第4話 別れのトリガー
夕方の食堂は、日中の潮の匂いが引いて、代わりに木の床から甘い気配が立ち上がった。台所の奥で、ダーテンハーンが鍋をかき回すたびに、蜂蜜が焦げる一歩手前の香りがふわりと漏れる。キンモクセイの乾いた花を入れた壺は、窓辺で静かに息をしていた。
玄関の鈴が鳴った。二度。途中で一度止まり、もう一度。呼吸の数え方みたいな音だった。
扉の外に立っていたのは、布の袋を抱えた若い娘だった。
「……ここが、女宿仕立所ですか」
娘の確認は小さく、けれど切実だった。袋の口から、白い便箋が角だけ覗いている。娘は靴の先を揃えるように小さく足を寄せ、声を出す前に、喉で一度言葉を折った。
「……泊まりに来たわけじゃないんです。書けなくて」
「紙が?」
「手が」
娘は袋から便箋を一枚出した。文字は一行だけ。そこから先が空白で、空白が重い。指先には、粉砂糖じゃない白い粉がうっすらついている。砂糖を扱う家の匂いがするのに、甘味の強さが足りない。
エリはカウンターの下から刺繍札を取り出し、針を一本、娘の前に置いた。
「今夜だけの呼び名を選んで。そうしたら、空白に触れやすくなる」
「……呼び名」
「本当の名は、必要なときだけでいい」
娘は便箋を見下ろし、言い直すように小さく言った。
「じゃあ、『ソルベ』。溶けるって意味のやつ。——溶けたいから」
エリは札に『ソルベ』と縫い、娘の胸元にそっと留めた。娘の指は紙を掴んだまま、離さない。握りしめるのに、書くのは怖いらしい。
背後で椅子がきしんだ。リュカが無言で机の上を片づけ、便箋が置ける場所を作っている。四隅がまっすぐそろい、角がぴたりと落ち着く。机の上の「逃げ場」が消えた。
娘——ソルベは、椅子に座ったまま、羽ペンを握った。ペン先が紙に触れる寸前で止まる。止まってから、何も起きないのに、息だけが乱れる。
「ほらほら、手紙ってさ、読む練習をすると書けるんだよ」
ダーテンハーンが、鍋の木べらを持ったまま食堂へ飛び込んできた。木べらを指揮棒みたいに振って、椅子を一つ、舞台の真ん中に引っ張ってくる。
「名付けて——手紙の読み方ごっこ! まず、ソルベさんは“相手”役。僕が“手紙”役。読む人は……リュカ、君! 君は堅い紙が似合う!」
「紙は似合わなくていい」
「似合うよ。角が直角だもん」
「……直角は、直すものだ」
リュカは文句を言いながら、便箋を取り上げない代わりに、空白の上に紙を一枚重ねた。透けないようにする仕草だ。覗き込まない、という約束にも見える。
ダーテンハーンは椅子に座り、胸を張って「私は手紙です」と宣言した。エリが反射的に針山を握ると、彼はすぐに続けた。
「違う違う、怖い話じゃない。笑って、肩の力を抜くやつ。ね?」
ソルベの口が、ほんの少しだけ動いた。笑う寸前の形だ。
「読みます」
リュカが低い声で言った。「……ええと。『あなたへ——』」
「そこ、もっと情熱! “あなたへ”って言うときは、魚を売る人みたいに!」
「魚は売らない」
「じゃあ、天気予報みたいに! “明日のあなたへ、雨!”」
ダーテンハーンは勝手に首を振り、机の端にあった塩壺を抱きしめた。
「はい、僕が“泣きたい塩”です! 泣くとしょっぱくなる!」
「塩は、最初からしょっぱい」
「くっ……理屈で刺すのやめて! 僕、しおれる!」
ソルベが、ふっと息を漏らした。笑いとため息の間の音。エリはその音を聞き逃さず、布袋から娘のドレスの裾を引き出した。膝の上に広げると、裾の糸が一部だけほつれている。歩くたびにほどける場所だ。
「裾、少し直すね」
「……はい。どうせ今夜、歩けないから」
娘の言い方が、冗談みたいに軽くて、重い。エリは針を通し、布の縫い目を整えた。祖母の癖の通り、きつく縛らない。ほどける余白だけは残す。
縫い進める途中で、エリは小さな香り袋を取り出した。乾いたキンモクセイの花を少しだけ入れ、裾の裏に縫い込む。歩いたときに、ほんの一瞬だけ香る場所。
「え……そんなところに」
「足元の香りは、逃げ道になる」
ソルベは反論しなかった。代わりに、便箋の端をそっと撫でた。指が白くなるほど力を入れていたのに、今は紙が折れない。
ダーテンハーンが、鍋から小さな焼き菓子を皿に乗せて運んできた。大きさは親指の先ほどで、蜂蜜が薄く照り、真ん中に金木犀の花びらが一枚だけ乗っている。
「一口だけ。ね? 僕が甘さを盗む前に」
「盗むって自分で言うの」
「自白は誠実!」
エリは皿をソルベの前に置き、湯気の立つ茶を注いだ。茶の上に、キンモクセイの香りがゆっくり乗る。食堂の空気が、ほどける速度で動き出す。
エリは、いつもの質問を静かに差し出した。
「わたしの好きなスイーツ。——今日は、何?」
ソルベの目が揺れた。答えを持っているのに、出すと何かが壊れるみたいに。
「……蜂蜜の焼き菓子」
「それ、今、目の前にある」
「でも、うちの店のじゃない。うちのは、砂糖が足りないから……いつも途中で、味が止まる」
言い終わった瞬間、ソルベの肩がわずかに落ちた。言ったこと自体が、手放しの練習になったみたいに。
ソルベが焼き菓子をかじると、蜂蜜の香りが舌の上で広がった。同時に、裾に縫い込んだ香り袋が、熱に反応したようにふっと息を吐く。キンモクセイの香りが、紙と糸と人の間を渡っていく。
便箋の上で、見えない糸が一瞬だけ光った気がした。ソルベの指が紙を離し、羽ペンが、今度は止まらずに下りる。
そのとき、糸から短い幻が流れた。
甘味屋の奥。大きな樽の蓋を開けようとして、手を滑らせた幼い娘。樽の中は空っぽで、砂糖ではなく、白い空気が詰まっている。横で、誰かの手が蓋を支え、落ちるのを止める。指に、丸い跡が残っている。指輪の跡みたいな、焦げの輪。
幻はすぐに薄れ、代わりにソルベの現実の息が戻った。息が戻ると同時に、紙の上に文字が並んでいく。途中で止まりそうになるたび、ダーテンハーンが変な咳払いをして、わざと椅子をきしませた。笑いの針で、空白の布をつつくみたいに。
リュカは黙って、インク壺の位置を二指分だけ近づけた。手が届く範囲を整えるだけ。けれど、それだけで、書き手は転ばずに済む。
ソルベのペン先が、最後の一行の前で止まった。そこが、結び目だった。
「……ここから先が、できない」
声が震えた。けれど、手は紙から逃げなかった。
エリは縫い終えた裾を撫で、針を針山に戻した。目の前の結び目を、誰かの手で引きちぎらない。引きちぎれば、黒い滲みが増える。祖母の手紙帳の癖が、指を止める。
「“相手の幸せを願って手放す一文”が選べたら、結び目はほどける」
「そんなの……きれいごとだよ」
ダーテンハーンが小声で言い、すぐに続けた。「でも、きれいごとって、たまに救いなんだよ」
ソルベは目を閉じ、焼き菓子をもう一口だけ舌に乗せた。蜂蜜が、喉の奥でゆっくり溶けた。キンモクセイの香りが、胸の内側へ降りる。
そして、ソルベは紙に、たった一文を書いた。
「あなたの朝が、甘い匂いに包まれますように。私は、ここで手を離します」
言葉が落ちると同時に、空気が軽くなった。刺繍札の糸が、胸元でふっと緩む。ソルベは泣かなかった。泣けないのではない。泣く前に、息を吸えたのだ。
エリはその息を受け止め、湯気の向こうで小さく頷いた。
「……これで、いい?」
「うん。手放した。——別れのトリガー、ちゃんと押せた」
ソルベは便箋を折り、封筒に入れた。封をする指先は、まだ少し震えている。けれど、震えは、止まらないまま動ける種類のものに変わっていた。
そのとき、玄関の鈴が鳴った。今度は一度だけ。迷いのない音。
扉を開けると、使いの男が立っていた。濡れていない外套。乾いた革の匂い。胸のあたりで、金属の小さな紋章が灯りを受けて光った。渦を巻く線で、香りが囲い込まれている。
「お手紙を。——港へ運びます」
ソルベが封筒を差し出すと、男は受け取った。手つきは丁寧なのに、指先が香り壺の位置を一瞬だけ測った。目が、窓辺のキンモクセイの壺に吸い寄せられ、すぐに戻る。
エリは男の胸の紋章から目を離せなかった。キンモクセイの香りが、急に薄くなった気がする。
扉が閉まると、ダーテンハーンが背伸びをして言った。
「ねえ、いまの人、香りに詳しそうだったね。鼻が、仕事してた」
リュカが低く答える。
「仕事が、しすぎる鼻は、厄介だ」
ソルベは椅子から立ち上がり、裾に手を当てた。香り袋が、歩くたびに小さく揺れる。
「……ここに来たこと、父には言わない。誰にも言えないままでも、今日の私は——歩ける」
「言わなくていい。言う必要がある日が来たら、そのとき縫い直す」
ソルベは頷き、玄関へ向かった。扉の外へ出る前に、振り返って小さく頭を下げる。その動きは、別れじゃなく、次へ行く合図だった。
エリは窓辺の壺に手を伸ばし、指先で木の縁をなぞった。香り組合——ミツが言っていた言葉が、胸の中で針のように尖る。使いの胸の紋章が、さっきからまぶたの裏で光り続けていた。




