第8話 祖母の針箱
雨上がりの朝だった。石畳はまだ濡れていて、運河の縁に並ぶ木箱は薄い湯気を吐いている。宿の裏口を開けると、潮の匂いに混じって、金木犀の乾いた甘さが一瞬だけ鼻を撫でた。昨夜ミレイに淹れた茶の残り香が、台所の梁に残っているのだろう。
エリは火を起こす前に、祖母の裁縫机の引き出しを引いた。いつもなら針山を置いて終わる場所だ。けれど今朝は、指が勝手に奥へ伸びる。木の箱の角に、爪が当たった。
針箱は掌より少し大きい。蓋の中央に、細い糸で渦巻きが縫い留められている。祖母の癖だ。剥がれそうな端は、必ず縫っておく。
蓋を開けると、針の並びがやけに整っていた。太さごとに列が揃い、糸巻きは色で分けられ、指ぬきは磨かれている。見ているだけで背筋が伸びる。エリが小さく息を吐いた、そのとき——底板の端が、わずかに浮いた。
「……ここ、二重?」
爪先で押すと、底がすっと外れた。隠し底だ。中から転がり出てきたのは、乾花の小袋と、小さな鍵。鍵は黒ずんでいるのに、歯だけが妙に新しい。
背後で、椅子がきしんだ。
「朝から宝探し?」
ダーテンハーンが、濡れた髪を布で拭きながら覗き込んでいた。布は昨日エリが縫い直したやつで、端がきっちり揃っている。
「宝じゃない。祖母の……用心」
エリがそう言うと、ダーテンハーンは口を尖らせて頷き、わざと小声で言った。
「用心って言うと、急に背中が寒くなるから、僕は“おまじない”って呼ぶ」
「呼び方は、今はどうでもいいです」
リュカが横から声だけ入れた。棚の前で、瓶のラベルを指先で揃えている。昨日から一枚も曲がっていない。
エリは鍵を掌で転がした。金属が冷たくて、皮膚の奥まで沁みる。乾花の袋を鼻に近づけると、金木犀が細く息を吹き返した。
「屋根裏の壁……薄い音がする場所がありました」
リュカが言った。言い終える前に、もう脚立を引き寄せている。まるで床板の隙間に、答えが落ちていると知っていたみたいに。
三人で屋根裏へ上がると、空気が少しだけ重くなった。埃の匂いの奥に、匂いのしない冷たさが混じっている。エリは息を浅くして、鍵を握り直した。
壁の一角に、板目の向きが違う場所がある。リュカが指で叩くと、そこだけ鈍い音がした。ダーテンハーンは「ドン!」と口で言ってから、すぐに口を塞いだ。音が響くのが怖いらしい。
鍵穴は、刺繍布で隠されていた。布には小さく「境界」と縫ってある。エリが鍵を差し込むと、引っかかりもなく回った。扉が薄く開き、奥から紙の匂いがこぼれる。古い紙が、雨の日に少しだけ甘くなる匂いだ。
隠し箱の中には、手紙束と帳面があった。手紙は紐で縛られ、封蝋は割れていない。帳面の表紙には、筆で一言。
『忘れられる呪い 記録』
ダーテンハーンが「うわ」と言いかけ、飲み込んだ。代わりに、手のひらで自分の口を軽く叩いて笑いの形を作る。けれど目は、笑っていない。
リュカは手紙束を受け取り、紐の結び目をほどく前に、角を揃えた。封筒の端を折らないように、紙の下に布を敷く。動きが静かで、周囲の埃まで落ち着く。
「読む順が書いてあります」
帳面の最初の頁に、小さな矢印と番号があった。祖母の字だ。整いすぎていて、怒っているときの字だとエリは思った。
ページをめくると、香り組合の名が何度も出てきた。甘味屋、砂糖、検査、没収。短い文章の間に、糸の図が挟まっている。結び目に向かって、針が一本ずつ伸びていた。
『糸記憶は、香りと甘味でゆるむ』
『わたしの好きなスイーツを言えない夜は、笑いで場を温める』
『最後にほどけるかどうかは、別れのトリガー。相手の幸せを願って手放すこと』
エリは喉を鳴らした。祖母の言葉が、紙の上で冷えている。温める手がいないからだ。
次の頁には、太い線でこう書かれていた。
『香り組合に技を渡すな。渡せば、ほどける夜を売り物にされる』
売り物。涙や息が、値札になる。エリは指先を握り込み、爪が掌に食い込むのを感じた。
「……止め方は?」
声が掠れた。リュカは答える代わりに、帳面の後ろへ進めた。紙の端が少しだけ黒ずんでいる。そこに、祖母の筆圧が強く残っていた。
『呪いは“名”と“別れ”を無理に暴くと増える』
『止めるには、暴かずに手放す作法を縫う』
『誰かを追い出すのではなく、“ここにいる”を選ばせる』
ダーテンハーンが唇を噛み、ふと手紙束の一通を指さした。
「これ、宛名がない。……でも、祖母さんの手じゃない」
封筒の裏に、細い文字でひとつだけ書かれていた。
『この宿へ』
リュカが封を切らず、封筒の上から中身をそっと撫でた。紙が一枚、薄く揺れる。
「封を切るのは、必要なときだけにしましょう」
そう言って、彼は帳面を閉じた。閉じた瞬間、屋根裏の冷たさが少しだけ遠のく。整えられたからだ、とエリは思った。物ではなく、気配が。
エリはもう一度、帳面の最後の頁を開いた。そこだけ、筆致が違う。まるで誰かが震える手で、急いで書いたみたいに、線が細い。
『カリム(仮名) 黒い滲み 境界の内側』
声に出そうとした瞬間、舌が空を切った。音が喉の奥でほどけて、形にならない。エリは慌てて息を吸い、乾花の袋を握りしめた。金木犀の甘さが、鼻先に戻る。
リュカが無言で、帳面の端に紙片を挟んだ。紙片には、細い字で同じ音が書かれている。
カリム。
見える場所に置くように、角が揃えてある。
ダーテンハーンが、膝を折ってエリの目線の高さまで下がった。大げさに胸に手を当て、けれど声は小さく。
「今は、忘れない工夫をしよう。笑って言えるくらいに。……ね、エリ」
エリは頷いた。頷いた拍子に、針箱の鍵が掌の中で軽く鳴る。祖母が残した音だ。
屋根裏の床板が、きい、と鳴った気がした。誰かが息を潜めた気配がする。エリは帳面を閉じ、乾花の袋を胸に押し当てた。呼び名を縫い留めるのは、今日だ。




