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第1話 始まりの日

森の庵は、いつも通り静かだった。


苔むした石の間を流れる細い水音。

乾いた薬草を吊るした梁の軋みと、薪の匂い。

そして、寝床代わりの長椅子に寝転がったまま、まったく動かない老婆。


「…セレネ師匠。朝だよ」


クロエが言っても、返事はない。


「朝ごはんないよ。昨日の鍋、焦げてるよ」


「…気のせい」


長椅子から、くぐもった声が返ってきた。


相変わらずだ。この婆さんは森の魔女を名乗るくせに、生活能力がない。

だから、弟子のクロエ。

十三歳の魔女見習いであり、錬金術師が、掃除も洗濯も鍋の面倒も見る。


クロエは手を止めて、吊るしてある薬草を軽く指で弾いた。乾いた匂いが立つ。

これらを調合し、蒸留し、瓶に詰めるのがクロエの日常だった。


いや、日常だった、のかもしれない。


クロエはふと、自分の指先を見た。

前世の指先を思い出す。白い手袋。ガラス器具。試薬の匂い。夜の研究室。


令和日本の女子大学生。物理と化学専攻。研究室に入り浸り。ちょいオタク気質。


そんな自分が、気がついたら生後半日の赤ん坊だった。


布の匂い。乳の匂い。見上げた天井。聞こえる侍女たちの囁き。


「第二王女殿下…クロエ様」


「隣は第一王女アリシア殿下。黄金の髪」


双子だった。

自分は銀の髪で、隣で目を開けていた赤ん坊が、黄金の髪の姉アリシア。


その日の夜、王宮に賊が侵入した。


音封じの魔法。侍女の悲鳴が消え、応援が呼べない。

迫ってくる影。何もできない赤子の身体。


ないの?お決まりのチートはないの?


頭の中で叫び、必死に理屈で魔法を組み立てて、か細い「あー」で発動させた。

月のような光が溢れ、封じられていた音が戻る。


助けが来た。けれど、間に合わなかった。


賊はクロエを抱えて闇へ消えた。


そして森へ捨てられた。


冷たい土、大木の根元。

世界は広く、赤子は小さく、命は軽かった。


泣き叫ぶしかない。泣き叫びながら、また月光の魔法が暴発して。


そこへ現れたのが、セレネだった。


「月が降りてきたと思えば、赤ん坊かい…」


拾われた。

育てられた。


そして十三年。


クロエは今、森の庵で魔女見習いとして、錬金術師として、セレネの弟子として生きている。


「…師匠、起きて。今日は蒸留の日」


「めんどい…」


「じゃあ私がやる。あと掃除もする。あと洗濯もする」


「…えらい」


えらいのは私じゃなくて、このニートみたいな師匠の生活を回してる自分だ。

と思いながら、クロエはため息をついた。


その時だった。


セレネが、急に起き上がった。


眠そうな目が、すっと細くなる。

森の婆さんの目じゃない。月の魔女の目。


セレネは庵の外へ出て、森の外れ、風が抜ける場所まで歩き海の方角を見た。


「…嫌な風だ」


短く呟き、しばらく黙る。


そして決めた。


「王都へ行くよ」


クロエは意味も分からないまま頷いた。

師匠がこういう目をする時は、理由を聞いても無駄だ。理由は後から現実が持ってくる。


クロエは飛行魔法を唱えた。


失われた魔法。

魔女だけが使える魔法。


さらに光を屈折させる魔法を重ね、二人は王都へ向かった。



王都が見えた瞬間、異様な熱が港に集まっているのが分かった。


人、人、人。

歓声、楽団、旗。


そして、大きな新造船。


アルトフェン王国と南の島国の幕府が、技術交流の末に完成させた王家の船。

処女航海。近海をぐるりと回るだけの祝い。


「国王陛下と王妃殿下も乗ってるってよ!」


誰かの声が、誇らしげに響く。


クロエの胸が、ひゅっと縮んだ。


国王と王妃、それはこの世界での父と母かもしれない。


船が動き出し、歓声が跳ねる。


船影がだんだん小さくなっていく。


その時、腹の底に響く爆音。


水柱が上がり、港は一瞬で悲鳴の海になった。


「騎士団!港から人を遠ざけろ!」

「漁船でも何でもいい、出せ!今すぐだ!」


黄金の髪の少女が叫び、指揮を執る。


恐らく十三年前、隣に寝ていた赤ん坊。


今は、王都を動かす第一王女アリシア。


クロエの喉が鳴った。


そして、次の瞬間には身体が動いていた。


「お父さん、お母さんかもしれないの!」


思考より早い。

クロエは飛行魔法を、出してはいけないほどの速度で、海上の船へ向かった。


「クロエ!」


セレネの声が背後で追う。

面倒そうな声のはずなのに、今は本気で焦っている。


「まったく…仕方ないねぇ!」


結局、セレネも追ってきた。




船は揺れていた。


煙、火薬の臭い、叫び声、水の侵入。

甲板を走る足音。

誰かが血を流し、誰かが海へ落ち、船員が必死に指示を飛ばしている。


クロエは甲板に降り立つと同時に、視線で中心を探した。


そこにいた。


王妃と思われる女性。


倒れ込む彼女を、誰かが庇うように覆いかぶさっていた。


服装が豪奢だ、恐らく国王。


コートの隙間から赤いものが滲み、胸元が大きく裂けている。

顔色は青く、呼吸が浅い。

脈が弱い。明らかに致命傷に近い。


クロエは一瞬、世界が遠のくのを感じた。


これは、無理かもしれない。


でも、無理かもしれないで終わらせたくなかった。


クロエは膝をつき、回復魔法を組み立てた。


簡易治癒。止血。痛覚の抑制。循環の補助。

森で学んだ範囲の全てを、焦りながら組み合わせる。


「お願い…止まって!」


月光がクロエの指先から溢れ、傷口の縁を寄せようとする。

だが、足りない。深い。出血が多すぎる。内側が壊れている。


見習い魔女の魔法では、厳しい。


クロエの目に涙が滲む。


「いやだ!こんなの!」


その横で、カタリーナがクロエを見た。


固まっていた。


夫が、国王が重傷だというのに、視線がクロエから外れない。

まるで十三年前の夜が、突然目の前に戻ってきたみたいに。


銀の髪、月の光。

失ったはずの名。


カタリーナの唇が震えた。


「……」


言葉が出ない。

けれど、その目は叫んでいた。


クロエ?


その時、船員が叫ぶ。


「助けの船が来ました!」


海の向こうから、漁船が数隻必死に近づいてくる。

アリシアが港から出させたのだろう。


セレネが甲板に降り立つ、状況を見るなり顔をしかめた。


「…ほんと、面倒だねぇ」


いつもの口調。

でも、目は月の魔女の目のまま。


「とりあえず運ぶよ」


セレネが指を鳴らすように手を振ると、国王の身体がふわりと浮いた。

重力の支配が一瞬だけ緩み、傷口を揺らさないよう空中で固定される。


クロエは王妃の肩を支え、救助船へ移動する。


揺れる海、揺れる甲板、揺れる担架。

すべてが命を削る揺れだ。


救助船に乗った瞬間、国王の容態はさらに悪化した。


呼吸が乱れ、脈が落ちる。

目の焦点が消える。


クロエは泣きながら魔法とポーションを使った。


止血薬、強心薬、魔力増幅の小瓶。

普段なら慎重に使うものを、躊躇なく叩き込む。


「お願い…お願い!」


クロエの声が掠れる。


その姿を王妃、カタリーナはただ見つめていた。


見つめながら、何かを思い出している目だった。

十三年前の夜。赤子の泣き声。月光。音が戻った瞬間。

そして、奪われた銀の髪。


セレネが、とうとう深くため息をついた。


「…ほんと、仕方ない」


その声は諦めではない。決断の声だった。


セレネはクロエの前にしゃがみ、目を合わせる。


「クロエ」


クロエは涙でぐしゃぐしゃの顔で頷く。


「助けたいのかい?」


クロエは即答した。


「助けたい!」


セレネは続けた。


「責任、取れるかい?」


クロエは泣きながら、でも迷いなく叫んだ。

「取る!取れる!」


その瞬間、セレネの表情が変わった。


森の怠け者の婆さんの顔が消える。

月の魔女セレネの顔だけが残る。


「…なら、見せてやるよ。魔女の禁呪を」

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