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金木犀の鍵と、泣くと記憶が抜ける女宿  作者: 乾為天女


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第3話 宿の掟と、境界の刺繍

 翌朝、運河の霧が薄くなり、港の鐘が二度だけ鳴った。ルリエではその音が「市場が動き出した」の合図になる。エリは女宿仕立所の食堂の窓を開け、昨日の黒糖パンの匂いが残っていないか、鼻の奥で確かめた。残っているなら、誰かの結び目も、まだ少しここにある。


 台所の棚は、昨夜より一段整っていた。缶の向きが揃い、布巾が同じ長さで垂れている。リュカの仕業だ。エリはわざと棚の前を通り、指先で缶を一つだけ、ほんの少し斜めにした。やり返し、というほどの悪意はない。ただ、ここは生きている場所だと知らせたい。


 リュカは何も言わず、斜めになった缶を見て、また真っすぐに戻した。戻し方が静かすぎて、エリは笑いそうになる。笑いを飲み込み、針山を抱えて玄関へ向かった。


 昼前、鈴が鳴った。三回、間を空けずに。扉を開けると、花柄のスカーフを巻いた女が、胸の前で手を組んで立っていた。目だけが忙しい。看板、靴の泥、食堂の椅子、二階の階段――順番に舐めるように見ていく。


 「ここ、女だけの宿なんですって? ほら、最近、町の人がこそこそ言ってるから」

 「言うのは自由。でも、ここで終わり」

 「ええ? いきなり冷たい。私はただ、心配してるのよ。昨夜もね、あなたのとこに、変わった女が来たって――」


 エリは笑顔のまま、針山を机の上に置いた。針がびっしり刺さっている。針先はどれも同じ方向を向き、光が当たると小さくきらめく。


 「ここでは、他人の話はここで終わり。針山より先は、口も足も止める」

 「……その針、私に向けてる?」

 「向けてない。向いてるのは布よ。人じゃない」


 女は一歩退いた。退いたのに、目は前に出てくる。代わりに、声を甘くした。


 「私、泊まってもいい? 女だし。ほら、ここに泊まった人のこと、少しだけ聞かせてくれたら、町の皆も安心するじゃない」

 「安心は、よそで買って」

 「うちは、結び目をほどく夜を用意する場所。最後に“別れのトリガー”を押すのは、本人だけ」

 「買えるの?」

 「甘味屋で砂糖を買うみたいにね。……最近は難しいけど」


 エリが言うと、女は「あら」と小さく笑った。笑いが長い。糸を引き伸ばすみたいに。


 そのとき、ダーテンハーンが食堂の奥から顔を出した。エプロンの紐が背中でほどけかけているのに、本人は気づいていない。彼は女に向かって大げさにお辞儀をした。


 「いらっしゃいませ! 本日の演目は『噂を刺繍しても服はできない』です!」

 「何それ」

 「噂は風で飛ぶ。刺繍は糸で残る。残って困るのは、たぶん噂のほう!」


 女が眉をひそめた瞬間、ダーテンハーンはわざと自分の紐を踏み、ゆっくり前のめりに倒れた。倒れた先に針山がない角度を、ちゃんと選んでいる。床に膝をついたまま、彼は女へ手を差し出した。


 「ほら、こうやって転ぶと、みんなの視線が僕に集まる。すると他人の話題が、いったん休む。便利でしょう?」

 「便利って言うな」


 エリは言いながら、紐を結び直してやった。結び目はきつくしすぎない。ほどける余白を残す。祖母の癖が、指に移っている。


 女は肩をすくめた。


 「じゃあ、泊まるだけ。話はしない。——でも、あなた、名前は? 宿帳に書くんでしょ。私は書けるわよ」


 エリは一瞬、湯気のない場所へ目を逃がしそうになった。代わりに、宿帳をカウンターの下から出し、白い紙を女に見せた。


 「泊まるなら、今夜だけの呼び名を選んで。ここはそういうやり方」

 「呼び名……。じゃあ、『ミツ』。蜂みたいで、甘そうでしょ」


 女は自分で言って、満足そうに頷いた。エリは刺繍札に『ミツ』を縫いながら、針の先で女の息を読む。息が軽い。泣き笑いではない。けれど、笑いがどこか尖っている。


 夕方、ミツは食堂で椅子の背を指でなぞり、二階の廊下を見上げた。境界の刺繍が張られた扉が並ぶ。彼女の視線が、布の縫い目を嗅ぐように動く。


 リュカが無言で玄関の蝶番に油を差し、扉の鳴きを消した。ついでに、二階へ上がる階段の手すりを少しだけ内側へ寄せ、覗き込めない角度にする。釘を打つ音が、必要な分だけ響いた。


 夜。キンモクセイ茶の湯気が立つころ、ミツが言った。


 「ねえ、あなたの『わたしの好きなスイーツ』は何?」

 「今は聞かない。客の順番がある」

 「私は客よ」

 「泊まりに来た人。だけど、今日は別の用で来たでしょう」

 「……なんで分かるの」


 エリは答えず、茶碗を置いた。香りがあるだけで落ち着く夜もある。甘味が要らない人もいる。けれど、ここは秘密を守る場所だ。守り方を間違えると、誰かの結び目は固くなる。


 ミツが唇を尖らせた、そのときだった。階段の上から、布が擦れる小さな音がした。誰かが、ゆっくり降りてくる。足音はほとんどしないのに、空気だけが冷える。


 女が一人、食堂の灯りに入った。長い袖で手首まで隠し、髪は夜の色に溶ける。刺繍札はつけていない。けれど、その人がここにいると、誰もが分かる空気をまとっている。


 彼女は何も言わず、ミツの前に冷たい水の入ったコップを置いた。湯気の立つ茶碗の横に、露がつくほど冷たい水だ。ミツは「え」と声を漏らし、喉を鳴らした。


 「……誰? あなた、ここの人?」

 女は答えない。代わりに、エリのほうを見た。見たというより、目の高さを合わせただけだ。エリはそれで十分だと思った。言葉が要らない夜がある。


 ダーテンハーンが空気を読めずに口を開きかけ、リュカが鍋の蓋を一枚だけ、静かに置いた。音で「黙れ」と言っている。ダーテンハーンは口を閉じ、代わりに自分の唇を指で押さえた。昨日の幻の真似みたいで、エリの胸が一瞬だけ冷えた。


 ミツは冷たい水を一口飲み、顔をしかめた。


 「冷たい……」

 「冷たいのは、噂を冷ますため」


 エリが言うと、ミツは笑った。笑い声は短い。針で切ったみたいに。


 食堂の火が揺れた。エリは立ち上がり、二階へ戻ろうとした女を呼び止めるつもりで、半歩だけ前へ出た。けれど声が出ない。出したら、何かがほどけてしまう気がした。代わりに、袖口のほつれが見えたので、指を伸ばした。


 その瞬間、袖の内側から、匂いのしない黒い滲みが覗いた。布なのに、布の色じゃない。水墨をこぼした跡とも違う。エリの指先が触れる寸前で、頭の中が一瞬だけ白くなる。名前が、喉の手前で消える。


 エリは指を引っ込めた。女は何も言わず、影のように階段を上がっていった。


 寝支度の後、ミツは玄関で靴を履きながら、声を落とした。


 「……あのね。香り組合の男たちが、町を嗅ぎ回ってる。金木犀の匂いを独り占めしたいんだって。あなたの宿のことも、聞いてた」

 「どうして、それを私に」

 「私、噂が好きなの。だから——危ない匂いも、嗅ぎ分けられるのよ」


 ミツはそう言って、スカーフを巻き直した。扉を開けると、夜の空気が入り込み、キンモクセイの香りがほんの少しだけ薄くなった。


 エリは玄関の内側で、境界の刺繍に触れた。糸は張っている。けれど、さっき見た黒い滲みが、まぶたの裏に残って離れなかった。誰にも言えないものが、屋根裏から降りてきた――その事実だけが、針の穴みたいに小さく胸に残った。



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