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金木犀の鍵と、泣くと記憶が抜ける女宿  作者: 乾為天女


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第19話 誰にも言えない、さよなら

 闇が落ちるのは、窓の外からではなかった。

 女宿仕立所の星形灯籠の芯が、見えない指に摘ままれたように細くなり、壁に落ちていた星の影が、じわりと溶ける。次に、廊下の足音が一つ、止まった。止まった瞬間だけ、床板がきしむ音がやけに大きい。


 「……隣の通り……」

 魚屋の母親が言いかけ、言葉の端を噛んだ。口を開けたまま、目だけが泳ぐ。甘味屋の娘は、握っていた黒糖パンの包みを胸へ押し当てた。呼吸が浅くなるたびに、布の縫い目がすこしずつ引っ張られる。


 境界刺繍の線が、床から壁へ、墨のように滲んでいく。糸の間を通っているのは、液体ではない。見ているはずのものが、見たはずのまま残らない感覚だけが、じりじりと這う。


 外から、くぐもった笑い声がした。派手な香りが、閉じた扉の隙間から刺さってくる。香り組合の男の匂いだ。鼻の奥が痛いのに、誰も顔をしかめる余裕がない。


 リュカが机の上の紙束を両手で押さえた。暗闇でも、角が揃う位置へ指が迷いなく落ちる。彼は低い声で言った。

 「みんな、呼吸を数える。息が乱れると、頭の中の道が細くなる」

 命令ではない。けれど、言われた通りにしたくなる声だった。


 ダーテンハーンは、ふざけた調子を出そうとして、喉で止めた。帽子を握りしめ、星形の砂糖菓子の袋を探る。指先が震えて、紙袋がくしゃりと鳴った。

 「……星、割れないって言ったのに。暗いと、僕の星、どこ行った?」

 その一言が、怖さの角を少しだけ丸くした。甘味屋の娘が、泣く手前で息を吸い直す。


 そのとき、二階から、かすかな足音が落ちた。音が薄い。足裏が床に触れないみたいに軽い。

 屋根裏の扉が開き、黒い滲みを袖に抱えた女が、暗がりへ滑り降りてきた。


 エリは喉の奥で名を探した。見つからない。探しているはずなのに、指先が空を掴む。けれど、女の目だけは見える。灯りがなくても、こちらを見返す目の湿り気が分かる。


 「……私が、消えれば終わる」

 女はそう言い、胸元を押さえた。押さえた指の下で、布がふっと沈む。そこにあるはずの形が、抜け落ちたみたいに。


 エリは問いたださなかった。掟を破って、暴かない。言葉を針にしない。

 代わりに、両手を開いて見せた。針も糸も持たない手だ。手のひらには、糸の跡が薄く残っている。


 「ここ、座って」

 エリは食堂の隅の長椅子を指した。女は一歩下がりかけ、膝がふらつく。リュカが椅子の脚を押さえ、音を立てずに安定させた。ダーテンハーンは黙って、鍋の近くへ移動する。笑いを出す代わりに、火の番をする顔だ。


 エリは乾花の瓶を開け、キンモクセイをひとつまみ取った。闇の中で香りは弱い。弱いからこそ、鼻が探しに行く。鍋の湯気が立ち上がり、遅れて、キンモクセイの香りが戻ってきた。


 「わたしの好きなスイーツ、教えて」

 エリが尋ねると、女は一瞬、口を開くのをためらった。言った途端、削られるのが怖いのかもしれない。

 それでも、女は目線だけをダーテンハーンの帽子へ向けた。


 ダーテンハーンは帽子の中から、星形の砂糖菓子を一つ取り出した。両手で持ち、割れないように、でも二つにできる角度を探す。角が折れないように、角と角の間で、ぱきりと割った。

 「……半分こ。僕の得意技。失敗すると、心が粉になるから、今日は丁寧に」


 女は半分を受け取り、唇に触れさせた。噛む音は小さい。けれど、その小ささが、喉の奥の詰まりをほどいていくのが分かる。湯気が砂糖の甘さに絡み、食堂の空気を少しだけ柔らかくした。


 エリは女の袖口の黒い滲みへ視線を落とした。滲みは境界刺繍の線と同じ速度で動いている。糸の道を辿り、言葉の道を潰す。

 エリは針箱を開けた。針を出さない。代わりに、白い布切れを一枚、女の前へ置いた。そこには何も縫っていない。


 「言えないなら、言わなくていい。ここにいるだけで、縫い目は残る」

 エリが言うと、女の肩がほんの少し落ちた。荷物を下ろすときのように。


 外でまた、笑い声がした。扉の向こうから、鍵をいじる金具の音が聞こえる。境界刺繍の滲みが、壁の上へ伸びる。灯りのない天井が、さらに低く感じられる。


 女は、砂糖菓子の欠片を指で押さえた。力の入れ方が、刺繍の糸を切らないように触れるときのそれに似ていた。

 「……ここにいたことを、言わないで」

 女は小さく言った。けれど、今度は言葉が途中で落ちなかった。


 エリは頷く。その頷きに、誓いの針はない。あるのは、椅子の温度だけだ。


 女は目を閉じ、息を吸った。キンモクセイの香りが、鼻先を撫でる。砂糖が舌の上で溶ける。喉の奥に、言葉の道が一本、戻ってくる。


 「……幸せでいて」

 女は言った。誰に向けたのか分からない。けれど、向け先が分からないからこそ、言葉はまっすぐだった。


 その瞬間、黒い滲みが、袖口からふわりと浮いた。糸の間に絡んでいた影が、手放されるみたいに緩む。

 別れのトリガーが、静かに働いたのだと、エリは体で分かった。胸の中の結び目が、引きちぎれずに外れる感覚。


 滲みは天井へ吸い込まれるのではなく、糸に沿ってほどけていった。ほどけるたびに、何かが戻る。さっきまで思い出せなかった通りの名が、魚屋の母親の口からこぼれた。


 「……海風通り」

 母親は言って、両手で口元を押さえた。涙が出たのに、同時に笑ってしまって、頬が忙しい。


 星形灯籠の芯が、ぱちりと音を立てた。火が戻り、影が戻る。壁に落ちていた星が、また床に二つ降りた。

 ダーテンハーンが、胸から息を吐き、わざとらしく肩を落とした。

 「よかった……僕の星、帰ってきた。帰り道、ちゃんと覚えてたんだね」

 その言い方に、食堂の誰かが小さく笑った。笑いは、恐怖を笑いものにしない形で、胸の内側を温める。


 リュカは扉へ向かった。鍵の前で一度だけ立ち止まり、背中越しに言う。

 「今は外へ出ない。境界が戻った直後は、糸が柔らかい。引っ掛けると裂ける」

 彼は扉を開けず、代わりに蝶番へ指を当て、音の出る箇所を確かめた。戻った灯りの下で、その指先はいつも通り落ち着いている。


 エリは長椅子の横に残り、女の手元を見た。砂糖菓子は半分だけ残っている。食べ切らないのは、忘れないための印なのだろうか。

 女はエリを見上げ、やっと、口元だけで笑った。笑いは小さい。けれど、今夜ここに座ったことの重さを、隠さない笑いだった。


 エリの喉の奥で、引っかかっていた音が、すっと戻った。

 「……カリム」

 呼んでも、滲みはもう広がらない。カリムは一度だけ瞬きをし、目を伏せたまま頷いた。答え方が、名前を借りるのではなく、自分で持ち直す仕草だった。


 窓の外で、風が変わった。運河の匂いに、遠くのキンモクセイの気配が混じる。まだ咲いていないのに、咲く前の気配だけが町をなぞる。


 そして、ほどけた影は消えたのではなかった。

 床に落ちた星の影の端から、細い糸が一本、外へ向かって伸びていく。誰かの胸の中へ、忘れていた名へ、帰り道を示す糸として。



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