第17話 影の王女と香り組合
夜更け、食堂の火が小さくなったころ、エリは祖母の記録帳を開いた。紙は古いのに、文字だけは妙に新しい。触れた指先が、ひやりとする。
リュカが椅子を引き、帳面の端を押さえた。ページが勝手に戻らない角度だ。ダーテンハーンは湯気の立つ鍋の前で、焼き菓子の端をちぎっては皿へ並べている。誰かが黙ってしまったとき、甘い匂いは話の代わりになる。
帳面の中ほどに、王家の印が写し取られた紙片が挟まっていた。輪の紋。金糸の婚礼衣装で見た意匠と同じ形だ。
「離縁の手続き。……相手の名は伏せられてる」
リュカが言う。声は低いのに、紙の中へすっと入る。
「でも、この署名の癖は……王家の書記のものだ」
エリは喉を鳴らし、次の行を追った。
『“忘れられる呪い”は、境界刺繍を伝って認識だけを削る。名を奪うのではない。名を思い出す道を塞ぐ』
さらに下に、短い注意書きがある。
『誰にも言えない本名を暴かれたとき、呪いは強くなる』
エリは思わず、屋根裏の暗がりを見た。あの黒い滲みの奥で、布が別の布を覆っていた。覆い隠されるほど、向こうは守られているはずなのに、こちらの記憶が削られる。
ページをめくると、見覚えのある仮名が出た。
『カリム。王家の娘。離縁と同時に“影”へ落とされた』
その次に、香り組合の名前が続く。
『香り組合は王家へ取り入り、呪いを“香りの儀”として売る算段。ほどける夜を金に変えるつもり』
エリは帳面の文字を追いながら、屋根裏で見た横顔を思い出した。窓の灯りを数える指。靴を音のしない位置へ揃える仕草。誰かに見つからないようにする動きが、長い間、体に染みついている。
エリはふいに、祖母の針箱の底にあった小さな紙片を思い出す。『名は刃になる。名は布にもなる。渡し方を選ばせなさい』思い出しただけで、喉が少し渇いた。
もしカリムの“本当の名”をここで口にしたら、守るための糸が逆に締まるかもしれない。香り組合が欲しいのは、王家の名と、離縁の証拠と、呪いを売るための正当な口実。だからエリは、帳面を閉じるでも開くでもなく、指で端をそろえた。
守るやり方を、本人に選ばせる。泣くか泣かないかだけじゃなく、名を出すか出さないかも。
ダーテンハーンが、焼き菓子を一枚、エリの前に置いた。
「紙ばっかりだと胃が縮む。食べて。食べながら怒ればいい」
エリは噛んだ。甘さが広がる。胸の中の糸が、切れない程度に張る。
そのとき、裏口が三度、軽く鳴った。扉を開けると、夜の湿った空気と一緒に、女が二人立っていた。市場の甘味屋の娘と、魚屋の母親だ。胸元には、小さな刺繍札が縫い付けられている。
「ここ……まだ、あるよね」
魚屋の母親が言い、視線を逸らしたまま、手の中の布切れを差し出した。布切れには、縫い目がほどけかけた名札がついている。触れると、匂いが薄い。
「うちの子がね、帰ってきてから、隣の通りの名前を言えなくなって……笑うとごまかすの。怖いのに」
甘味屋の娘は、小袋をいくつも抱えていた。
「砂糖、まだ押さえられてる。でもね、黒糖なら少しだけ。好きな人がいるの。だから……わたしの好きなスイーツは黒糖パンって、ちゃんと言える場所が欲しい」
エリは頷き、針山を食堂の中央へ運んだ。
「今夜は、縫いましょう。ここで。女宿仕立所の机は、泣く人のためだけじゃなくて、思い出す人のためにも使える」
リュカが紙を三枚出した。宿の決まりを書き足した紙だ。名前を嗤わないこと。聞いた話を外へ運ばないこと。誰にも言えないものを、勝手に暴かないこと。
魚屋の母親は字を読まず、指で紙の端を揃えた。それから、黙って印を押した。甘味屋の娘も、震えながら印を押す。
ダーテンハーンが、鍋の蓋を開ける。金木犀の乾花を湯に落とすと、遅れてキンモクセイの香りが立ち上った。
「今夜の合図。香りが来たら、手を動かす。止まったら、甘いのを一口」
彼は自分の口へ先に放り込み、わざと頬を膨らませた。
「ほら、口が塞がると余計なこと言わない!」
笑いが小さく起きた。けれど、笑いは軽くない。針を進める手の震えが、少しだけ治まる。
エリは布袋に花を入れ、縫い口を二度返しで留めた。袋の外側に、短い言葉を縫う。
『わたしの好きなスイーツ』
それは合言葉であり、思い出すための糸だった。香りと甘味が揃う夜は、別れのトリガーだけじゃない。戻るきっかけにもなる。
翌朝、リュカは役所へ向かった。港の石段を上がる背中は、荷箱を抱えるときと同じ角度で揺れない。エリは窓から見送り、針を布へ刺したまま待った。
昼すぎ、リュカが紙の束を抱えて戻ってきた。紙の上には、宿の登記と境界刺繍の由来が、誰にでも読める言葉で整っている。
「これで、“無かったこと”にされにくい」
リュカは言い、紙の角を揃える。角が揃う音が、頼もしさに聞こえた。
夕方、町の女たちは縫った匂い袋を胸に付け、通りへ出た。魚屋の母親は、隣の通り名をゆっくり言い直し、甘味屋の娘は黒糖パンを小さく切って配った。誰かが受け取りながら、目を伏せて呟いた。
「……ここ、忘れたくない」
その場の少し離れたところで、香り組合の男が立ち止まった。派手な香りをまとい、胸には渦巻きの紋章。視線が紙束と匂い袋を行き来する。
男は薄く笑い、手の中の通告書を指で弾いた。金木犀が咲く頃、市の掟を変える——そんな文言が、夕暮れの風にかすかに鳴った。
エリは気づかないふりをし、匂い袋の縫い目を指先で確かめた。切れないように、ほどけるように。誰にも言えないものを守るために、町の中へ糸を伸ばす。




