第2話 第一王女アリシア
セレネは両手を重ね、空気に指で境界を描いた。
月光が広がる。
光ではなく、概念が広がる。
因果を捻じ曲げる魔法。
傷を負った因果を変え、負っていないことにする改変魔法。
世界の履歴そのものを書き換える、許されない術。
船の上の空気が凍ったように静かになり、海の音すら遠のく。
セレネが低く詠唱する。
「月よ。境界を返せ」
その言葉と同時に、アルベルトの傷が治るのではなく、なかったことになる。
裂けた服が元に戻るわけではない。
血が逆流するわけでもない。
ただ、世界が「最初から傷を負っていない」状態へ戻る。
アルベルトは大きく息を吸い、咳き込み、目を開いた。
回復したのではない。戻った。
クロエは息を止め、次に震えた息を吐いた。
「助かった…?」
カタリーナが両手で口を押さえ、涙を零す。
夫が生きている。
でもそれ以上に、目の前で起きた禁呪が、十三年前の喪失と繋がってしまいそうで恐ろしい。
そして、禁呪のペナルティが来た。
セレネの身体が、ふっと薄くなる。
月光に溶けるように。
「師匠!?」
クロエが叫ぶ。
セレネは最後に、面倒そうに手を振ったように見えた。
次の瞬間、セレネは消えた。
クロエの呼吸が止まる。
だが、クロエの背中のリュックから、超小さな声がした。
「…ここじゃ」
クロエは思わず「え?」と声を漏らし、リュックを抱え込む。
恐る恐る開けると、そこにはいつものポーションセット、応急キット。
そして、セレネが普段持たせていた小さな人形が入っていた。
身代わり人形、とセレネが言っていたやつ。
その人形から、声がする。
「緊急避難でこの人形に移った。養えよ、クロエ」
クロエは一瞬固まって、次に噴き出しそうになった。
泣き笑いのまま、頷く。
「…うん。養う。絶対養う」
カタリーナがそのやり取りを見て、呆然としたまま、でも少しだけ肩の力が抜けた。
この異常な状況で、唯一いつも通りの会話だったからだ。
救助船が港へ戻る。
港は沸き立っていた。
救助船が桟橋に擦れ、縄が投げられ、船員たちが必死に固定した。
港の空気が一気に戻ってくる。
歓声、泣き声、怒号、祈り。
誰かが名前を叫び、誰かが膝をつき、誰かが空を仰いだ。
「アルベルト王が無事だ!」
「カタリーナ王妃殿下も…!」
人々が沸き立つ中、最前線へ割って出てくる影があった。
黄金の髪。
まだ幼さの残る顔立ちなのに、背筋は真っ直ぐで、目は鋭い。
騎士たちが自然に道を開ける。命令されずとも、空気が従う。
第一王女アリシア。
彼女はまず、国王アルベルトを見た。
生きていることを確認し、次に王妃カタリーナを見る。
カタリーナは震える手で、アルベルトの腕に触れ、確かめるように額を寄せていた。
そして、視線がずれた。
カタリーナの腕の中にいる存在へ。
銀の髪の少女。
港に戻るまでの間、カタリーナは一度もクロエを離さなかった。
離せなかった、という方が正しい。
アルベルトが生きていることに安堵しているはずなのに。
それでも、クロエの肩を抱き寄せる手の力が緩まない。
まるで、十三年前に落としたものを、今度こそ離さないと決めたように。
「大丈夫。大丈夫よ…」
カタリーナの声は震えている。
その言葉が誰に向けられているのか。
夫か、娘か、自分自身か、本人にも分からないのだろう。
クロエは抱きしめられるまま、身体を強張らせていた。
母の温度。
塩と血と薬草の匂い。
母親というものの感触がいきなり現実になりすぎて、どうしていいか分からない。
その瞬間、視線がぶつかった。
アリシアとクロエ。
黄金と銀。
姉と妹であるはずの二人が、十三年ぶりに交差する。
だが、アリシアの目は姉の目ではなかった。
疑いの目だった。
誰だこの娘は。
船にこんな娘は乗っていないはずだ。
救助に出したのは漁船だ。王宮の者は最低限。乗客の顔は把握している。
この銀髪の少女は、どこから湧いた?
それだけでも十分に不審だ。
だが、それ以上にアリシアの胸を刺したのは距離だった。
王妃、母カタリーナとの距離。
近い、近すぎる。
クロエが母に縋りついているのではない。
逆だ。
カタリーナが、銀髪の少女を抱きしめている。
必死に、離さないように。
夫との生還の場でさえ、娘のように抱え込んでいる。
アリシアの視界が一瞬だけ狭くなる。
母は私を見ていない。
そんな幼い感情が喉元まで上がりかけて、アリシアはそれを叩き潰した。
王女の仮面が、反射で降りる。
アリシアは一歩前に出た。
近衛が無言で周囲を固める。
騎士団が群衆を押し戻し、空間ができる。
アリシアはその中心で、まず母に声をかけた。
「母上」
短い呼びかけ。
だが声には刃が混じっている。感情ではなく、状況把握の刃。
カタリーナがはっとして顔を上げる。
娘の声で現実に引き戻されたように、目が揺れた。
それでも腕は緩めない。銀髪の少女を抱いたままだ。
アリシアの視線が、クロエへ移る。
銀髪の少女は、怯えているようにも見えた。
だが目の奥にあるものは、怯えだけじゃない。
守りたいと守られたいが、同時にある目。
そして…どこか懐かしい色。
アリシアの記憶の底が、ほんの少しだけ疼いた。
でも、それは今の判断材料にならない。
だからアリシアは、まず最も王女らしい言葉を選んだ。
「…その方は、どなたですか」
問いは丁寧だ。
だが、拒絶の温度がある。
クロエが答えるより先に、カタリーナの喉が震えた。
言葉になりかけて、また沈む。
十三年前に奪われた名が、口の中に引っかかっている。
アリシアはそれを見逃さない。
母が、言葉を詰まらせる。
アリシアの目がさらに鋭くなる。
「…船で何があったのです」
静かに問う。
母が答えなければ、誰かが答える。
その誰かが敵であっては困る。
だから今ここで、情報を押さえる。
カタリーナは唇を開き、やっと声を絞り出す。
「アリシア…」
娘の名を呼ぶ声は、泣きそうで、壊れそうで、でも何かを決めた声だった。
そして、腕の中の銀髪の少女をさらに強く抱いた。
まるで、次に放った言葉で世界が変わることを知っているみたいに。
アリシアはその仕草を見て、確信に近いものを抱く。
この娘は、ただの少女ではない。
そして、胸の奥に小さな怒りが生まれる。
母上は、私より先にこの娘を抱いた。
それは嫉妬ではない。
王女としての危機感だ。
王家の秘密が、目の前で形を取っている。
港の風が吹き、旗がばたついた。
その音が、次の章の合図みたいに響いた。
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