第2話 わたしの好きなスイーツ
朝の運河は、雨粒で細かく叩かれていた。石畳の上を歩く靴が、ぴしゃ、と嫌な音を立てる。エリは窓を少し開け、外の湿った空気を吸い込んだ。キンモクセイの香りは薄い。昨夜の甘さが、台所の棚の隅にまだ残っているだけだ。
階段を下りると、食堂の机にミナの刺繍札が置かれていた。裏返しのまま。客室の扉の向こうは静かで、境界の刺繍はたるまず張られている。エリは札に触れず、代わりに卓の埃を指で弾いた。触れたいものほど、触らない。そうしておけば、涙の出る順番がずれる。
玄関の鈴が鳴った。短く一回。躊躇のない音だった。
扉を開けると、濡れた外套の男が、大きな荷箱を抱えて立っていた。外套の肩から水が糸のように滴り、木箱の角に小さな紙札が揺れている。紙札には、整った字で「書記官 リュカ」とだけ書かれていた。
「ここが女宿仕立所?」
「そう。……男性の客は泊まれない」
「客じゃない。働き手として来た。誓約が要るなら、先に書く」
男はそう言って、雨で濡れた紙束を胸から出した。紙束の端がふやけているのに、文字はにじんでいない。彼は箱を床に置かず、壁際にそっと寄せる。床を濡らさない位置を、迷わず選んだ。
エリは台所へ案内し、雑巾を差し出した。男は礼を言わずに受け取り、まず自分の靴底を拭いた。次に箱の底を拭き、最後に濡れた外套を脱いだ。濡れた布は椅子に掛けず、窓の枠にきっちり折って置く。風が通る角度まで、指で測るように整える。
「……勝手に並べ替えないで」
「並べ替えたくない。倒れないようにしたいだけ」
「似たようなものよ」
エリが言うと、男は一瞬だけ眉を上げた。笑わない。けれど箱の蓋を開ける手は、余計な音を立てない。中には帳面、細い巻物、鉛筆、糸で綴じた書類袋が入っていた。彼はそれらを台所の棚へ置こうとして、手を止めた。
「どこまで触れていい?」
「……作業小屋と食堂。客室の階段より上は触らない」
「了解。線を越えない」
彼はそう言って、自分で棚の端に指先を当て、ここまで、と見えない線を引いた。線を引くのに声が要らない人だ、とエリは思った。
雨は昼まで降り続いた。リュカは作業小屋の古い机を拭き、棚のがたつきを直し、台所の鍋の位置を「手が届く順」に並べた。エリは何度も「その棚は祖母の——」と言いかけ、言葉を飲み込んだ。祖母の名を出すと、胸がからむ。からんだ糸は、ほどけるまで痛い。
夕方、雨が止む前に、もうひとつ鈴が鳴った。今度は、二回。鳴らしたあと、わざと少し間を空けて、もう一回。扉の向こうから、わざとらしく咳払いが聞こえる。
エリが開けると、男がひとり、足元の水たまりで派手に滑ったふりをして、両腕を広げた。倒れない角度で止まる。濡れない距離で帽子をくるりと回す。
「いまの、見た? 見たよね? 危うく運河と親友になるところだった!」
「運河は友達を選ぶと思う」
「じゃあ、僕はまだ選ばれてない。安心した」
男は笑いながら、鞄を持ち上げた。中から木べらが一本出て、彼はそれを剣のように構える。
「旅芸人ダーテンハーン。働き手に応募してきた。条件はひとつ——台所に立つ権利」
「芸で稼げばいいのに」
「笑わせるのは得意だけど、腹を満たすのは下手なんだ。だから、ここで学ぶ」
エリが返事をする前に、リュカが背後からひょいと顔を出し、ダーテンハーンの木べらを見た。目だけで「それは鍋を傷つける」と言っている。ダーテンハーンはすぐに木べらを下ろし、両手を上げた。
「はいはい。武器は使いません。僕は平和主義です」
そう言いながら、彼はわざと小さな声で「こわ」と付け足した。リュカは表情を変えずに、鍋の蓋を一枚だけ、静かに置き直した。音で返事をする人だ。
夜。宿に新しい女客が来た。雨上がりの靴跡をつけるのも嫌そうに、玄関で足を拭く。背筋を伸ばし、こちらをまっすぐ見て瞬きが少ない。けれど、刺繍札を差し出すと、指が一瞬だけ震えた。
「今夜だけの呼び名、どうします?」
「……要らない。そんなの、子どもみたいだ」
「子どもは、寝る前に甘いものをねだる。大人は、寝る前に黙る」
「黙るほうが得意よ」
女は言い切って、刺繍札を受け取らない。エリは針山を机の上に置き、代わりに湯を沸かした。香りだけでも落ち着く人はいる。甘味の話をしなくても、夜は進む。そう思った。
ところが、ダーテンハーンが台所から鍋を持って現れ、鍋を頭に載せた。
「本日の演目! 『甘いものなんてない』の巻! 主役は、いま目の前で眉間に皺を縫ってるお客様!」
「誰が主役よ」
「あなた。僕は脇役。脇役のほうが長生きする」
女が睨むと、ダーテンハーンはわざと椅子の脚に足を引っかけ、ゆっくり転び、転んだまま手だけで拍手をした。転び方が上手すぎて、怒りが行き場を失う。
「……転ぶの、得意ね」
「得意だよ。好きなものは二つある。ひとつは転ぶこと。もうひとつは、転んだあとに誰かが笑うこと」
女の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。エリはその瞬間を見逃さず、湯気の立つ茶碗を差し出した。
「キンモクセイ茶。甘くない」
「……香りは、嫌いじゃない」
女は一口飲み、視線を逸らした。食堂の隅に掛けた古い外套へ、目が止まっている。あの丸い焦げ跡のある外套だ。女の瞳が、そこだけで止まった。
エリは外套を手に取り、焦げ跡を隠すように畳み直した。すると、女がぽろっと言った。
「黒糖パン……昔、港の裏の店で焼いてた。あれは、甘いっていうより、焦げの匂いがする」
言ったあとで、女は唇を噛んだ。言うつもりじゃなかった、という顔だ。ダーテンハーンがすかさず頷き、大げさに胸に手を当てる。
「黒糖パン! 決定! 本日の『わたしの好きなスイーツ』、出ました!」
「言ってない。……言ってないはず」
「言った。今、言った。僕の耳は、笑いより先にパンを聞く」
エリは笑いそうになり、慌てて台所へ向かった。砂糖は貴重だが、黒糖なら少し残っている。小麦粉をこね、火を起こす。生地の匂いが立つころ、雨上がりの湿気が甘さに変わり、食堂の空気が柔らかくなる。
焼き上がった小さな黒糖パンを皿に載せて戻すと、女は黙って見つめ、やがて一口だけ齧った。噛んだ瞬間、肩がふっと落ちた。固く縫い留めていた糸が、ほどけたように。
「……昔、弟がね。甘いのが好きで。私の分まで食べた」
「今も、弟さんは甘いのが好き?」
「……好き。たぶん。……もう、会ってないけど」
女の声が最後で揺れた。エリは針山に手を置き、待つ。別れのトリガーは、こちらが押してはいけない。
キンモクセイの香りと、黒糖パンの甘さがそろった。食堂の火が揺れ、糸の気配が動く。外套の裏地の固さが、指先で少しだけ変わった。女の胸の奥の結び目も、同じように緩む。
その瞬間、短い幻が流れた。暗い部屋。誰かが誰かの口元を手で押さえている。押さえられた方の目が、必死に「言うな」と訴えている。声は出ない。出したら、何かが消える気がする。
エリは息を飲んだ。幻はすぐに消え、代わりに女の現実の呼吸が戻る。
誰にも言えない言葉を、誰かが喉の奥に押し込めたまま歩いている。そんな気配が、火の揺れに混じった。
女は黒糖パンをもう一口齧り、皿を置いた。そして、まるで自分に言い聞かせるように言った。
「弟が、どこかで笑ってるなら……私は、ここで手を離す。——あの子の朝が、軽くなりますように」
言葉が落ちると同時に、女の肩から力が抜けた。刺繍札を受け取らなかったはずの胸元に、見えない糸が縫い留められていたのが、ほどけて消える。エリはその息を受け止め、湯気の向こうで小さく頷いた。
女は立ち上がり、扉の前で振り返った。
「明日、港へ行く。……黒糖パンの匂いを、もう一度探す」
「見つかったら、食べて。見つからなくても、香りは残る」
女は「そうね」とだけ言って、客室へ向かった。
食堂に残ったダーテンハーンが、静かに木べらを置いた。
「ねえ、エリ。あの幻、今のは——」
「聞かない。ここでは、他人の秘密はここで終わり」
言ってから、エリは自分の声が祖母に似たことに気づき、少しだけ笑った。リュカは棚の上の茶葉缶を一つ、きっちり中央に直す。まるで「今夜はこれでいい」と言うように。
外套の丸い焦げ跡が、闇の中でわずかに光った気がした。




