第5話 誰にも言えない屋根裏
夜の運河は黒く、波の背だけが白くほどけていた。女宿仕立所の窓を閉めると、外の潮の匂いが途切れ、代わりに木の古い甘さが室内に戻る。エリは窓辺のキンモクセイの壺に指を当てた。昼間より香りが薄い。さっき使いの胸で光った紋章が、まだ目の奥に残っている。
食堂ではダーテンハーンが椅子を片づけながら、勝手に舞台の終演挨拶をしていた。
「本日の演目は終わりました! 噂は持ち帰り禁止、拍手は無料!」
「……拍手はいらないから、皿を割らないで」
「割らないよ。転ぶのは得意だけど、割るのは下手だもの」
言いながら、彼は本当に一度よろけて、危うく水差しにぶつかりかけた。エリが目を細めると、ダーテンハーンは何事もなかったように胸を張る。笑わせるための転び方だ。笑いが、針先の緊張を少しだけ鈍らせる。
リュカは最後の戸締まりを確認し、鍵の並びを手の中で確かめた。金属が小さく鳴る。その音は、夜を整える音だ。
「香りが……弱い」
エリが呟くと、リュカは窓辺の壺を見たまま言った。
「弱いなら、守る範囲を狭める。境界の刺繍を、いまより内側に」
「そんなこと、できる?」
「布なら、できる。針がある」
その「針がある」という言い方が、祖母の口癖に似ていて、エリは喉の奥を小さく押された気がした。頷く前に、二階から、きし、と床が鳴った。
誰も上にはいないはずだ。今夜泊まっている女客は、隣の離れの部屋で眠っている。音は、階段のさらに上――屋根裏の方からだった。
エリは灯りを小さくして、階段を上がった。古い木の段は、祖母の体重の癖を覚えているみたいに、同じところで鳴る。エリはその鳴る場所を避けて、つま先で進んだ。息まで細くする。
屋根裏の扉は、少しだけ開いていた。隙間から、外の街灯の光が細い糸みたいに落ちてくる。
「……起きてるの?」
返事はない。けれど、気配がある。窓の近くで、誰かが座っている影。エリが扉を押すと、埃の匂いがふわりと立った。祖母の布、古い箱、使われなくなった刺繍枠。そこに紛れて、匂いのしない冷たさが一滴落ちている。
影の女は窓辺に膝を抱え、外の灯りを指でなぞるように数えていた。灯りはゆらぐのに、指はぶれない。
「……数えて、どうするの」
エリが近づくと、女は顔だけこちらに向けた。目の下に、眠っていない色がある。
「わたしが、ここにいたことを言わないで」
「……言わない。でも、ここは危ない。見つかったら」
「見つかるのは、わたしじゃなくて……宿のほう」
女は言葉の最後を飲み込んだ。飲み込んだまま、唇が少し震える。泣く前の震えではない。名前を呼ばれる前の震えだ。
エリは無理に聞かなかった。代わりに、持ってきた小さな湯呑みを見せた。
「金木犀茶。喉、痛くならないように」
「……匂いが、しない」
「今夜は、香りが弱い。だから、湯気だけでも」
女は湯呑みを受け取らず、手元の布切れを掴んだ。黒い布。刺繍糸で、たった一文字だけ縫われている。乱れていない。むしろ丁寧すぎる。
女は針先を取り出し、自分の指先に当てた。エリが止める前に、ぷつり、と小さく皮が切れる。血が、赤い糸みたいに滲んだ。
「ちょっ……!」
「声、出さないで。……お願い」
血が布に落ちた瞬間、赤が吸い込まれた。吸い込んだところから、匂いのしない黒い滲みが、じわり、と広がる。墨を落としたみたいに、布目に沿って静かに。けれど、その静かさが怖い。
エリの頭の中で、ひとつの音がほどけた。
さっきまで分かっていた呼び名。舌の上にのせられたはずの二音が、熱い湯気の向こうへすべり落ちる。呼ぼうとしても、口の中が空っぽになる。
「……あなた、えっと」
女は、湯気の向こうで、ほんの少しだけ目を細めた。怒らない。責めない。ただ、確認するみたいに。
「言わなくていい。……忘れるのが、いちばん安全だから」
安全。そう言われたのに、エリの背中は寒くなった。忘れることが安全なら、祖母の手つきも、笑い方も、いずれ安全の名の下に消えてしまう。そんな気がした。
そのとき、階段の下で、靴音が鳴った。一定の間隔。迷いのない上り方。リュカだ。
エリは息を吸い、扉の影に身を寄せた。女をかばうように立つと、女はすっと窓から離れ、箱の陰に身を隠した。隠れ方まで静かだ。
扉が軽く叩かれる。
「エリ。上にいる?」
「……うん。屋根裏、掃除中」
言葉が、口の中で少しだけ引っかかった。屋根裏は、祖母が「触るなら昼」と言っていた場所だ。夜に掃除は不自然。でも、リュカの足音が一段止まったまま、しばらく動かない。
「掃除中なら、釘の出た板に気をつけて」
「分かってる」
扉の向こうで、鍵が小さく鳴った。リュカはそれ以上、入ってこなかった。けれど、去らない。近くにいる気配だけが、薄い糸みたいに残る。
エリは振り返り、箱の陰の女に小さく手を振った。待って、という合図。女は頷き、黒い布切れを胸に押し当てた。その押し当て方が、傷を隠すというより、何かを縫い止めるみたいだった。
やがて、階段を下りる音がした。ようやく空気が動く。
エリは床にしゃがみ、さっき自分が踏みかけた場所を見た。板がわずかに浮いている。掃除中、と言ったせいで視線がそこに吸い寄せられたのかもしれない。
指先でそっと押すと、板の隙間が、紙一枚ぶんだけ開いた。中から、乾いた紙の匂いがした。香りではない。記録の匂い。
暗がりの中で、革の表紙がひとつ、角だけ覗いている。表紙の端に、渦を巻く線の刻印。さっきの使いの胸で光った紋章と、同じ形。
エリは喉を鳴らさずに息を呑んだ。屋根裏の空気が、急に重くなる。




