第13話 クロエのアトリエ
裏門を抜けた瞬間、空気の匂いが変わった。
王宮の石と香の匂いが、ふっと遠のく。
代わりに鼻に入ってきたのは、人の匂いだ。
焼いたパン、干した魚、香辛料。
馬の匂いと、荷車の軋む木の匂い。
そして、どこかで鳴っている金属音。
王都は、活気があった。
クロエの足元の石畳は王宮より荒い。
同じ石でも、擦れ方が違う。
歩かれる石の顔をしている。
アークが半歩前を歩き、視線だけで周囲を撫でる。
距離は近いが、密着はしない。
人混みで自然に見える護衛の距離だ。
クロエは目を細めて、街を見た。
ここは回廊国家アルトフェンの心臓。
北の天蓋山脈で大陸を横断する道が絞られ、南の海で島国と大陸の物流が交差する。
陸路の要衝。
そして、大陸と島国の玄関口。
その二つが重なった場所は、こうなる。
国際都市。
角を曲がるたびに言語が変わる。
訛りが変わる。服が変わる。匂いが変わる。
鎧の意匠が違う一団が、荷車の横で値切り交渉をしている。
あの刺繍のある上衣は、東の連邦風。
鋲の打ち方が荒い革鎧は、帝国の傭兵だろう。
港から来たらしい男たちは、島国の幕府の言葉を交えながら笑っている。
帝国、連邦、そして島国の幕府が入り乱れる。
同じ街に、同じ時間に、同じ欲が渦巻いている。
それを、王都の人々は平然と飲み込んで暮らしている。
慣れているのだ。
あるいは慣れなければ、生き残れないのだ。
クロエは思わず、心の中で呟いた。
(…これ、情報がお金になる街だ)
錬金術の素材だけじゃない。
噂、人脈、流行、値段の変動。
どの店が幕府筋と繋がっているか。
どの酒場が帝国の連絡所になっているか。
どの宿が連邦の商会と近いか。
全部が素材だ。
リュックの中で、セレネ人形が小さく言った。
「…騒がしいのう」
「王都だからね」
「森が恋しい」
「王都に住むって言ったの師匠でしょ」
「言った、…撤回したい」
クロエが笑いそうになると、アークが小声で釘を刺す。
「クロエ嬢、立ち止まる際は壁際へ」
「あ、ごめん」
即座に壁際へ寄る。
それだけで人の流れから外れ、視線の圧が減る。
アークは穏やかに続けた。
「王都は人が多い分、守りやすい」
「ですが、紛れやすくもあります」
クロエは頷いた。
守りやすい。紛れやすい。
まさにこの街の本質だ。
クロエは三つ編みを指で軽く押さえ、栗色の髪の感触を確かめた。
(大丈夫。今の私は、王女じゃない)
ただの錬金術師見習い。
いや、錬金術師として生きる娘だ。
そしてこの街は、そのただの一人をいくらでも飲み込む。
国際都市アルトフェン王都。
帝国と連邦と幕府が交差する回廊の心臓。
クロエの新しい居場所が、
その喧騒の中に用意されている。
市場の端を越えた瞬間、空気が変わった。
喧騒が、すっと一段落ちる。
怒号や値切り声が遠のき、代わりに聞こえてくるのは、生活の音だ。
鍋を叩く音、水を汲む音。
宿の扉が開閉する音。
誰かが笑って、誰かがため息をつく音。
下町の匂い。
市場ほど脂っこくなく、王宮ほど澄んでもいない。
人が暮らしている匂いだ。
通りの両脇には、数件の宿が並んでいる。
派手さはないが、看板は手入れされおり、窓は割れていない。
昼間でも人の出入りがあり、夜でも完全に閉じることはなさそうな雰囲気。
人の行き来は多い。
だが、雑多ではない。
荷を運ぶ者、宿に戻る者、子どもを連れた親。
それぞれが、ここを通る理由を持って歩いている。
クロエは自然と、肩の力が抜けるのを感じた。
(…ここ、いい)
派手じゃない。
目立たない。
でも、孤立していない。
アークも、周囲を見回してから小さく頷いた。
「悪くない立地です」
護衛としての評価だ。
逃げ道がある。人の目がある。
夜になっても完全に死角にならない。
そして、通りの先。
クロエの視線が、自然と一点に吸い寄せられた。
それは、ひっそりとした建物だった。
大きすぎず、小さすぎず。
一階は石造りで、二階は木。
正面の扉は素朴だが、しっかりしている。
看板はまだ出ていない。
壁際に小さな棚があり、瓶や木箱を置けそうなスペースがある。
窓は南向きで、光が入りやすい。
アトリエ向きだ。
クロエの足が、無意識に止まった。
「あれ…?」
アークが、肯定するように言った。
「はい。あれが、王国府が用意したアトリエです」
クロエは、しばらく言葉が出なかった。
派手な建物じゃない。
王家の威光も感じない。
でも。
(ちゃんと、私の場所だ)
そう直感した。
リュックの中で、セレネ人形が小さく息を吐く。
「…日当たり、良さそうじゃ」
「うん」
「宿も近い」
「うん」
「菓子屋は?」
「まだ分かんない!」
クロエは思わず笑ってしまった。
アトリエの前に立った瞬間、クロエの胸の奥がきゅっと鳴った。
一目惚れ、それは理屈じゃない。
日本にいた頃、古い絵本で見た魔法使いの工房。
小さな扉、柔らかな窓、木と石の温度が混ざった建物。
ああいう場所に憧れて、研究室の片隅で「いつか自分の作業場が欲しい」と思っていた。
そのイメージが、目の前にある。
「…ここ、好き」
思わず漏れた声は、王女のものじゃなかった。
ただの、十三歳の本音だった。
アークが軽く周囲を確認し、頷く。
「入りましょう」
扉を開ける。
中はさらに良かった。
空気が澄んでいる。
木の床は磨かれ、角に埃がない。
棚は空っぽなのに、ここから何かが始まる匂いがする。
作業台がひとつ。
窓際に小さなテーブル。
壁には器具を掛けられる釘。
奥には小さな仕切りがあり、寝床にも、倉庫にもできそうな空間。
そして何より、掃除が行き届いている。
(王国府が手配したんだな)
宰相の仕事だ。
錬金術師として暮らすという表向きの生活を、最初から破綻させないための配慮。
クロエが部屋の空気を吸い込んだ、その時。
奥から人が出てきた。
官僚らしき男。
年はアークと大差ない。二十前後。
背筋は伸びているが、騎士ほどの威圧はない。
眼鏡が、几帳面な印象を与える。
髪も服も派手さはなく、清潔だ。
手には帳面。いや、書類束を抱えている。
男はクロエを見て、すぐに一歩下がり深く礼をした。
「クロエ…殿。王国府財務より参りました」
言い方が慎重だ。
殿下と呼ぶべきだが、ここでは錬金術師として。
その矛盾を、舌先で丁寧に避けている。
「ジルベールと申します」
家名は名乗らない、平民だ。
しかし、平民で王国府の財務官僚。
それ自体が、ジルベールの優秀さを示していた。
貴族の縁故ではなく、実力でそこに立っている種類の人間。
この国が回廊国家として生き残ってきた理由が、こういうところにある。
クロエは自然と背筋が伸びた。
(この人優秀だ)
アークも、さりげなくジルベールの位置取りを見ている。
武器を持たない相手でも、危険の可能性はゼロではない。
だが、ジルベールの所作には乱れがない。
むしろ、失礼がないように神経を尖らせている。
ジルベールは続けた。
「本アトリエは王国府の手配により、賃貸契約を整えております」
「表向きは、錬金術師クロエ殿の開業支援として処理し、王家との直接の紐づけは避けました」
言葉の端々があまりにも現実的で、クロエはちょっと安心した。
夢みたいなアトリエでも、生活は現実だ。
家賃、契約、近隣への説明、税、仕入れ。
そういう地味な骨格がなければ、すぐに崩れる。
クロエは言った。
「…掃除、ありがとうございます」
ジルベールは眼鏡の奥で、ほんの少しだけ驚いた顔をした。
礼を言われ慣れていない顔だ。
「いえ。必要なことをしたまでです」
そして、きっちりと言葉を整える。
「今後、当面は私が窓口となります」
「器具の調達、消耗品、帳簿、対外的な手続き、必要に応じた偽装書類の整備まで担当いたします」
偽装書類。
さらっと言う辺りが財務官僚だ。
やると決めたら、やる。倫理の顔ではなく、国の顔で動く。
クロエは喉を鳴らした。
「よろしく、ジルベールさん」
ジルベールが微笑む。
「はい。こちらこそ」
その時、リュックの中でセレネ人形が小さく呟いた。
「眼鏡…真面目そうじゃのう。働け」
クロエは心の中でツッコミを入れる。
(師匠、初対面でそれ言うのやめて)
でも、アトリエの中の空気は、確かに始まりだった。
王宮の息苦しさとは違う。
森の孤独とも違う。
ここは、クロエが錬金術師として生きる場所。
そしてその場所を支えるのは、
護衛の騎士アークと、実力で上がってきた若き官僚、ジルベールだった。
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