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金木犀の鍵と、泣くと記憶が抜ける女宿  作者: 乾為天女


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第9話 大道芸と、泣けない客

 夕方の広場は、潮風に粉が舞っていた。市場の甘味屋が閉まってから、笑い声も少し乾いて聞こえる。けれどダーテンハーンは、乾いた音ほど弾ませるのが得意らしい。石畳の真ん中へ古い木箱を置き、帽子の中から色の違う布切れを三枚、ひらりと出した。


 「本日の主役は、台所の鍋! ……じゃなくて、あなたの心の結び目!」


 言い終える前に自分の足に布が絡まり、わざとらしく前のめりに倒れた。観客が息をのんだ瞬間、彼は片手だけで起き上がり、箱の上で膝を叩いて笑わせる。港の女たちが肩を揺らし、子どもが声を上げた。魚籠を抱えた男まで、つい口元が緩む。


 その輪の外に、ひとりだけ動かない女がいた。濡れた髪をまとめるでもなく、袖口を握ったまま、まばたきの回数を数えるように舞台を見ている。笑い声が大きくなるほど、唇が薄く閉じる。目の端が赤いのに、涙が落ちない。


 ダーテンハーンは転ぶふりをしながら、ふっとその女の前に近づいた。帽子を胸に当て、声を少し落とす。


 「笑わなくてもいい。見るだけで、今日は十分だ」

 女の喉が小さく鳴った。

 「……泣くと、抜けるの」

 「歯?」

 「記憶。泣いた瞬間に、顔が、名前が、抜ける。だから……泣けない」


 言い終えた女は、息を吸うたびに肩が震えた。笑いそうになって、涙が出そうになって、どちらも止める。その止め方が、糸を強く引き結ぶときの手つきに似ていて、エリは胸の奥がきしんだ。


 エリは、女の指先を見た。爪の間に、乾いた縄の繊維が残っている。港の仕事の手だ。泣けない、と言うときの喉の鳴り方が、祖母を送った朝の自分に重なった。喪服の襟を直して、泣くのは夜でいい、と自分に言い聞かせたあの朝。


 ダーテンハーンが箱の上で布を翻し、客席へ向かって大げさに囁く。


 「泣けない人には、泣かせる話をしない。かわりに——転ぶ!」


 言うや否や、また足が絡まって倒れた。今度は転ぶ直前に、女の視界から自分の体を少しだけずらす。笑い声の波が女へぶつからない角度を選ぶみたいに。


 エリは、胸の奥のきしみを、いまは針で縫わないことにした。この女が選べるのは、泣くか泣かないかじゃなく、ここへ来るか来ないかだ。


 「宿へ来ますか。女だけが泊まれる場所です」

 エリが言うと、女は視線だけで頷いた。頷く角度が浅い。誰にも言えない癖が、首に残っているみたいだった。


 夜の食堂は、金木犀茶の湯気が薄く揺れた。砂糖が手に入りにくい今、甘い匂いを出すのにも工夫がいる。エリは乾花の袋を二つに割り、片方だけを湯へ落とす。甘さを節約するのではない。相手が息をしやすい濃さを探すのだ。


 女は上着を脱がず、椅子にも深く座らない。手袋を外すと指先に細い傷が並び、紙を何度も折った跡が見えた。エリは針山を引き寄せ、祖母の針箱から青い糸玉を出す。触れた瞬間、ひやりと冷たい。夜明けの運河を閉じ込めたみたいな糸だ。


 「内側に、これを縫います。泣かなくても、結び目が緩むように」

 女は返事の代わりに、襟を少しだけ持ち上げた。許可の仕草だった。


 エリは上着の裏地を小さくほどき、青糸玉を布に包んで縫い留めた。針の進みは迷わない。迷いがあるのは、問いかける言葉のほうだ。


 「わたしの好きなスイーツ。今夜は、何にしますか」

 女は一度、唇を開きかけて閉じた。のど仏が上下する。言えば、何かがほどける。ほどけたら、涙が来る。来たら、消える。そんな順番が顔に書いてある。


 ダーテンハーンが台所から顔だけ出した。自慢げに、小さな包みを指で回す。

 「ほら、旅の道具袋に残ってた。小さいけど、強い味だよ」

 包みの中から、白い紙に巻かれた飴がひとつ転がった。乳の匂いがわずかに立つ。


 女はそれを見て、喉の奥で笑いそうになった。笑いを押さえるために、目元に力が入る。エリはすぐに金木犀の匂い袋を小さく縫い、女の胸の内側へ添えた。香りと甘味が、同じ場所で息をするように。


 「……ミルク飴」

 女が言った。声が震えたのに、涙は落ちなかった。


 飴を舌の上で転がすと、女の肩がすっと下がった。青糸が冷やすのか、金木犀が温めるのか、どちらとも言えない間で、糸の結び目が少しずつ緩む。エリは針先を置き、女の手元を見守った。


 女の視線が、空の一点に止まった。そこには何もないのに、ある。短い幻が流れる気配がした。港の桟橋、背中の小さな影、離れ際に言えなかった一言。女の唇が動く。音にならない。


 エリは促さない。ただ湯気の向こうで、呼吸を合わせた。別れのトリガーは、涙だけじゃない。手放す作法を、本人が選べるなら。


 女はゆっくり息を吸い、そして長く吐いた。吐いた息は、途中で途切れず、最後まで細く伸びた。泣かないまま、別れを受け入れる呼吸だった。胸の内側で、結び目がほどける感触が、エリの指先に伝わる。


 その瞬間だった。ほどけた糸の端が、ふわりと宙へ浮き、食堂の梁をなぞって上へ伸びた。まるで見えない手に引かれるみたいに、屋根裏へ吸い寄せられていく。


 エリは立ち上がりかけて止まった。女がまだ、静かな息を続けている。守るべき夜が、今ここにある。屋根裏の床板が、遠くで小さく鳴った。


 ダーテンハーンが、声を出さずに眉だけ動かした。リュカは扉の位置を半歩ずらし、階段への視線を遮る。整える動きが速い。


 エリは女の上着の裏、青糸の縫い目をそっと撫でた。糸は冷たいまま、ほどけた夜の形を保っている。けれど、吸い寄せられた糸の先はもう見えない。


 金木犀茶の湯気が、いつもより薄く揺れた。



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