「始まりの図鑑」
アルナラが初めて毒草を口にしたのは、四つの頃だったと、祖母は言っていた。
庭の隅に生えていた草を、止める間もなく口に入れ——
次の瞬間、祖母は息を呑んだ。
普通ならすぐに吐き出すはずのそれを、アルは平然と飲み込んでいた。
青ざめて駆け寄った祖母に、きょとんとした顔を向ける。
「にがい」
そう言って、何事もなかったかのように次の草へ手を伸ばした。
それから下町の家の庭は、アルの遊び場になっていく。
薬草の葉を一枚ずつ千切っては食べ比べ、根を掘り起こしては土の色を比べる。
雨上がりに濡れた苔の上に寝転び、泥まみれで空を見上げるその姿は、近所の人から見れば「少し変わった子」そのものだった。
けれど、アルにとって植物は沈黙の友人だった。
触れるたびに何かを返してくる。
言葉ではなく、指先に伝わる微かな感触として。
祖母の薬草棚に並んだ小瓶を眺めながら、いつも同じことを考える。
この世界には、まだ誰も見たことのない植物が生えているはずだ、と。
◇
祖母が逝って、はじめて部屋の片付けをした日のこと。
棚の奥から一冊の図鑑が出てきた。
他の本に挟まれ、背表紙も見えないほど押し込まれていたそれを引き抜いた時、アルの指先に不思議な重みが伝わる。
使い込まれた革の表紙は、驚くほど柔らかく手に馴染んだ。
埃を払うと、飾り気のない表紙に細い文字で題名が刻まれている。見覚えのない言語。
けれど、どこかで見たような気がして、目が離せなかった。
一瞬だけためらい、アルは表紙を開く。
最初のページには、古い筆跡で植物のスケッチが描かれていた。
細い線で丁寧に写し取られた葉の形、余白に書き添えられた採取地と日付。
ページをめくるたびに、知らない草の名前が続いていく。
紙をめくる音だけが、静かな部屋に小さく響いた。
そしてふいに、余白が現れる。
走り書きの地名、途中で止まった文章、「未確認」と記された草の名前。
書きかけのまま途切れたページが、いくつも続いている。
図鑑の最後のページには、こう記されていた。
『すべての毒を中和する薬草。
その在処を、ついに突き止められなかった』
ページを閉じようとした指が、そこで止まる。
祖母がたどり着けなかった薬草が、どこかにある。
その在処が、この大陸のどこかに。
そう思ったとき、胸の奥で何かがわずかに動いた。
理屈ではない。
ただ、手の中の本をもう一度握り直していた。
祖母の形見を完成させたい。
その願いはもちろん本物だ。
けれどそれ以上に、自分の目で見たかった。
この手で触れてみたかった。
あの日から、どれくらい経っただろう。
気づけば荷物は玄関に積み上がっていて、出発の朝がきていた。
アルは図鑑を閉じ、旅支度の一番上にそっと置く。
——それが、すべての始まりだった。




