表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

16/17

第16話 絶望の穴

一通りの説明が終わると、クロエは落ち着かない足取りでアトリエの中を見て回った。


ここが自分の場所になると思うと、細部まで目が行く。


一階。


通りに面したスペース。

瓶を並べる棚、カウンターにできそうな台。

外からの光が入る窓。

これなら、錬金術師の店として違和感がない。


その奥に、六畳ほどの部屋。

客を通さない場所。

道具の手入れや、ちょっとした応対にも使える。

座卓を置けば、打ち合わせもできる。


さらに奥、大きめの部屋。


作業台が二つ置ける広さで、換気のための小窓もある。

壁際には器具を掛けられるように釘が打ってあり、床も一段だけ丈夫にしてある。

薬品をこぼしても、すぐ拭けるやつだ。


台所もあった。


流し台は簡素だが、火を使える。

まな板を置ける台もある。

鍋も吊れる。


そして、倉庫のような小部屋まで。


樽を置けるし、乾燥棚も作れる。

粉ものを湿気から守れる。


クロエの脳内に、勝手に未来が並ぶ。


(ここで蒸留器置いて…こっちで乾燥…台所で試作…)


料理もできそうだ。

というか、生活の工房として完璧に近い。


二階へ上がる。

生活空間だ。


寝室に書斎。

机が置けるし、帳簿を広げられる。

研究ノートも積める。

窓からの光もいい。


「最高」


クロエは、思わず呟いた。


アークが微笑み、ジルベールも小さく頷く。

気に入ってくれたなら仕事が早い、という顔だ。


その時だった。


クロエは、ふと違和感に気づいた。


(あれ?)


生活空間を見たのに、それを見ていない。


クロエは、恐る恐る扉を一つ開けた。


トイレ。


そこにあったのは、中世式のあれだった。


穴、ただの穴。


便座ですらない。

衛生の概念が薄いのではない。

ここの標準が、これなのだ。


クロエの顔が、すっと無表情になった。


さらに視線を巡らせる。


(…お風呂は?)


ない。


浴室がない、浴槽がない。

湯気が立つ未来が、ここには存在していない。


クロエの頭の中で、森の庵が勝手に再生された。


森のアトリエでは、簡易の水洗トイレを自作していた。

便器も日本式。

水の落ち方、匂いの逃がし方、掃除のしやすさまで考えた。


浴室も拘った。


木を加工して浴槽を作り、

水はポンプで井戸から引いた。

お湯だけは魔法でどうにかした。

あれは手間だったけれど、最高だった。


森ではできた。


なのに。


ここは王都で、ちゃんとした家で、生活が整っているのに。


トイレが穴。

風呂がない。


クロエの膝が、がくっと落ちた。


その場に膝をつく。

床に手をつく。


魂が抜けたみたいに。


「…むり」


声が消えそうに小さかった。


アークが近づき、心配そうに覗き込む。


「クロエ嬢…?」


ジルベールは状況が理解できず、眼鏡の奥で瞬きを繰り返す。


「え、ええと…何か問題が?」


クロエは穴を指差し、震える声で言った。


「トイレが穴…」


ジルベールは一拍置いて、ようやく察した。

察したが。


「い、いやこれが普通なのでは…」


アークは咳払いをして、視線を逸らす。

護衛としては平常運転だが、感想としてはどう答えていいか分からない。


リュックの中から、セレネ人形の声が落ちた。


「弟子よ、現実と戦う時が来たのう」


クロエは床に額をつけそうな勢いで呻いた。


「文明が…ない」


一目惚れしたアトリエ。

そのはずだった。


クロエは今、人生で一番強い敵と対面していた。


穴。

そして、風呂なし。


クロエは膝をついたまま、深呼吸を一回。


そして、顔を上げた。

目が研究者のそれに変わっている。


「うーん」


呟いて、穴を見て…決断する。


「まずはトイレだ」


最悪、お風呂は数日なら誤魔化せる。

魔法でお湯を出して流せばいい。

拭けばいい、耐えればいい。


でもトイレは無理だ。


王宮のトイレはまだマシだった。

我慢できた。

浴室もあった。

文明がギリギリ残っていた。


ここにはない。


クロエは立ち上がり、袖をまくった。


「トイレを作る。今すぐ」


アークが目を瞬く。


「…作る、とは」


ジルベールが慌てて口を挟む。


「殿下、いえクロエ殿、建物の改修は契約上…」


クロエはぴしゃりと言った。


「改修じゃない。生存」


声が強い。

完全に、錬金術師の声だ。


クロエは調合室(予定)へ歩きながら、頭の中で設計を組み立てていく。


「たぶん下水なんてない」

「あっても近代的な管はない」

「整える金も時間もない。だから…簡易水洗」


ジルベールが困惑した顔で聞き返す。


「すいせん…?」


クロエは手を止めずに説明する。


「水で流すの」

「トイレの下に汚物槽を作って、そこへ落とす」

「でも落とすだけだと溜まって終わり。匂いも出るし、衛生面も終わる」

「だから、森の時みたいに浄化システムを組む」


アークは黙って聞きながら、扉と窓を確認している。

熱が入ったクロエは止まらないと、理解した顔だ。


クロエは指で空中に図を描く。


「砂利、砂、炭。簡易フィルター」

「上澄みを順番に通して濾す。汚物は…魔法で処理」


ジルベールの眼鏡の奥が震える。


「ま、魔法で…汚物を?」


クロエは平然と頷く。


「うん。浄化か、分解か、乾燥か、焼却」

「森でやってた。魔法があるのに、トイレが穴なのは怠慢だよ」


セレネ人形がリュックの中で小さく笑った。


「よしよし。弟子が文明を持ち込むぞい」


クロエはジルベールに向き直る。


「材料いる。買い出し!」


「し、支出は帳簿に」


クロエは指を折りながら、必要品を列挙する。


「木材。板と角材。蓋ができる箱」

「桶か樽。できれば二つ。沈殿槽と濾過槽は作るか…」

「砂利と砂。粒度違いで」

「できれば硬い炭」

「石灰があれば欲しい」

「あと油紙、布、縄、釘、金具」


アークが静かに言った。


「…私が手配します。店を選びます」


「アーク、お願いね」

「私は現場の寸法測る。あと便器周りの設計する」


ジルベールが慌てて帳面を開く。


「え、ええと…予算の上限は…」


クロエは金貨袋を持ち上げて見せた。


「歳費の範囲でやるよ」

「衛生環境整備でいける。住環境の改善は説明つくでしょ?」


ジルベールが固まる。


(この王女、財務の言葉で殴ってくる)


クロエはもう止まらない。


「それと、近隣に匂いが漏れたら噂になるから…」

「密閉と換気が重要よね、排気は屋根の上へ」

「煙突みたいに上げれば、匂いは薄まる」


アークが頷く。


「屋根への導線は確認します」


クロエは、穴の前に戻り深呼吸した。


「よし」


そして宣言する。


「材料!買い出しだ!」


セレネ人形が勝利宣言みたいに言った。


「これぞ錬金術師。まずトイレ」


ジルベールは、眼鏡を押し上げながら半分呆れた顔で呟いた。


「…王都で、最初に整備するのが…トイレ」


クロエは真顔で答えた。


「文明はトイレから。これ常識」


こうして、非常勤王女クロエの最初の大事業は。

衛生インフラの自作から始まった。

続きが気になる方は、ブクマお願いします!

また、少しでも面白いと感じた方は評価お願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ