第6話 整える男、縫い留める女
夜明けの運河は、昨夜より少しだけ青かった。エリは台所の窓を指先で押し、冷たい空気を細く入れる。潮の匂いに混じって、木の床の甘さが戻ってきた。金木犀の壺は、まだ眠ったままの香りを抱えている。
屋根裏で見た黒い滲みが、目の奥に残って離れない。胸の内側で、糸が擦れるみたいにざらつく。あの女の呼び名を思い出そうとすると、舌が空振りする。——短い音で、針先みたいに細い名だったのに。
エリは首を振り、床板の隙間から引き上げた革の帳簿を布で包んだ。渦巻きの刻印が、触れるたびに冷たい。作業台の下の針箱の影へ滑り込ませ、上から糸巻きを二つ置く。隠すというより、縫い留める。
玄関の鈴が鳴った。低く二回。ためらいのない鳴らし方だ。
扉を開けると、香りが先に入り込んだ。花の香りに似せた強い匂いで、鼻の奥がつんとする。黒い外套の男がひとり、胸に渦巻きの紋章を下げて立っていた。
「女宿仕立所だな。香り組合の検査役、ベルトラン」
名乗り終える前に、男は一歩踏み込もうとした。
「いらっしゃいませ。中へは、こちらの確認のあとで」
リュカが横から半歩だけ前に出た。声は低いのに柔らかい。靴先が玄関の石に触れる手前で、ベルトランの足が止まる。止まったことに本人だけが気づいていないみたいに、ベルトランは眉をひそめた。
「香り壺を嗅ぐ。規定の範囲だ」
「承知しました。検査票と、前回の控えを拝見できますか」
「嗅げば分かる」
「嗅いだ結果を記録するために、紙が要ります」
リュカは笑わない。ただ、机の上に白い紙を一枚置き、鉛筆を添えた。ベルトランは舌打ちしながら懐から書類を出す。紙には小さな数字が列になり、押印が二つ。
リュカは紙を受け取ると、目線だけで数字を追った。追い方が、棚の高さを測るときと同じだ。指で触れずに、ずれを見つける。
「……失礼します。こちら、頁番号が一つ飛んでいます」
「何だと」
「ここが二十七、次が二十九です。二十八の控えがない。検査の根拠が抜けたままでは、こちらもお通しできません」
丁寧な言葉なのに、逃げ道がない。ベルトランの頬がわずかに赤くなる。
「そんなもの、後で——」
「後でが守られないと困るのは、宿泊者です。女性のお客様だけが安心して眠る場所ですから」
その瞬間、食堂の奥から派手なくしゃみが聞こえた。
「へっくしょい!」
ダーテンハーンが、なぜかエプロンを前後逆に着けたまま飛び出してきた。胸の紐が背中でぶらぶら揺れている。
「検査役さま! 香りを嗅ぐなら、僕も得意です! 鼻がね、こう、よく利く!」
「黙れ。ここは女の宿だ」
「だから僕は働き手! 誓約、書きました! ほら、ここ!」
ダーテンハーンが紙を差し出しかけ、ベルトランが反射で一歩引いた。香りを嗅ぐ人が紙の匂いを嫌がるのが妙におかしくて、エリは笑いそうになり、口元を手で押さえた。
リュカが誓約書を受け取り、静かに畳んで胸ポケットへ戻す。
「彼は台所の係です。検査の妨げはしません」
「だったら、香り壺を見せろ。全部だ」
「こちらです」
エリは窓辺の小壺を並べた。金木犀の乾花を浸したもの、湯気に混ぜるためのもの、客室の前に置くための小袋。ベルトランは蓋を開け、鼻先を近づけ、短く吸う。吸うたびに「薄い」「古い」と小さく言う。
「ここの香りは弱い。祖母が死んだ家だと聞いた。乱れは起きる」
「香りが弱い夜は、弱いなりの支度をします」
エリが言うと、ベルトランはエリを見て、口角を少しだけ上げた。
「支度? 甘味も出せるのか?」
「出します。必要な人にだけ」
「なら聞こう。——わたしの好きなスイーツ、何だ」
ダーテンハーンが被せるように叫んだ。
「いま言った! いま言いましたよね! 検査役さまも『わたしの好きなスイーツ』を持ってる!」
「持ってない」
「持ってる! 絶対持ってる! 言い当てます! ……砂糖衣のアーモンド!」
「違う!」
ベルトランが思わず声を荒げた瞬間、リュカが淡々と言った。
「今の声量で、近隣から苦情が来ます。検査は静かにお願いします」
ベルトランは咳払いをして、態勢を立て直す。ふと、二階の階段へ視線が滑った。屋根裏へ続く暗がりへ、鼻が向く。
「上も見せろ」
「上は、宿泊者の区域です」
「組合の——」
「ここは、女のお客様だけが泊まります。男性が上がるなら、誓約と立ち入りの理由が必要です。今日は検査役としての香り壺の確認。範囲が違います」
リュカの言葉は終始丁寧だった。けれど、蝶番を直した扉みたいに、ぴたりと閉まる。
ベルトランは書類を見下ろし、飛んだ頁番号をもう一度確かめた。指先で紙をこすり、舌打ちし、最後に外套の襟を立て直す。
「……今日のところは引く。だが次は正式に来る」
「承知しました。頁番号も揃えてお越しください」
「生意気だな」
「数字は生意気になりません」
ベルトランは返せず、強い香りだけを残して去っていった。
夜。食堂の火が静かに揺れるころ、エリは作業台の下から布包みを取り出した。リュカとダーテンハーンが机の前に座る。ダーテンハーンはエプロンをようやく正しく結んでいる。結び目が、やけにきれいだ。
布をほどくと、革の表紙が露わになった。渦巻きの刻印。ページを開くと、数字と品目が並び、その間に、短い一行が挟まっていた。
『女宿仕立所は糸記憶の源』
エリの喉が鳴った。祖母が笑わずに言った言葉が、今になって胸の中で形になる。布と糸は体温と感情を吸い、結び目を作る。ほどけた瞬間に流れる短い幻。——それを狙っている。
「祖母は……守ってたんだ」
エリが呟くと、リュカは帳簿の端を押さえ、紙が折れない角度に整えた。
「守るなら、読む。読まないと、奪われる」
ダーテンハーンが、珍しく声を落とした。
「狙われるなら、味方を増やす。ね、エリ。明日、広場で芝居を打つ。笑いは鍵みたいなものだ。固い扉でも、少しだけ緩む」
エリは帳簿の一行を見つめたまま、針を握った。震えない。紙の文字より、糸のほうがまだ信じられる。
閉店の札を下げ、三人で夜道を少しだけ歩いた。向かったのは、運河沿いの小さな食堂だった。戸口から、焼いたパンの匂いが漏れている。食堂の主人が顔を出し、周囲を確かめるように視線を動かしてから、エリにだけ近づいた。
「……あんたのところ、嗅がれてるな」
主人は声をさらに落とし、耳元で囁いた。
「金木犀が咲く頃、市の掟が変わる。今のうちに、備えな」
エリは頷き、宿へ戻る道すがら、胸の奥で糸がきゅっと結ばれるのを感じた。ほどける夜を守るために、縫い直す夜が来る。




