第3話 第二王女クロエ
港の喧騒の中心で、国王アルベルトはゆっくりと身体を起こした。
さっきまで死にかけていた男の動きではない。
息は深く、目は冴えている。
だが、その目がまず確認したのは騎士団でも群衆でもなく、妻と銀髪の少女だった。
カタリーナが抱きしめている少女。
その距離が異常だと、アルベルトも一瞬で理解した。
理解した上でクロエを見た。
銀の髪、泣き腫らした目。
必死に誰かを助けようとした手。
そして、胸の奥で何かが合う感覚。
言葉で説明できない。理屈でもない。
ただ、確信に近い何かが来る。
親子の縁。そういう類いのものだ。
アルベルトは息を吐き、表情を整えた。
王の顔になる。
ここで感情を出せば、港は爆発する。
帝国と連邦の影が、すぐに嗅ぎつける。
そして何より、民衆の心が揺れれば、揺れた分だけ国は脆くなる。
アルベルトは声を張った。
「よい。詳しい話は後だ」
短く、だが港の波を止める声。
「騎士団!」
一斉に姿勢が正される。
剣の音が揃う。
「この場はお前たちに任せる。混乱を広げるな。騒ぎを抑えろ」
「はっ!」
騎士団長が即座に応える。
近衛も動く。
兵が列を作り、群衆を押し戻し、救助と整理のための導線を作り始める。
アルベルトは、さらに王国府へ向けて命令を投げた。
「王国府からも人を回せ。内務も動け、噂を放置するな。これ以上動揺が広がらぬように」
命令は具体的で、優先順位が明確だった。
港を封じる。
情報を管理する。
混乱を鎮める。
王が生きているという事実が、そのまま国の柱になる。
それを示すように、アルベルトは一歩前に出た。
そして、視線をカタリーナへ向けた。
「カタリーナ、戻るぞ」
カタリーナは返事をしなかった。
返事ができなかった。
腕の中の銀髪の少女、クロエから離れられない。
離したら、また失う。
十三年前と同じことになる。
体がそう理解してしまっている。
クロエは抱きしめられたまま、戸惑っていた。
母の熱と、港の視線と、姉の疑いと、王の確信が一度に押し寄せて、頭が追いつかない。
その背後で、小さな人形がリュックの中で、やけに落ち着いた声で呟いた。
「…ほらね。面倒の始まりだ」
クロエは返せなかった。返す余裕がない。
馬車が用意される。
王家の馬車。護衛の近衛が周囲を固め、騎士団が道を開く。
群衆は押し留められ、港の空気はまだひりついたまま凍りついている。
アリシアが一歩前に出かけた。
だがアルベルトが視線だけで止めた。
ここで言うな、ここで問うな。
王宮で話す。
その視線に、アリシアは唇を噛み立ち止まった。
王女として従う。だが目はまだクロエを射抜いている。疑いの目のまま。
アルベルトが馬車に乗り込む。
カタリーナも乗り込む。
そして、カタリーナはクロエを離さないまま乗り込んだ。
クロエは半ば引きずられるようにして馬車の中へ入る。
狭い空間の中で、母の腕がさらに強くなる。
扉が閉まる。
外の音が遠のき、代わりに馬の蹄の音が響く。
王都の石畳を叩く規則正しい音が、逃げ場のない現実を運んでくる。
窓の外では、騎士団が港を統制し始めていた。
噂を抑え、混乱を封じ、国を守るために。
馬車の中の空気は、港よりもひりついていた。
言葉が出ない。
アルベルトは前を向いたまま、沈黙を保っている。
カタリーナはクロエを抱きしめ、嗚咽を飲み込んでいる。
クロエは身動きが取れず、ただ息をしているだけだ。
アリシアは別の馬車でついてくる。
疑いを抱いたまま。
答えを求めたまま。
微妙な空気のまま、王家の馬車列は王宮へ向かった。
馬車の中は、最後まで無言だった。
誰も言葉を出せないのではない。
出せば、この狭い空間に積もったものが、一気に崩れると分かっていた。
カタリーナはクロエを抱いたまま、指先が震えている。
クロエはその腕の中で固まっている。母の温度が、現実すぎて怖い。
アルベルトは前を向き、ただ、呼吸だけが落ち着いている。
王の呼吸だ。
蹄の音が石畳を叩く。
王都のざわめきが遠ざかり、王宮の石の冷たさが近づいてくる。
そして王宮へ。
だが正門には向かわなかった。
アルベルトは馬車に乗る前に、近衛へすでに指示を出していた。
「馬車は裏門へ回せ」
表の門は目が多すぎる。
噂が生まれる、諸侯の耳が動く、外の影が嗅ぎつける。
「出迎えは少数。近衛で周囲を封鎖せよ」
あえて静かに帰還する。
王の帰還が静かであるほど、港の混乱は鎮まる。
そして、銀髪の少女の存在も表に滲まない。
「控えの間まで人払いをしておけ、誰も近づけるな」
命令は具体的で、冷酷なほど合理的だった。
アルベルトの中で、すでに次の局面が始まっている。
「宰相とアリシアを呼べ」
馬車が裏門へ回り込む頃には、手配は完了していた。
裏門周辺は、近衛が壁のように固めている。
足音も少ない。灯りも控えめ。
使用人の姿も見えない。
本来なら王の帰還に走り回るはずの者たちが、影も形もない。
払いが徹底されている。
馬車が止まると、すぐに扉が開かれた。
近衛の隊長が膝をつき、短く報告する。
「御指示の通り。裏門周辺、封鎖完了。出迎えは最小」
「控えの間まで動線確保。人払いも済ませました」
アルベルトは頷くだけで返した。
地面に足をつけた瞬間、国王の姿勢がさらに硬くなる。
ここから先は、王宮という巣の中だ。
外敵だけではない。内側の目もある。
次に降りようとしたカタリーナは、動けなかった。
抱いているクロエを離せない。
アルベルトが一瞬だけ、妻を見る。
その目に感情が浮かぶ、浮かびかけて消える。
「…そのままでいい」
短い許可。
カタリーナは、クロエを抱いたまま馬車を降りた。
クロエは半ば抱えられるように、空気の冷たい王宮の石畳に足を置く。
近衛たちは何も言わない。
見ないふりをするのでもない。
ただ、目に入れないように立っている。
通路が作られる。
裏門から、控えの間まで。
誰もいない、声もない、足音だけが響く。
王宮なのに、空っぽ”だった。
それが逆に怖い。
クロエは喉が乾くのを感じた。
森の静けさとは違う。
人を排除した静けさ。政治の静けさ。
控えの間の扉が開く。
中は簡素だが、整っている。
アルベルトが中へ入り、背後で扉が閉まる。
近衛の気配が外に残る。
扉一枚で、世界が切り分けられた。
ここには、誰も入れない。
アルベルトは椅子に座らず、立ったまま言った。
「宰相が来るまで、誰も口を開くな」
命令ではない。
これが最善だ、という宣言だった。
カタリーナは頷けず、ただクロエを抱きしめたまま。
クロエは息を飲み、リュックの中の小さな重み…セレネの気配を感じる。
「…面倒が極まってきたねぇ」
小さな声が、リュックの奥で囁いた。
クロエは心の中だけで返す。
(うん…)
その時、外の足音が一つだけ近づいてきた。
速いが乱れていない足音。
重みのある足音。
「宰相閣下、参られました」
アルベルトは一拍も置かずに答えた。
「通せ」
宰相が入ってくる。
そして扉が閉まる。
控えの間に、静寂が落ちたまま続いていた。
宰相は一礼したきり、口を開かない。
状況を見て、理解している。
だが、理解したからこそ、どこから手を付けるべきかを計りかねている顔だった。
アルベルトは壁際に立ったまま、ゆっくりと息を吸った。
港で死にかけ、禁呪で戻り、今は王宮に立っている。
それでも判断は揺れていない。
控えの間に残った三人。いや、四人の空気がさらに張り詰めた。
カタリーナは、クロエを抱きしめたまま動かない。
抱きしめる腕は強く、だがどこか縋るようでもある。
十三年分の後悔と、今この瞬間の恐怖が混ざり合っている。
クロエは、どうしていいか分からなかった。
ここは森ではない。
師匠の庵でもない。
王家の中枢だ。
自分はここに立っていい存在なのか。
それとも、すでに立ってしまっている存在なのか。
アルベルトはクロエを見た。
真っ直ぐに、逃げ道を与えない目で。
だがそこに、敵意はなかった。
あるのは、確信と覚悟と、わずかな恐れ。
「…クロエ」
初めて、名を呼んだ。
クロエの肩が僅かに跳ねる。
「君が何者かは、これから確かめる。だがな」
アルベルトは一歩、距離を詰めた。
「少なくとも、今日、君が命を救った。それは事実だ」
視線がカタリーナの腕に移る。
「それ以上に、私の妻がその腕を離せずにいる」
その言葉に、カタリーナの喉が震えた。
声を出せば崩れると分かっているから、何も言えない。
アルベルトは続けた。
「アリシアには、隠さぬ」
「この国の次に立つ者だ、ここで真実を知らねば後で必ず歪む」
それは王としての判断であり、父としての決断だった。
宰相が静かに付け加える。
「殿下なら、遅かれ早かれ辿り着く問いでございます」
控えの間に、足音が近づいてくる。
一人分。
だが、気配は強い。
扉の外で近衛の声。
「第一王女殿下、参られました」
「通せ」
扉が開き、アリシアが入ってきた。
黄金の髪は乱れていない。
顔色は蒼いが、背筋は伸びている。
十三歳の少女が、すでに王女として振る舞っている。
だが、視線が部屋を一巡した瞬間止まった。
銀の髪の少女、クロエ。
アリシアの目が細くなる。
疑いと警戒。
そして、抑えきれない感情。
「…父上」
まず父に向けて一礼。
形式は完璧だ。
次に、母へ視線を向け…そこでほんの一瞬だけ、言葉が詰まった。
母はまだクロエを抱いている。
離していない。
それがすべてを物語っていた。
アリシアは、深く息を吸った。
そして、王女として問う。
「何が起きているのですか」
問いは静かだ。
だが、逃げ場を許さない。
アルベルトは、その問いを正面から受け止めた。
「座れ、アリシア」
命令ではない。
これから聞く話は重いという合図だ。
アリシアは一瞬だけクロエを見てから、椅子に座った。
アルベルトはゆっくりと言った。
「これから話すことは、王家の根幹に関わる」
「そして…お前自身の人生にも関わる」
重みのある前置き。
「十三年前、第二王女クロエは死んだことになっている」
アリシアの指が、ぎゅっと椅子の縁を掴んだ。
アルベルトは、銀髪の少女を見た。
「そして今、その名を持つ者がここにいる」
空気が張り裂けそうになる。
アリシアの視線が、ゆっくりとクロエへ向く。
疑いの目のまま。
だがそこに、ほんのわずか、恐れが混じり始めていた。
これから語られる真実が、自分の十三年を揺るがすと本能で察しているからだ。
控えの間で、
王家の時間が、ゆっくりと歪み始めた。
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