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「王都はあっち」

夜明け前に目が覚めた。


アルはパッと起き上がり、荷物に手を伸ばす。

着替え、調合道具、薬草。それから図鑑。

指先でひとつずつ確かめる。


「よし、全部ある。完璧。」


窓の外を見るとうっすら明るくなっていて、空気はひんやりと冷たい。

小さな窓ガラスが鏡のように自分の姿を映し出す。

癖毛のセミロングは寝ている間にまた跳ねていて、押さえてみたけど、すぐにぴょんと元通りになる。

困ったような青い瞳が、こちらを見返していた。


「まあいいか」


跳ねた髪を押さえながら、窓際に置いた植物に目をやった。


薄暗い部屋の中で、小さな花がほのかに光を帯びている。

アルが幼い頃から育ててきた、お気に入りの植物だ。


「行ってくるね」


小さく呟き、手のひらでそっと触れた。

身支度を整え、家族を起こさないように台所へ向かい、テーブルの上に手紙を置いた。

家族へ、そしてこの家へ向けて。


『行ってきます。心配しないで。

ちゃんと帰ります。——アル』


あれこれ書こうとした形跡はあるが、結局はこれが一番だ。

他に何を書いても、余計な気がした。


玄関を出ると、空がほんのり明るさを帯びている。


アルは荷物を背負い直し、自宅を後にした。





ベルネリ街が動き始めるのは早い。

市場の通りに差し掛かると、もう店の準備をしている者がいた。

野菜を並べる八百屋、魔道具の埃を払う店主、荷車を引いて路地を抜けていく男。

石畳の上に朝靄が薄く漂い、遠くから川の音が聞こえてくる。


いつもと同じ景色を眺めながら、ゆっくりと歩いた。

薬草屋の軒先に束ねて吊るされた乾燥草。

雑貨屋の窓に並んだ光る小瓶。

広場の噴水が朝の光を受けてきらきらと揺れている。

どこかで焼きたてのパンの匂いがした。


「しばらくは見納めか。

パン買ってから行きたかったな」


独り言をこぼしながら石造りのアーチを抜けると、背後から聞こえていた街の喧騒がふっと遠ざかる。

アルは少しだけ立ち止まり、手元の地図に視線を落とした。

指先で道筋をなぞりながら、考える。


「まず王都に行って、足りないもの買い足して……宿も決めないと。

図鑑の聞き込みもしなきゃだ。

王都までは一本道だし、昼までには着けるはず」


顔を上げ、一度だけ振り返る。

そして、迷いのない足取りで歩き出した。





それから数時間。

出発した時の涼やかな風の気配はもうなく、陽は高く昇り、森の影を色濃く落としている。

木漏れ日が揺れ、枝の間を小鳥の声が抜けていく。


「今、何時だろう」


ふと空を見上げ、アルは無意識に懐を探る――手が止まった。


「…時計忘れた」


あれだけ入念に準備したのに、一番肝心な「時間」を知る手段を置いてきてしまった。

木の幹を背もたれにして座り込み、盛大にため息をつく。


「ここはどこなの……」


アルは道に迷っていた。

王都までは一本道。そのはずだった。

近くの茂みに珍しい花が咲いていたのがきっかけだ。

もっと変わったものがあるんじゃないかと、森の奥へ足を踏み入れてしまった。


「でもこの花、すごく珍しかったんだよね」


迷子のわりに声は弾んでいた。

鞄の端から空色の、可愛らしい花が何本かはみ出している。

アルはちゃっかり、それを手の内に収めていた。


「とりあえず歩こう。

立ち止まってても、王都は向こうから来てくれないし」


呟きながら、ゆっくりと歩みを進めた。

見上げれば、重なり合う葉の隙間から柔らかな陽光が差し込み、地面に明るい斑模様を描いている。


足元に広がるのは、厚みのある見慣れない苔。

一歩踏み出すごとに、湿った土の匂いとともに足裏が柔らかく沈み込む。

その場にしゃがみ込み、苔の質感を確かめた。

しっとりとした冷たさが手に心地よい。


顔を上げると、隣の木に絡みつく蔦が、まるで職人が編み上げたような規則正しい幾何学模様を描いていた。


「なにこれ!

蔦ってこんな絡まり方する?おもしろい」


指先でその法則をなぞり、構造を分析し始める。

ふと我に返ると、歩き出してからまだ数メートルしか進んでいなかった。


「……まあ、急ぐ旅でもないしね」


呟きながら立ち上がり、図鑑を取り出してページをめくった。

この森にはどんな植物があるだろう。

メモしておきたいものが出てくるかもしれない。


そのときだった。


——ドカンッ!


大きな破裂音が、静かな森に響き渡る。

次の瞬間、爆風がアルを正面から吹き飛ばし、体が宙に浮かんだ。


「うわっ——」


視界がぐるりと回る。

地面を二回転ほどして、湿った茂みの中へと突っ込んで止まった。


目の前は白煙で覆われ、視界がぼやける。

鼻をつくのは焦げた匂い——その奥に、甘く漂う魔法の残香が、微かに混ざっていた。


「痛いなぁ…」


低く呟きながら、ゆっくりと体を起こす。

頭を振って砂埃を落とし、スカートの裾をぱっぱっと手で払った。


「……今の、なに?」


困惑するアルの耳に、煙の向こうから声が届いた。


「生きてる?」


風が吹いて、白煙が少しずつ薄れていく。

煙が晴れると、木の枝の上に男が座っていた。

深い紫の長髪が風に揺れ、宝石のような翠の瞳がこちらを覗き込んでいる。

手に持った魔道具からは、いまだに細く煙が立ち上っていた。


「生きてますけど」


「そうか」


男は枝からひらりと飛び降り、音もなくアルの目前に着地した。

地面に着くと同時に、アルの様子をじろじろと確かめる。


「普通、あの爆風を受けたら、まともに立ってられないと思うんだけど」


「吹き飛びましたよ。

さっきそこで二回転しました」


「でも、無傷じゃん」


「丈夫な方なんで、昔から」


アルが真顔で言い切ると、男は一瞬だけぽかんと口を開けた。

次の瞬間、我慢できないとでも言うように、肩を揺らしてふっと笑った。


「お前、面白いな」


アルは首を傾げて、服についた葉っぱや小枝を払い落とす。

それよりも、今は聞きたいことがある。


「ところで、ここがどこか分かります?

王都に行きたいんですけど、道に迷ってて」


男は視線を森の奥へ流し、それからアルの手元にある図鑑へと戻した。

指先で顎を軽く叩き、周囲の木々を見渡す。

爆発でへし折れた枝が地面に転がり、まだ小さな火花を散らしていた。


「逆。王都はあっち」


興味なさそうに、爆風でなぎ倒された木々とは反対の方向を指した。

歩き出す素振りは見せず、ただアルの抱えた古い図鑑をじっと見つめる。


「俺も王都に行く。

気が向いたから案内してやるよ」


アルの返事を待たず、男はひらりと手を振って歩き出した。

驚いた顔で図鑑を握りしめる少女を、ちらりと背越しに見る。

魔法を正面から受けて無傷でいる存在が、ただの迷子であるはずがない。

足取りは軽く、その口元には愉快げな笑みが浮かんでいた。


アルは図鑑を鞄に押し込むと、前を行く男の後を小走りで追いかけた。


「助かります。

ところで、あなたは何をしてたんですか?

こんな森の中で」


問いかけながら、男の背中を見つめた。

足取りは軽やかだが、どこか周囲を寄せ付けないような独特な雰囲気がある。


「実験」


男は前を向いたまま、短く答えた。


「爆発する実験?」


「失敗した」


あっさりと言い捨て、さらに歩調を早める。

隠す様子も反省する様子もないその態度にアルは「へぇ……」と感心したような声を漏らす。


「あ、そういえば名前は?」


一歩先を行く背中に少し声を張って尋ねると、男は歩く速さを変えないまま口を開いた。


「ルカン」


「アルナラです。よろしく、ルカン」


名乗ると、ルカンは振り返りもせず片手だけを上げて応えた。

無駄のない足取りで、山道を平然と進んでいく。

その後ろを、アルは重たい鞄を揺らしながら追いかけた。

隣に並びかけると、ルカンがふと視線を下げて、アルの鞄の隙間に目を留める。


「それ、花か」


「うん。さっき森で見つけて。

空色の花びらに、縁が白くなってるやつ。

珍しいでしょ」


鞄が跳ねないように手で抑えながら、アルは弾んだ声で答えた。


「なんで迷子が、呑気に花なんて摘んでるんだよ」


「綺麗だったから、つい」


ルカンは少し呆れた顔をして、また前を向く。


「お前、変なやつだな」


「よく言われるよ」


アルは鞄からそっとその花を一本取り出し、木漏れ日にかざしてみた。


「これ、図鑑に載ってないんだよね。

名前もわからなくて」


「図鑑?」


「おばあちゃんの形見なんだけど、まだ未完成なんだ。

それを完成させるために旅をしてるんだよ」


ルカンがわずかに歩調を緩め、隣を歩くアルをじっと見つめる。


「旅の目的が、図鑑の完成?」


「うん。あと、自分の目で見たいものがたくさんあるから」


「ふーん」


興味がなさそうな短い返事だったが、ルカンの足が止まることはなかった。


やがて木々がまばらになり、不意に視界が大きく開けた。

緩やかな丘の向こう、高くそびえる城壁が目に飛び込んでくる。

色とりどりの旗が風にたなびき、その下には太い街道がどこまでも続いていた。


「王都だ……!」


圧倒的な光景に、アルは思わず足を止めて声を上げた。


ルカンは特に驚く様子もなく城壁を眺めていたが、ふとアルに視線を移す。

王都を見上げて目を輝かせる姿を、少しの間黙って見つめ、聞き逃してしまいそうなほど小さな声で呟いた。


「図鑑、完成するといいな」


その声に、アルは笑顔で振り向く。


「完成させるよ。……たぶんね」


「……そこは『絶対に』って言い切る場面だろ」


ルカンは呆れたような顔をしてまた前を向いたが、アルはそんな彼の反応を横目に、満足げに図鑑を鞄にしまった。


まあ、きっと大丈夫だろう。

根拠なんてどこにもないけれど

なぜかそんな気がした。


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