に来た。ろうそくの火ほどの薄紫色の影。しかし、彼女だということは知っていた。そこで目が覚めた。
あの河は三途の川なのだろうか。
【歌日記】
つひに会ひたり、と人のたまひき。見まほしかりけり、とぞ。
濡ちたる衣乾き果つるまで、飽かず語り明かしつ。
御名、名乗らす。
いとはしたなく、袖におもてを隠して物も言はれず、惑ひ居たれば、いささかも急きたまはず、ただ待ちてぞおはする。めづらしき人にや。
それよりのちは、え言はず。あさましきかな。
後朝に、あやしきものを差し出だしたまふ。見れば、輝よふ白銀の手纏なめり。我が手に巻きてのたまふやう、我らが行く末を念じて、と。ありがたき文字まどかに書かれ、金糸のごとく細き針三本、絶えず巡れり。
「これは生くるものか」と問ひまうせば、笑ひたまふもいとうるはし。
玉の緒の 時の守り人 ちとせにも 巡り巡らせ 回し回せよ
【夢日記】
令和7年7月6日
確信していたとはいえ、影の正体に動揺した、のかもしれない。
向こう岸のろうそくのような影がふっと消え失せると同時に、黄金色の綾が河面に浮かび上がるのが見えた。水音はしなかった。綾が流れた。
彼女が落ちたのだ。理解した瞬間駆け出し、飛び込んでいた。皮膚が切り裂かれそうに冷たかった。泳ぐのなんて何年ぶりだ。服がまとわりついて、松脂の中にでもいるみたいだった。予想以上に水勢が強い。そんなすべてを無視して、なりふり構わず手足を動かした。手を差し伸ばして、やっと指先が綾の一端に触れ、その体を引き寄せることができた。
咳き込み、水を吐きながら、岸に手を掛けた。腕の中の体をやっとのことで引き上げ、自分もその横に転がった。体の内側から冷えていた。それに、なにもかもが重かった。あんなわけのわからない空間なのに、重力だけは一丁前だった。息を整えているうちに、その人が目をひらいた。
平安朝の女房装束の、若い女。
気づけば、むせかえるような薫物の香りが立ち込めていた。
変なことが頭に浮かんだ。妹の雛人形にそっくりだ。そうだ、なぜだかあの段飾りが好きだった。子供のころ雛人形が飾られると、日が沈むまで眺め暮らしたことを覚えている。母親からよく笑われてたな。
黄金色の綾と見えたのは花橘襲の衣装だった。あの日の雛人形が、ずぶ濡れになってそこにいた。等身大で。
「やうやう見たてまつりぬ」
それは、さっきまで溺れかけていた人の言葉とも思えなかった。
彼女が濡れた長い黒髪をかき上げ、身を起こしたから、つられておれも起きた。息が上ずった。彼女はどうだったろう。微笑んでいるようにさえ見えた。
細面の白い顔。紅を差した唇からこぼれた抑揚が、波のようにたゆたい続けているのを感じた。それは、おれが毎日机の上でかぶりついている、あの死んだはずの言葉だった。風に持っていかれそうなその意味の裾を捕まえたくて必死だった。
「ごめん。もっと、ゆっくり、話してくれる?」
通じるわけがない。それなのに彼女は少し首を傾けて、短く区切りながら言い直した。単語の切れ目を、身につけた知識で拾っていった。「ようやく」を、彼女は「やうやう」と言う。「お会いした」を「見たてまつりぬ」と言う。水をかぶったせいなのか、貧血みたいに手が震えていた。
思えば、この分野に没頭しているのはこのためだったのだろうか。現実を見もせず、がむしゃらに千年前の散文ばかり読んで生きてきた。このときのために、今までのおれがあったのだろうか。誰かが、あるいはなにかが、おれたちを引き合わせるために? それともすべてはただの偶然なのか。
気づくと、口から勝手に言葉が漏れていた。「つひに会ひたり」まるで当然のように。「見まほしかりけり」
一陣の風が吹き抜けて、風圧に目をつぶった。一層極まった香りに、オレンジを思い出した。
――ようやくお会いした――
お互いに聞き取れない言葉は、指で真珠の原に文字を書いて確認し合った。指先が沈む度に、無数の粒がしゃらしゃらと涼やかな音を立てた。
「けんきゆう?」
と彼女が問えば、おれは、
「我が……えーと、勤めなり」
と答えた。
「君は法師におはすか。勤行したまふ」
「あーいや! 法師ならず。学生なり」
「学僧にておはすらむ。さればこそ」
あわてて撤回したけれど、十分に伝わったか怪しいものだ。
目でしか知らなかった文章に、音声が吹き込まれる。知っていた発音、知らなかったアクセント。仮説が現実化し、かつ裏切られる。ずっとおれは、これらの言葉を舌に載せて、あんなふうに誰かと話したかった。
いつの間にか東の空が茜色を帯びてきていた。
「いとあやし。我が世にては、夕暮れは西より来るなり。そなたの世はいかに」
真剣にそんなことを言うものだから、楽しくて仕方なかった。
「我が世にても」
というおれの答えを聞くと、したり顔で頷くのだった。
雛人形を眺めていたあのころのように並んで座りながら、心臓が延々と泳いでいるみたいでたまらなかった。ずっとこの時が続くことを願っていた。大河の前でおれたちは話し続けて、彼女の表着もおれのパーカーも、いつの間にかすっかり乾いていた。いったいどれだけの時間が経っていたのだろう。
「御許は人形なり。我が懐かしき人形」
気持ちが高揚しすぎたのだろう、ついそんなことを口走ってしまった。
とたん、彼女は立ち上がった。「人形!」
そのまま背中を向けて歩いていってしまうので、おれは一、二分、口をあけて見ていることしかできなかった。戻って来ない。遠ざかる黄金の綾。急いであとを追った。
「ごめん、悪いこと言ったかな――わろきこと言ひぬるや」
たぶん怒っている背中はそれでも立ち止まって、低い声が聞こえてきた。
「現し世も我が身は人形にてあり。されど、人になりたし」
おれは彼女の前に回り込んだ。平安貴族の令嬢にあるまじき、ふてくされた表情をしていた。そのとき初めて、この美しい人に血が通っていることが腹に落ちた。
おれはもう一度謝ると、背を向けてさっきの辺りに戻っていった。
腰を下ろした。またひとりになった。河に飛び込む前と同じように。
そうして初めて夜が訪れた。夜は太陽の照る暗闇だった。狂った自然律が信じがたくて、ずっと空を見ていた。長い時が過ぎた。
やがて頭上に影が差した。見上げると、翳りを帯びた陽光が彼女の黒髪を照らしていた。反発する磁石のように視線は合わない。諦めておれはまた空に目をやる。衣擦れと真珠の音がして、彼女が隣に座ったことがわかった。風が相変わらず吹いていた。
沈黙。
ふと思いついて言った。
「いまさらだけど、おれは賢斗」
沈黙。
戸惑った。
「さっきのことだけど――」
「我は織子」
黒い瞳におれが映っていた。
あふれそうな水鏡みたいな瞳。その奥に、小さなおれが生きていた。閉じ込められたような、閉じ込められてしまいたいような。
女が名乗ることが、意志を表す行為になる時代があった。
腕を伸ばした。織子は袖に顔を隠した。倒れ込むと真珠が飛び散って音楽を奏でた。
「学僧のかかる振る舞ひ、いかでか許さむ」
非難の言葉。しかし、声の調子は穏やかにささやくものだった。
なんて答えればよかったのだろう?
「学僧ならず。賢斗なり」
「賢斗の君」
こそばゆい言い方だった。その瞬間、おれが再定義された。
「織子さん」
彼女は笑った。
やがて星空の朝が来て、焦りの引き換えのように、身につけていた腕時計を外した。横に寝ている彼女は、白い単の袖から指先だけ出して受け取る。きょとんとした表情があどけない。留め金の使い方がわからず、二人で額を突き合わせて、結局おれが巻いた。細い手首。折れそうで、あたたかかった。金属製のベルトがブレスレットみたいに垂れ下がっていた。
なくなった時計の痕に当たる空気がひんやりと冷たかった。
【歌日記】
文たまはる。なにがしの蔵人なる殿、いかで我がおぼえ聞きたまひけむ、貴なる紙になでしこの花添へて、懇ろなる歌書き付けつるをおこしたまへり。乳母いふやう、いかに思ひ染めたまへど、此岸の人や彼岸の人に勝りたまはざる、と。
寝覚めとともに白銀の手纏も失せつ。彼岸は世の経るやう異なると聞く。河の流るるがごとく、時のまにまに消えたるか。いたう口惜し。
さらに疑ふらくは、賢斗の君の、我が児孫におはするにや。さもあらば、げにおそろし。
乳母、返歌す。訪ひの沙汰問ひたまふに、あさましくねたく覚ゆ。されど、乳母がなすこと、みな理ならむ。さだめて我は頑ななるべし。夢の浮橋かく途絶えつ。
けふは歌なし。
【夢日記】
令和7年7月7日
いまこれを書きながら手が震えている。今日は夢日記ではない。
先般、土蔵で発見した古文書の断片についてである。あらかたの翻刻が終わった。
子供のころから常にあった夢。異常に生々しいあの夢を、共有していた人がいる。千年前に。おれの夢が、彼女の筆で、彼女の言葉で書かれていた。真珠の河原、音のない流水、昼の星空。
ばかみたいだと思いながらも、一笑に付されると怯えながらも、日中、研究室の平野教授を訪問した。あたかも進捗を報告するていで。
そうだとは知っていたが、教授は微笑みもしなかった。いつもながら話にじっくり耳を傾けてくれた。
「証拠はないんです。ひとつも。ぼくの側には」
「それで、きみはどうしたいんですか?」
なんでそんなことを訊くのだろうと思った。研究の報告に対して、おれの個人的な意向が関係あるのだろうか。戸惑いながら教授の顔を見つめているうちに、自分の奥底にあるものに気がついた。そして、目の前の初老の男はとっくにわかっていたのだろうことにも。
「彼女の肉体は既に失われてしまったんです」
おれはあえて答えをずらした。本心を言うのが怖かったのかもしれない。
教授は眼鏡を外して袖口で拭き始めた。それから静かに語り出した。その内容を大まかに記録しておく。
「夢は異界だという説があります。意識にはいまだ解き明かされざる要素も多い。夢については、ぼくも中古文学の研究を通して少しばかり触れてきました。その結果、人間は起床時と睡眠時とで、違う世界に意識のチャンネルがひらくのではないか、と考えています。意識は肉体を蝶番に、二つの世界を行き来しているのだと。仮に睡眠時の世界――夢が、起床時の世界とは異なる次元に存在しているのだとしたら。夜と昼が重なったり、河のあちらとこちらが繋がったり、千年を隔てた過去と未来がリンクしたりすることもあるのではないでしょうか」
「ぼくの話を信じるんですか?」
「きみのことは学生時代から知っています」教授は元通り眼鏡をかけた。「頑なだった。この、織子さんみたいにね。なによりぼく自身が、嘘をつく研究者を育てたとは思ってません」
がくりと頭が垂れたから、急いで片手で額を支えた。自分で感じていた以上に緊張していたらしい。
「彼女に会いたいんです。どうすればいいんでしょう」
「わかりません。でも……それは不可能だと思います」
教授はいつでも冷静だった。それからデスクに置いてあった水菓子を手に取った。
「冷凍みかんですか……お好きですね」
「うん、夏にはね」
やりにくそうに剥き始めたので、それをしおに、礼を言って研究室を辞した。
帰って、織子の日記をたぐりながら、息をするのももどかしかった。
児孫、という言葉で、何度も視線が止まる。そうなんだ。彼女の日記が実家の蔵にあるということは……そうなんだよな。
この家系に流れる血の上流に彼女がいるとするなら、代々を経て下流に生まれ落ちた一滴がおれ、なのかもしれない。だとしたら、彼女が蔵人と結ばれてその子孫が――いや!
あのとき、河のほとりを漂っていた彼女の香りに囚われている。囚われてしまった。夢が交錯したのは運命が導いたんじゃない。囚われたのは運命だからじゃない。ただ彼女の袖がオレンジの香りがしたから。
五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする
あの古歌はおれの歌だ。イカれてるな。おれたちは正しく繋げてきた血脈の、イカれた異分子なんだと思う。
夢を繋げたのが何ものかの意志だとしたら、おまえは腰を抜かしてるんじゃないか?
「けふは歌なし」
またそこまで読んで、もう先が続けられない。彼女の文章がグローブ越しの研究対象じゃなく、肌にまとわりついている。千年前の仮名文字がそんなふうに見えるのは初めてだ。
ばかだ。大昔の名前も知らない蔵人に、令和の今、殺意めいたものを抱いている。慣習に従って返歌したに過ぎない乳母を恨んでいる。しかも自分のじいさんかもしれないんだぞ。背中が震えるのは笑っているせいだ。それだけだ。
生まれたときから、長い長い夢を見てきた。
その期間、彼女は必死に何度もメッセージを送ってくれていた。橋を架けようとしてくれていた。それを知ってしまった。あまりにも遅い――いや、早すぎた結末。生命は立ち消え、織子の全ては事象の地平線の向こう側にある。贈ったはずの腕時計は、今も空しく手首を包んでいる。
気がつけば、窓の外が暗くなっていた。晴れた夜空に星座が並ぶ。腹が立つほど法則通りに正しく。あれは夏の大三角だったか。
冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、一気に喉に流し込んだ。織子も寝殿造の屋敷で、水を飲んだだろうか。それもこれと同じ味だっただろうか。いや、そんなわけないな。ラベルを見て眉をしかめた。エビアンだ。
なにもできない。諦めるんだ。ペンを置いて、日記の続きを読もう。
【歌日記】
夢の浮橋絶えてのち、この日記も打ち置きて、久しくひらかざりき。今朝ゆくりなくひらきて、をはりを見れば、あるまじき歌あり。
【夢日記】
令和7年7月7日 深夜
途中まで読んで閉じた。
送るつもりのないラブレターの宛先人が、それを読んでしまうのもどうだろうか。つまり、おれがしているのはそれだ。顔が熱い。
先祖と子孫が結ばれるという物理法則のパラドックス。どんな結果になるのか予想もつかない。家系がとだえる? それとも最初から家系自体なかったことに?
答えが知りたくて、いつも研究上のやりとりでやっているように、パソコンから教授に質問のメッセージを送った。もっとも今回は研究ではないのだから、だいぶ気が咎めた。だけどこんな話、ほかに相談できそうな人が思いつかない。
返ってくるのはいつも通り朝になってからだと思っていた。
「恋は罪悪だとは、ぼくは言いません」
ところが、送信して五分と経たないうちに返信がついたのだ。申し訳ない気持ちになる。
思えば、おれはいつもこんなふうに生きてきた。中古文学に没頭してばかりの少年時代。まともな稼ぎもなく親に頼って生活している今。雛人形、物語、日記。興味が勝つものしか見えない。それ以外に生きられなかった。
断続的に、教授の言葉が表示され続ける。
「ただ肉体という形で会うことはできないのは確かでしょう」
「夢が永遠ならいいのにと思います」
「精神的に繋がりあうということですね。であれば、物理的な破綻は考えにくい」
おれは静かに画面に見入っていた。次の言葉を探しているうちに、先にメッセージが表示された。
「今宵来む 人には逢はじ 七夕の 久しきほどに 待ちもこそすれ」
「素性法師ですか」
「案外会わないでおくというのも、会うための手段かもしれませんよ」
教授の言葉を測りかねて、その和歌を読み直していたとき、ふっとあることが浮かんだ。手が、ロボットのように動いていた。
「七夕」
「はい?」
「あの、えーと、なんか、今わかった気がしました」
「どうしたんですか?」
「あー、なんて言えばいいのか、手段はわからないんです、でも確信が持てたんです、絶対会えると、時空を越えて」
「時空を?」
「この肉体は仮初めのものだったんです」
「きみ、どうか軽率な行動は慎ん」
非礼にもメッセージを最後まで読むことはなかった。またたき続けようとする電子の文字を無視して、書き物机に取って返し、古文書の原物を広げた。
手段なんて知らない。研究もバイトも知ったことか。夢が共鳴した。それだけで充分だ。おれたちが何者であるか――それはずっと見えていたことじゃないか。
今夜きみと会う。それは宇宙の始まりから決まっていたこと。
だけど今、下手くそな歌を返したい。時空を越え、物理法則を越え、この名づけられない意識が織子に届くように、この歌を古文書の最後の余白に刻みつける。
貴重なサンプルは損壊し、この瞬間、おれは研究者ではなくなった。学僧でも。
荒海も 時の隔ても ぶっとばし 今日七夕の 空漕ぎ渡る
【歌日記】
かかるやうやはある。我が手にもあらず、墨の色、なほ生なましく、ただ今書きつけられしがごとし。触るれば、指わづかに湿る。
ぶつとばし、とはいかに。すなはち賢斗の君とぞ知る。息つけぬほどあさましく、涙こぼれて料紙濡れにけり。
暁の夢に君を見つ。されど、そのさま、ただ事ならず。星堕ち、河干上がり、轟に神鳴り騒ぐ。下なる白珠うち震り、こよなく輝く。ものすごき気色なり。
手取り合ひ、堕つる星星を掻き分け駆けたり。知らざりき、足はかく動き、汗はかく流るるを。君とならば、見も知らぬ景色、みな目に見ゆ。
にはかに熱し。焦がるる香に返り見すれば、我が裳裾、焔を上げて燃ゆ。脱ぎ捨つれば、身の軽きことたぐひなし。年ごろ着重ねしもの、みな灰となりぬるも惜しからず。君、我を負ひたまひ、闇に向かひて走りたまふ。なにもなにもみな、いとをかし。
今、新たしき星生まれ出づめり。
きみと行く 常世の果ての 天の川 白鳥舞ひて 花も咲くらむ
【夢日記】
令和∞年文月√8日
おれが書きつけたのがよくなかったのだろうか、織子の日記は消えてしまった。文字通り、雲のように。残っているのはもうこの写しだけ。彼女の触れた紙が存在しなくなるのは、彼女との繋がりが嘘だったと言われるようで喉元が締めつけられる。
旅立つときが近づいたみたいだ。遠く果てしない光年の彼方へ。
家族や友人のみんなへ。
どうか祝福してほしい。ぼんやりしている、昔のことばかり見ていると言われ続けて、ずっと心配かけてきた。おれも自分で自分がおかしいやつだと思ってた。でもやっとわかったよ。
おれはずっと前から、生まれる前から、ここにはいなかった。一千万年の時を結んだ一点に、おれたちは呼ばれた。夢が崩壊し始めている。新しい世界を織り綴らなければ。きっとそのために、ふたりの時間が重なるんだ。いなくなるなんて思わないでほしい。いるべきところに戻るだけだから。長い眠りから、やっと覚めた気がするんだ。
平野教授へ。今までありがとうございました。警告しようとなさっていたのは気づいたけれど、無視した形になり申し訳ありません。
いま橘の実が爆ぜる。これはハッピーエンドだ。おれのことを思い出した日には、晴れた夜空を見上げて、銀河の近くで真珠色に輝く星を見つけてくれ。おれたちはその横で、命を燃やし続けている。
だけど、もう言葉はいらないってことだけが、少し寂しいよ。
――――
手記はここで終わっている。
手記の書き手、すなわち古文書の発見者の消息については明らかにできなかった。土蔵は令和8年現在も調査継続中である。
付記1:手記の紙面を分析したところ、揮発性有機化合物の残留が認められた。D-リモネン、柑橘類の芳香成分である。
2:夏の大三角はベガ、アルタイル、デネブの三つの恒星で構成され、白色超巨星デネブの形成は約一千万年前と推測されている。
(以上、平野)




