第7話 香りの市場で、甘味が消える
昼の市場は、いつもなら甘い匂いが先に客を誘う。焼き菓子の焦げ目、煮詰めた果実、砂糖を焦がした薄い煙。それが今日は、潮と魚と、香水のきつい残り香だけだった。
エリは籠を抱え、石畳の上で足を止めた。甘味屋の屋根から垂れる布看板が、まとめて畳まれている。いつもなら笑っている店主たちが、戸板を閉めたまま口を結ぶ。扉の端に貼られた紙はどれも同じ言葉だった。
——砂糖、入荷せず。
背後で、ダーテンハーンが「ええ……」と呻いた。呻きながら、両手で頬を押さえている。大げさに倒れそうになり、しかし最後の一歩だけはきっちり踏ん張った。
「広場で芝居をやるなら、観客の口を甘くしておくのが作法なんだよ。最後に飴を配れば、涙の前に笑いが残る。なのに、飴が——」
リュカは何も言わず、持ってきた買い物帳を開いた。鉛筆の先で項目を整然と横にそろえ、砂糖の欄の横に小さく二本線を引く。消える、というより、線で囲って保留にする手つきだった。
「代替。蜂蜜、麦芽、干し果実。入手先、三つに分けます」
「助かる……けど、砂糖が無いって、町の機嫌が悪くなるんだよね」
「機嫌が悪くなると、扉を叩く音が荒くなります」
リュカがさらりと言った。エリは、昨夜の強い香りを思い出して喉の奥が少し乾く。市場の角で、女たちが低い声で噂を回していた。
「香り組合が砂糖の札を押さえたんだって」
「甘味屋が閉まれば、夜が荒れるのに」
「甘味がないと、泣きたい人ほど言葉が出ないものね」
エリは噂の輪を抜け、布地の露店へ向かった。祖母がよく使っていた、細い麻糸がある。境界の刺繍を補修するなら、今のうちに買っておくべきだ。
露店の前で、老婆がひとり座り込んでいた。膝の上には古いエプロン。裾が裂け、糸がほつれている。老婆は指先で裂け目を撫で、何かを言いかけては口を閉じた。
エリは、その裂け目に目が吸い寄せられた。布の傷みではない。糸の硬さだ。触れれば分かる。硬い糸は、縫い手の皮膚の下へ、気持ちの残りを押し返す。
「直しますか」
声をかけると、老婆は驚いたように顔を上げた。目の下に小さな影があり、唇が乾いている。けれど返事より先に、両手でエプロンを抱え直した。その仕草が、落としたら終わるものを守るみたいだった。
「……あんた、仕立所の子かい」
「はい。宿のほうも」
「じゃあ……針は、怖い糸も縫えるか」
エリは頷き、露店の端に腰を下ろした。裂け目の端をそろえ、針を入れる。糸が指に触れた瞬間、硬さが骨に響く。息が浅い。喉が締まっている。誰かが背後から首根っこを掴むような、そんな怖さが糸に絡んでいた。
老婆は、縫われていく裂け目を見つめながら、ぽつりと言った。
「砂糖問屋がね、札がなきゃ売らないって。札は香り組合の印。あたしみたいなのは、嗅がれて終わりさ」
「札がないと、誰も買えないんですか」
「買えるのは、香りの強い連中だけ。鼻先で暮らしを決める」
老婆は指先を震わせ、エプロンの胸当てを押さえた。縫い目の下に、茶色い粉の染みがある。黒糖の欠片をこぼした跡だろうか。エリは針を止めずに、染みの周囲をなぞった。布が、そこだけ少し柔らかい。柔らかさは、守りたい味の記憶だった。
「娘がパンを焼くんだよ。黒糖でね。今朝、最後の欠片を削って、子どもに舐めさせた。そしたら、泣かなかった。……泣かないで済む日は、宝だろ」
エリは結び目を作り、糸を切った。縫い目はまっすぐで、裂け目は消えた。老婆は恐る恐る指で触れ、肩の力を少し抜く。
「ありがとう。名前は?」
「エリです」
「わたしは、ノエル。……今夜、宿は静かにしな。香りの強い連中は、甘味が切れると目が鋭くなる」
ノエルはエプロンを抱き、立ち上がった。去り際に、エリの手首を軽く握る。握る力が、糸の硬さと同じだった。
市場の裏手へ回ると、細い路地に香水の匂いが溜まっていた。樽の陰で小さな足音が弾け、次いで荒い靴音が追いかける。
「待て」
「札を返せ」
「おい、逃げるな!」
エリが身を乗り出すより先に、黒い影が路地の奥へ滑った。屋根裏の暗がりにいたはずの女——カリムだ。顔は見えない。けれど歩き方だけで分かる。音を立てないのに、迷いがない。
追われていたのは、十歳くらいの少女だった。籠を抱え、息が切れている。少女が樽の前で足をもつらせた瞬間、カリムが片腕を伸ばした。引き寄せるのではなく、倒れる方向を変える。少女は樽の陰へ転がり込み、咳を噛み殺した。
追う男が二人、香水を強くまとっている。鼻先が敏感なのか、あちこちを嗅ぎ回るように顔を振る。
「さっきまでここに」
「……いま、いたはずだ。どこへ」
カリムは樽の影で、指先を口元へ当てた。少女は頷き、膝の擦り傷を押さえたまま身を縮める。カリムが袖の内側をそっと擦ると、黒い滲みが一瞬だけ布の表に浮かび、すぐ消えた。
男たちの目が、ふっとぼやけたみたいに泳ぐ。
「……何しに来たんだ、俺たち」
「砂糖の札だろ。いや、違う。……まあいい、戻るぞ」
男たちは互いの顔を見て首をひねりながら去っていった。香水の匂いだけが、路地に残る。カリムは少女の籠をそっと持ち上げ、地面の汚れを払って渡した。言葉は少ない。
「……行け」
「……ありがとう」
少女が走り出す。カリムは一瞬だけその背を見送り、影のまま引き返した。エリが声を出そうとすると、リュカが腕を軽く引いた。指先が強くないのに、止まる。
「見られないほうが、助かる人もいます」
「……うん」
宿へ戻ると、少女が玄関前で息を整えていた。膝は汚れているが、目はまだ真っ直ぐだった。ダーテンハーンがしゃがんで、紙袋を差し出している。中身は干し杏。甘いのに、砂糖の匂いがしない。
「砂糖じゃないけど、口の中が少し明るくなる。噛んでごらん」
「……ありがと」
少女が一口かじり、眉を少しだけ上げた。笑う一歩手前の顔だ。エリはその表情に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「お名前は?」
「ミレイ。……市場で、札を拾ったの。落ちてたから、返そうと思ったのに、怒られて」
「札は、香り組合の印だろうね」
リュカが、ミレイの籠の底を覗き込み、破れた布を見つける。布はパンを包むためのものらしく、端が裂けていた。
「直せます」
エリが言うと、ミレイは小さく頷いた。
「……母が焼く黒糖パン。あれが好き。いちばん好き。だけど今日は、作れないって」
エリは台所にミレイを通し、湯を沸かした。乾花の瓶の蓋を開けると、眠っていた金木犀がふわりと起きる。湯気の白に、薄い金色が溶けた。香りは甘いのに、重くない。
湯呑みに注ぎ、ミレイの両手を包むように置く。ミレイは湯気を吸い込み、肩を少し落とした。
「それ、いい匂い」
「ここでは、夜だけじゃなく昼も使う。……怖い糸が固くなりすぎる前に」
エリはミレイの布を縫い直しながら、糸の走りを指で読む。市場の路地の息苦しさが、布の端に薄く残っている。けれど金木犀の湯気が、そこに柔らかい層を作っていく。
ふと、針先が結び目に触れた。ミレイの布の結び目が、ほんの少しだけ緩む。緩んだ隙間から、短い幻が流れた。
——市場の片隅。祖母の笑い声。手には同じ形のエプロン。向かいに立つ若い女が、黒糖を木べらで削り、粉が陽に舞う。二人は何かを交換し、最後に指を絡めて頷いた。名前は聞こえない。ただ、呼びかける声が残る。
『……セシル、焦がしすぎると苦くなるよ』
エリは針を止めた。喉の奥が熱くなる。けれど涙は出ない。出そうになる前に、湯気が目を隠した。
「……お母さん、名前は?」
「セシル。川沿いの小さな店。パンの匂いで分かるよ」
リュカが買い物帳の余白に、細い字で「セシル/黒糖パン」と書いた。ダーテンハーンは、干し杏の袋をもう一つ机に置き、ミレイの膝の擦り傷に布を当てる。布はきっちり折られ、ずれない。
「明日、行こう。パンの匂いのする場所へ。札がなくても笑って入れるように、僕が入口で転ぶ」
「転ばなくていいです」
リュカが即座に言い、ダーテンハーンが胸を押さえて大げさに倒れかけた。
ミレイが、ふっと息を漏らした。笑いとも、泣きともつかない短い音だ。エリは縫い終わった布を差し出し、指先で結び目を確かめた。
結び目はほどけていない。けれど、固さが少しだけ減っている。甘味が消えた町の昼に、香りだけで灯る小さな明かりが残った。




