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金木犀の鍵と、泣くと記憶が抜ける女宿  作者: 乾為天女


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第18話 市の掟、女たちの掟

 朝の港は、潮の匂いにパンの焼ける甘さが混じっていた。女宿仕立所の玄関前に、木靴の音が三つ並ぶ。扉の外で、紙が風に鳴った。


 「市役所から通達だ。『香りの管理』のため、金木犀の鉢を回収する」


 役人の男は、胸の札を指で叩き、後ろの荷車を顎で示した。荷車の上には麻布が積まれ、縄がきつく締められている。縄の結び目が、誰かの指に慣れている形だった。


 エリは鍵束を握り直し、扉の内側に立った。針を持つ時の手つきで、落ち着く場所へ指を置く。作業台の角。木のささくれ。そこに、祖母が何度も触れた跡がある。


 「鉢は、客室の前の境界刺繍に必要です。勝手に持ち出せません」

 「境界だと? そんなもの、紙には載っていない」


 役人は通達書をひらひら揺らした。紙の端に、小さな渦巻きの押印が見える。香り組合の印だ。エリはそれを見ても、顔に出さなかった。代わりに、胸元の刺繍札に触れた。


 食堂から、女たちが一人、また一人と出てきた。魚屋の母親は匂い袋を胸に付け、甘味屋の娘は黒糖パンを包んだ布を抱えている。彼女たちの刺繍札には、昨夜それぞれが選んだ呼び名が縫い止められていた。


 ダーテンハーンは最後に現れた。肩から星形の紙灯籠を二つぶら下げ、片方は逆さに揺れている。

 「おはようございます! 回収? 回収って、拾うってことですよね! じゃあ僕、昨日落とした笑いも拾っていいですか!」

 「黙っていろ。回収は没収だ」

 「えっ、もっしゅう? それ、もっちゅう……餅の話ですか?」


 甘味屋の娘が、思わず口元を押さえた。魚屋の母親の肩が小さく揺れる。笑いがひとつ起きると、役人の眉がぴくりと動いた。


 リュカが、紙束を抱えて前に出た。紙の角が、朝の光で揃って白い。

 「失礼します。没収の根拠を確認します。市の条例番号、施行日、対象範囲、補償の有無。通達書には、組合の押印だけで、市の押印がありません」

 「市が組合に委ねた。香りは乱れるからな」

 「委ねるにも手続きが要ります。ここは宿で、登記があります」


 リュカは一枚、また一枚と紙を並べる。宿の登記、境界刺繍の由来、客の安全に関する取り決め。紙は乾いているのに、並ぶと机の上が整って見えた。


 役人は紙を覗き込み、舌を鳴らした。

 「女の宿など、余計な手間だ」

 エリはその言葉を聞くより先に、刺繍札の糸を一本だけ抜いた。針先で、ぷつりと。札が落ちる。次に、魚屋の母親が自分の札を外した。甘味屋の娘も外す。女たちは札を掌に乗せ、胸の縫い目を見せた。縫い目の内側に、細い線で境界が走っている。


 「ここは、女が自分の名を選べる場所です」


 エリは言い切り、外した札を役人の目の高さへ差し出した。札の裏には、小さく『わたしの好きなスイーツ』と縫われている。役人の鼻が、反射で空気を吸った。金木犀の香りは弱い。けれど、ここにいる女たちの息は強かった。


 役人は視線を逸らし、荷車の縄を握った。

 「……なら、広場で説明会だ。市民の前でやる」


 昼前、石畳の広場に人が集まった。魚の籠を抱えた女、洗濯籠を持つ女、荷を背負う男たち。誰もが、鼻先で今日の空気を測っている。金木犀の鉢が回収されると聞けば、宿だけの話ではない。


 役人が台に立ち、通達を読み上げた。

 「香りは秩序だ。秩序が乱れれば、町が乱れる」

 その後ろで、香り組合の男が腕を組み、わざとらしく深呼吸した。周囲の人が鼻をしかめる。


 ダーテンハーンが、台の横に星形灯籠を置いた。灯籠の紙は薄いのに、星の角がくっきりしている。彼は帽子を取って一礼し、声を張った。

 「みなさん、香りは秩序だそうです! じゃあ僕の話も秩序にします! 題して——『別れの言葉と笑い』!」


 役人が止めようとしたが、すでに観衆の目がダーテンハーンへ吸い寄せられていた。ダーテンハーンは、紙に書いた短い台詞を配り始める。紙には名はない。代わりに、誰でも言える言葉だけが並んでいる。


 「一、ありがとう。二、幸せでいて。三、泣くなじゃなくて、泣いていい。四、わたしの好きなスイーツは——」


 甘味屋の娘が、紙を握ったまま立ち上がった。喉が動き、声が出る。

 「……黒糖パン」


 その言葉に、いくつかの女が頷いた。魚屋の母親は、次の行を読んだ。

 「幸せでいて」

 言った瞬間、母親の目尻が濡れた。けれど彼女は袖で拭い、同時に笑ってみせた。笑いは照れ隠しではなく、胸の縫い目を守る手つきだった。


 ダーテンハーンは観衆の中を滑るように歩き、わざと石に躓いて転んだ。転ぶ前に、帽子だけが先に落ちる。帽子の中から砂糖菓子が転げ出て、子どもが「星だ!」と叫んだ。砂糖菓子は星形だった。


 「ほら、落ちても星は割れない!」


 笑いが広場に広がる。笑いの中で、女たちが一行ずつ言葉を重ねる。「ありがとう」「幸せでいて」「今日はここにいる」。名は出さない。けれど、誰かの胸の中にある名が、勝手に削られていくのを止めるように、言葉が縫い合わさっていく。


 リュカは笑わず、台の下で役人へ書類を差し出した。

 「回収の対象範囲に宿の備品が含まれるなら、補償と代替手段が必要です。境界刺繍が壊れれば、宿泊者の安全が損なわれる。市の責任になります」

 「……責任?」

 役人が言葉を噛んだ。観衆の視線が役人へ向く。香り組合の男が咳払いをし、役人の袖を引いた。


 役人は通達書を握り潰しかけ、紙を整え直した。

 「今日は……持ち帰る。検討する」

 「検討の期限を書いてください」

 リュカは鉛筆を差し出す。役人は渋い顔で日付を書き、署名した。書く手が、慣れていない。


 夕暮れ、女宿仕立所へ戻ると、広場の笑いがまだ耳に残っていた。エリは戸口の星形灯籠をそっと吊るす。灯籠の影が壁に揺れ、星が二つ、床に落ちた。


 「今日は勝った?」

 甘味屋の娘が小さく聞く。

 エリは返事を急がず、キンモクセイの鉢の土を指でならした。根が冷えないように。花が咲く前に折れないように。

 「今日は、持っていかれなかった」


 夜半。裏口の方で、木がきしむ音がした。次に、金具がこじ開けられる乾いた音。リュカが机の下から灯油を抱え、火の具合を確かめに行こうとした瞬間、灯りがふっと細くなった。


 食堂の星形灯籠が、一つ、また一つと暗くなる。蝋の芯が、見えない指でつままれたみたいに。


 「……来た」


 ダーテンハーンが囁き、手を上げて皆を止めた。女たちの呼吸が揃う。闇の向こうで、誰かが笑った。香り組合の男の香りが、壁越しに刺さる。


 そのとき、境界刺繍の線が、床から壁へ黒く滲み始めた。糸の間を、墨が走るように。


 「隣の通り……名前、何だっけ」


 魚屋の母親が呟いた。甘味屋の娘が口を開くが、言葉が途中で落ちる。エリは針を握りしめ、闇の中でキンモクセイの鉢へ手を伸ばした。星は外にある。けれど、宿の中の星が消えた。



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